社長だより vol.7

【寺内・八橋周辺 その1 菅江真澄の墓】

 旧国道を八橋から面影橋を渡って土崎にむかう途中、寺内に入ると“古四王さん”がある。
菅江真澄の墓碑鳥居を右に見て土崎側に車1台がやっと通れる下りの小道がある。土地の人は“旧羽州街道だ”と言っている。4、5分歩くと、右手に「高清水霊泉」の案内がある。さらに下り、最低部の小川にかかる「伽羅橋(きゃらばし)」を渡るとすぐ右に急な階段が見える。70段近くもあろうか、矢竹を左に見て、登りきると急に東西の視界が開ける。その北東側に菅江真澄の墓碑がある。

 菅江真澄は三河の人で、「江戸時代後期の国学者、紀行家で日本民俗学の先駆者ともよばれる*1」。天明4年(1784)頃来住、「自然・民族・歴史・考古・文学と学問に幅広く、観察力に富み、絵筆を駆使して紀行文や日記、随筆などを書き残した*2」。秋田市内にも秋田県連合青年会が多くの『菅江真澄の道』として標柱に和歌を添え建立しており、歴史を遺す秋田自慢の「散策道」でもある。

墓碑一文

 お墓は門人と言われる鎌田家の墓域にある。墓碑をみていると、多くの門人が菅江真澄を前に各地の風俗習慣などを聞き入っている一人のような錯覚におちいる。モノクロのNHK「新日本風土記」をみているようで、豊かな自然と共存していた往時の営みが、幻とも思えないようにみえてくる。墓碑名の周りには流麗な文字が刻まれている。この“一文”をところどころ指でなぞって模写、読んでいるとなおさら静かなざわめきにときめいてしまう。通りがかった旅人も馬を繋ぎ聞き入ることだろう。碑文のわきには、「文政十二年己丑(1829)七月十九日卒 年七十六七*2」とある。
(*菅江真澄の紹介の*1はあきた青年公論 菅江真澄、*2と“一文”は公人の友社 ふる里道しるべ 飯塚喜市編著 から引用した)

H25.11月