秋田東北商事株式会社

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2016年10月の記事一覧
2016.10.03 | 事務美貌録

第九回投稿 新・いなさなな日記

いよいよ10月、冬が少しずつ近づいてまいります。冬季スポーツといえば、やっぱりフィギュアスケート!今年は平昌オリンピックのプレシーズン、各選手はオリンピックを見据えたプログラムを用意してくるでしょう。

  さて、フィギュアスケートの歴史的な戦いといえば、2010年バンクーバーオリンピックの浅田真央VSキム・ヨナでしょう。歴史に残る名勝負でした。2人はジュニアのときから比較され常にライバル視されていました。2人とも19909月生まれ、4人家族で姉が一人、姉と一緒にスケートを始めました。身長・体重も同じで、2人とも国を代表する人気選手。一般的に技術の浅田、表現力のキムと言われています。

  結果はみなさんご存知のとおり、キム・ヨナ選手が金メダリストになりました。10点以上差をつけて圧勝、さらに世界歴代最高得点を更新しました。浅田選手にミスはありましたが、そんなに点差がつくミスでしたでしょうか。なぜキム・ヨナ選手は圧勝したのか、ほんのちょっと(あくまでも一ファンとして)お話したいと思います。

 

 浅田選手はシニアに上がってからすばらしい成績を収めていました。しかし、オリンピックシーズンの2009-2010年は不調でした。体が丸みを帯び、身長が伸びていました。女子は1cmでも体型がかわるとジャンプが飛びにくくなると言われます。ジャンプが飛べないままシーズンに突入、オリンピック出場も疑問視されていましたが、全日本選手権で優勝しギリギリ切符を手に入れました。

 浅田選手の代名詞はトリプルアクセル(=3A)、女子選手では世界で一人しか飛べない最高難度の必殺技。そのジャンプをオリンピックという大舞台で1試合に3回も飛ぶ快挙を成し遂げました。(ギネスブックに登録されています。)具体的には、ショートプログラムの初めの連続ジャンプで10.10点獲得しています。キム・ヨナ選手はトリプルルッツ(=3Lz)の連続ジャンプで12点を獲得。あれ?何かおかしくありませんか?最高難度のトリプルアクセルより難度の低いジャンプに高い得点が出ています。ジャッジのミスでしょうか?いいえ、ジャッジミスではありません。これが現行制度のカラクリなのです。

ジャンプは基礎点に評価点を加算して算出されます。

 基礎点評価点合計
浅田3A+2T

9.50

0.60

10.10

キム3Lz+3T

10

2

12

 トリプルアクセルは最高難度である故に厳しくジャッジされてしまい、得点が伸びにくいのです。では、トリプルアクセルを回避して、トリプルルッツで勝負すればいいのではないかと思いますが、当時の浅田選手はルッツジャンプを苦手としていて、試合に入れていませんでした。だからこそトリプルアクセルに掛けるしかなかったのでしょう。

 対してキム・ヨナ選手はトリプルアクセルを飛ばず、次に得点の高いルッツジャンプで手堅く得点を積み上げ、オリンピックという舞台で完璧な演技をし、優勝しました。つまり、現採点方式を徹底的に分析し、トリプルアクセルを飛ばなくても勝てるプログラムを作り、それを実現したのです。 

まだまだ話したいことは山ほどありますが、そろそろ時間が迫ってきました・・・

昨年、復活した浅田選手。平昌オリンピックを目指すと公言しましたが、一ファンとしては、彼女のスケート、彼女の笑顔を見られるだけで幸せです。今シーズンもテレビの前で応援しています!!以上 2番目のなでした。こちらの書籍を参考にしました。

