社長だより vol.24

【象潟へ向かう その3 人それぞれ】

蚶満寺境内の芭蕉像東京の知人から「変貌した象潟をもしも芭蕉が目の当たりにしたらどんな涙を流すのでしょうか」、さらに続けて「歴史は大きな単位で総括すべきなのでしょうが、ヒトのなせる技は弱者を泣かせてばかりのような気がします。軽挙妄動にはしらず、絶景に立ち止まる心のゆとりがあれば・・・」とご意見がありました。悠久な歴史の積み重ねは人々に何を託すのだろうか?(写真は蚶満寺境内の芭蕉と西施の石像)
蚶満寺境内の西施石像
西湖(中国浙江省杭州市)という名湖がある。「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」として、松島の冒頭に登場する。象潟は松島に相対させるように「江山水陸の風光数尽して」 と秋田県民にとって実に鼻が高い修辞な書き出しだ。また、東京の知人は上海駐在時代に西湖に足を運ぶたびに「西施」 に出会う揺らぎでときめいていたようです。「西施」は救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女として、芭蕉は松島に比べて『恨むがごとし』と象潟の風景に似通うものとして「象潟や 雨に西施がねぶの花」の句を遺している。(蚶満寺境内の「西施」説明を参照。また、句碑には「きさかたの雨や西施かねふの花」とあるが、曾良の旅日記もこの形でその後芭蕉が推敲して今の形に直したといわれる*1)

「西施」をおもう芭蕉を司馬遼太郎はこう書いている。「・・・花は羽毛に似、白に淡く紅をふくんで、薄明の美女をおもわせる。つかのまの合歓がかえって薄明を予感させるために、花はおぼろなほどに美しいのである。芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、西施の壮絶なうつくしさと憂いを思い、それをねぶの色に託しつつ合歓という漢語を使い、歴史を動かしたエロティシズムを表現した。・・・*2」
歴史を丹念に調べ上げ、足で確認しての考察には心がひらく。描き出された秋田県散歩を遺してもらってよかった。

象潟の景色
菅江真澄遊覧記の「秋田のかりね」にある芭蕉の名は、『冬枯れたねむの木のかたわらに「象かたの雨やせいしかねぶの花」と記しているのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。・・・』くらいだ。歌枕を巡った能因・西行への思いは感づるものの、「西施」や特に芭蕉を意識した風はみえない。象潟も各地と同じく九十九島の情景や住民の暮らしぶりを克明ともいえるように丹念な筆致とスケッチで残している。「行きかう人はアツシ(アイヌの着物)という蝦夷の島人が木の皮でおり、縫って作った短い衣を着て、小さい蝦夷刀(まきりという小刀である。蝦夷人はこれをエヒラという)を腰につけ、火うち袋をそなえていた。釣する漁師は、たぬの(手布である)に顔をつつみ、毛笠をかぶって、男女のけじめもわからず、あちこちに船を漕ぎめぐっていた*3」とある。9代藩主、佐竹義和(よしまさ)から藩命を受けて地誌編纂はわかるが、それ以前は何のため各地を巡り、その風俗・習慣を書き残したのか不思議だ。しかし、その多くの著作は重要文化財として秋田の宝物になっている。真澄が見たものと同じものに出会う静かな動悸はなんとも心地よい。この後、真澄は秋田に北上せず、本荘から西馬内を経て湯沢で冬籠りをしている。詳細な記述と相まってその行脚は謎が深まるばかりだ。
秋田の料理菓子
今年の会社発表会に秋田の料理菓子をお土産につかった。左から、雲平の丸鯛・餅の鶴・餡の亀。子供の頃、姿鯛であればどこをもらうかで一喜一憂したものだ。このほかのお祝い菓子に焼き菓子もあった。形は1種類で鯛だ。かじると歯が折れるような硬さに閉口したが、今は作る職人がいないそうだ・・・。

*1 おくのほそ道をたどる(下)井本農一 角川文庫
*2 街道をゆく二十九 司馬遼太郎 朝日新聞
*3 菅江真澄遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