秋田東北商事株式会社

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2016年12月の記事一覧
2016.12.01 | 社長だより

社長だより vol.24

【象潟へ向かう その3 人それぞれ】

東京の知人から「変貌した象潟をもしも芭蕉が目の当たりにしたらどんな涙を流すのでしょうか」、さらに続けて「歴史は大きな単位で総括すべきなのでしょうが、ヒトのなせる技は弱者を泣かせてばかりのような気がします。軽挙妄動にはしらず、絶景に立ち止まる心のゆとりがあれば・・・」とご意見がありました。悠久な歴史の積み重ねは人々に何を託すのだろうか?(写真は蚶満寺境内の芭蕉と西施の石像)

蚶満寺境内の西施石像
蚶満寺境内の西施石像

西湖(中国浙江省杭州市)という名湖がある。「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」として、松島の冒頭に登場する。象潟は松島に相対させるように「江山水陸の風光数尽して」 と秋田県民にとって実に鼻が高い修辞な書き出しだ。また、東京の知人は上海駐在時代に西湖に足を運ぶたびに「西施」 に出会う揺らぎでときめいていたようです。「西施」は救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女として、芭蕉は松島に比べて『恨むがごとし』と象潟の風景に似通うものとして「象潟や 雨に西施がねぶの花」の句を遺している。(蚶満寺境内の「西施」説明を参照。また、句碑には「きさかたの雨や西施かねふの花」とあるが、曾良の旅日記もこの形でその後芭蕉が推敲して今の形に直したといわれる*1)

「西施」をおもう芭蕉を司馬遼太郎はこう書いている。「・・・花は羽毛に似、白に淡く紅をふくんで、薄明の美女をおもわせる。つかのまの合歓がかえって薄明を予感させるために、花はおぼろなほどに美しいのである。芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、西施の壮絶なうつくしさと憂いを思い、それをねぶの色に託しつつ合歓という漢語を使い、歴史を動かしたエロティシズムを表現した。・・・*2」
歴史を丹念に調べ上げ、足で確認しての考察には心がひらく。描き出された秋田県散歩を遺してもらってよかった。

象潟の景色
菅江真澄遊覧記の「秋田のかりね」にある芭蕉の名は、『冬枯れたねむの木のかたわらに「象かたの雨やせいしかねぶの花」と記しているのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。・・・』くらいだ。歌枕を巡った能因・西行への思いは感づるものの、「西施」や特に芭蕉を意識した風はみえない。象潟も各地と同じく九十九島の情景や住民の暮らしぶりを克明ともいえるように丹念な筆致とスケッチで残している。「行きかう人はアツシ(アイヌの着物)という蝦夷の島人が木の皮でおり、縫って作った短い衣を着て、小さい蝦夷刀(まきりという小刀である。蝦夷人はこれをエヒラという)を腰につけ、火うち袋をそなえていた。釣する漁師は、たぬの(手布である)に顔をつつみ、毛笠をかぶって、男女のけじめもわからず、あちこちに船を漕ぎめぐっていた*3」とある。9代藩主、佐竹義和(よしまさ)から藩命を受けて地誌編纂はわかるが、それ以前は何のため各地を巡り、その風俗・習慣を書き残したのか不思議だ。しかし、その多くの著作は重要文化財として秋田の宝物になっている。真澄が見たものと同じものに出会う静かな動悸はなんとも心地よい。この後、真澄は秋田に北上せず、本荘から西馬内を経て湯沢で冬籠りをしている。詳細な記述と相まってその行脚は謎が深まるばかりだ。

秋田の料理菓子

今年の会社発表会に秋田の料理菓子をお土産につかった。左から、雲平の丸鯛・餅の鶴・餡の亀。子供の頃、姿鯛であればどこをもらうかで一喜一憂したものだ。このほかのお祝い菓子に焼き菓子もあった。形は1種類で鯛だ。かじると歯が折れるような硬さに閉口したが、今は作る職人がいないそうだ・・・。