2016.10.03 | 社長だより

社長だより vol.22

      【象潟へむかう その1 人それぞれ】

海
海2

 酒田から帰る時、吹浦(ふくら)に差し掛かれば、象潟を目指し いた芭蕉がここで風雨にあい、そのまま泊ったことを想う。翌日、 (元禄2168981日)「酒田の湊より東北の方、山を越え、 磯を伝い、いさごをふみて、其の際十里、日陰やゝかたぶく比、汐 風真砂を吹上、・・*1」と“おくのほそ道”にある。“東北の方を 通れば大幅に回り道のはず、そんな道を選ぶわけはない。できるだ け最短であろう、東北とは菅江真澄(*4)の言う剣竜山を指すの だろう”。吹浦を通れば決まってそんな思いになる。写真上は県境にある三崎 山から見た、海沿いの難所。そして象潟へ続く砂浜、下は曾良(そら)と通ったであろう三崎山の峠道。道幅は一人がやっとだ。ここを歩いたんだ・・・

岩
服

実際、芭蕉の時代の旅はどんなものだったのか?古い股旅物映画しかイメージは湧かないが旅支度は「紙子一衣(左)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ※2」とある。しかし、長旅、それも未知の土地へともなれば細々あるだろう。

 必要最低限のものは身に付けて行くとすれば、「扇子、針と糸、懐中鏡、日記帳、櫛、鬢付け油、提灯、ろうそく、火打ち道具、懐中付木さらに頭巾・  風呂敷・足袋、脚絆、枕、雨具、草履、傘、箸、茶わん*3」など何も持たずにぶらり気ままな旅を楽しむなどは到底できないことは確かだ。雁風呂の心持があったと思う。 

 秋田は日本一多い国指定重要無形民俗文化財を誇るが、菅江真澄がした紀行文のおかげと言われる。『秋田のかりね*4』(天明49 ~12 月)925日(雨)に「剣竜山を下って、しばらくのうちに吹浦という磯の館につく。人の往来が繁かった。ここの関所に入り、田で用意した関手形を改めて旅人を通している。島崎の浜、滝の浦を歩いて女鹿の関に到り、関手形を渡した。椿ばかり生い茂る岩面の道に入り、やがて下って三崎坂に出た。・・*4」とある。この三崎山周辺『有耶無耶の関(うやむや)』があったようだがはっきりとしない。椿ばかりというが、これはタブの木と思う。藪椿も見えるが、北国には珍しいタブの自生の林だ。菅江真澄も芭蕉が通ったこの道をたどったのだろう。それにしても、紀行文にあるその土地の暮らしや習慣・行事など克明な記述と風俗・民具のスケッチには舌を巻く。そして、内田武志の編訳も年表・行程(左)  などが付記され実に編集が丁寧だ。

本

  司馬遼太郎は、秋田空港(旧雄和町)から画家の須田剋太と個人タクシーで、象潟に向っている。「街道をゆく 二十九」に次のように書いている。『・・いっそもっとみなみにゆき、南の県境近くの象潟の蚶満寺(かんまんじ)を訪れようと思った。「よほど距離がありますか」「一時間ほどすこしかかります」「きさかたへゆくか」と、つぶやいた。・・・さらに南下して金浦(このうら)という浜辺の町をすぎるころから、左側の地形が、陸であるのに海であるかの印象をあたえはじめた・・*5』この後、蚶満寺の熊谷住職さんとの話などが始まるが、秋田の人にはことのほかこの風景描写、実によくわかる。

 私にとって初めての名勝象潟は秋田市立土崎小学校5年生、秋の旅行であった。汽車、(SL)で向かったと思う。象潟は羽越本線だからきっと秋田駅で乗り換えしたんだろう。“独特な島”の印象はその時から畏敬の対象として特別な感情が今も続いている。

*1  おくのほそ道をたどる(下)象潟 井本農一 角川文庫
*2,3 國文學 おくのほそ道とは何か 第34号巻6号 森川 昭 學燈社
*4  菅江真澄 遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫
*5  街道をゆく二十九 秋田県散歩 司馬遼太郎 朝日新聞