*1 おくのほそ道をたどる(下)井本農一 角川文庫
*2 街道をゆく二十九 司馬遼太郎 朝日新聞
*3 菅江真澄遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫

2016.12.01 | 事務美貌録

第十一回投稿 新・いなさなな日記 番外編 (次回から“いなさななかま日記”へ改名します。)

 はじめまして。当社の営業事務“いなさなな”の責任者の“こ”♂です。個性豊かな(良く言えば)当社営業事務の“事務美貌録投稿”も数える事11回。一読でもされた方々に感謝申し上げます。お気付かと思われますが“備忘録”をあえて“美貌録”と文字掛けしたタイトル。「よくもまぁ自分らで・・」と呆れる方もいらっしゃると思いますがご勘弁下さい。「女性が元気な職場は良い職場」というコラムもありますが、元気な事は決して悪いことではありませんよね。しかし時折、元気過ぎれば仇となり、罵声?激励?しながら営業事務改善委員会というチームで運営しております。女性の活躍が期待される現代、活かすも枯らすも上司次第?!上司のみなさん!背中で泣いて頑張ってゆきましょう!!(笑点の山田氏風に・・)

 女性に関わるエピソードでいえば私事で申し訳ありませんが、亡き祖母が裁縫でこしらえたカードケースを遺品として預っていた。終戦も体験した祖母は享年89歳。他界して7年目となる。手先がわりと器用な祖母は裁縫が趣味の1つであった。そのカードケースに1枚の紙切れが入っており、それには現代で云う“あいうえお作文”が記されていた。

 “あ”はあせるな。“お”は奢るな。“い”は威張るな。“く”はくさるな。“ま”はまけるな。
 ものまねで有名な芸能人コロッケ氏のお母様の名言である。(“お”は少し違うが、当時流行った教えか?それとも年齢は祖母が上だが感銘を受けて記したものかは不明・・・)

 祖母は気丈で情に厚く、世話好きで竹を割ったようなさっぱりした性格。「自分がやっていない事をやったと言われたらどこまでもかかって行け!」「千人行けども我行かん!決して流されない芯、強い気持ちを持て!」「勝って兜の緒を締めよ!」等うんざりしたが、幼い頃幾度となく聞かされた祖母の口癖は、未だ怨念!?のように耳に残っている。

 一見、気性の荒いだけにみえるが、口数の少ない祖父(こちらも他界した)を立て、時に乙女のような繊細さも備え、生前一家を縁の下の力持ちとして支えていた。昭和とは概ねこのようなスタイルではなかっただろうか?

 単純に比較は出来ないが、現代はどうであろうか?そもそも美徳と云われるスタイルも多種多様。情報、モノの溢れる現在、どれだけの人がポリシー(信念)を持って家事、育児、仕事、人に接しているであろうか?男性も然り、私も自信は無い。“人や環境のせいにする責任逃れ。自らの保身の為に装う偽善。私欲が暴走。愚痴ばかり。すぐ諦める。生気が無い。”一つ間違えばどれも皆、背中合わせに抱えている心の闇のような気がする。その闇を断つのに、あくまでも私にとってだが「あおいくま」という伝言(遺言)が映える。

 楽しさ豊かさと引き換えの代償。苦しさ貧しさの代償。どちらが人を強く大きく成長させるだろうか?こちらも比べようが無いが、戦争も体験し命の尊さを知る世代から、困難に正面から向かう姿勢、厳しさ。「優しさだけが強さでは無い。強さが無ければ守れないものもある。」という点と、それでも楽しみながら人を育てる優しさを過去から学ぶ点は数多く、考えさせられる課題が現代にあるような気がした。

 しんみりと水を差してしまいましたが、次週から新たに“か”さん、“ま”さんも加わり更にパワーアップして「いなさななかま日記」として投稿を続けてゆきますので今後ともご愛顧のほど宜しくお願い致します。

 

             以上「いなさなな日記」番外編 “こ” でした。