秋田東北商事株式会社

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2017年03月の記事一覧
2017.03.01 | 社長だより

社長だより vol.27

【小野のふるさと その3】

  “「百人一首」は藤原定家という一世の歌の大家が、百人の歌人の歌を一つずつ集めたものだが、この言い方はおかしいようだ・・百人の歌人が一堂に集まり、「僧正遍照、お前は初めの五句を考えろ、おれ、業平が次を作るから。字は小野小町に書かせろ」、というぐあいにして一つの歌を作りだした、という意味になりそうだ・・「百人一首」は「百人百首」といった方が、理屈にあった言い方ではないか?*1”、と、金田一晴彦氏。そういわれればその通りだな~。

小町絵

 小野小町の伝説は全国に実に多い。“花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に”と百人一首にあるが、三十六歌仙に数えられた知性と美貌を兼ね備えた平安の美人(小町絵*2)。その出生は秋田が担っていることを改めて菅江真澄遊覧記で得心した。真澄にとって小野小町の旧跡を訪ねることはかねてからの望みであったようで、日記に一人の人・一つの地名も含め今まで読んできた中では随一のボリュウムで記されている。

09_39②

  天明五年(1785)“42日、天気はよいが風が冷ややかので、重い冬の衣をいくつも重ねて着た。いつになったらこの衣が脱げるのだろう。まだ花が咲かないで花の香りにそまない袂なので、まして春のなごりをおもえないのも当然である*3。”414日、真澄は小野小町の古跡を尋ねようと湯沢をたち、小野村で三十八代続く金庭山覚厳院(のちに熊谷神社を再建をする)の住職などから濃密に残るその出生などを聴いている。“取材”は憧れの人への想いだろうか。そんなことを思い浮かべ、古跡巡りをすると頭巾をかぶった真澄の後姿がみえてくる。   
  小野地区には、古戸(小町の母の墓)、走明神(小町の父良実の氏神)、桐ノ木田(小町誕生の地)、小町清水(小町姿見の地)、熊野神社(良実の建立で小町の詠んだ歌を奉じ和歌堂とも言われる)、平城跡(深草少将居城)、御返事橋(少将が恋文を送りその返事を待っていた場所)、桐善寺(良実の菩提寺)岩屋洞(小町臨終の場所:自作の自像が現存)など数々の遺跡が残る。

「出生」は出羽の郡司小野良実と郷士松田治朗左衛門の娘大町子とのあいだに生まれたという。“はっきりしないことであるが、小町姫は鹿のうんだ子であるという。そのわけは、良実に、この世にないほどの美しい女が通ってきていたが、その女ははらんで産み落としたのち、鹿の形を現わしたとも言い伝える*4”
「雨乞い小町」“小町姫は九つの年(十三歳とも言われる)に都に上り、また年頃になってからこの国に来て植えられた芍薬というのが田の中の小高い所にあります・・これは九十九本あって花の色はうす紅で、他の芍薬とはいささか異なるという・・枝葉をほんのわずか折っても、たちまち空がかきくもりやがて雨が降ります。まことに雨乞い小町でしょうと語った*5”と、ある。

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「二ッ森」は“小町が在世のとき、深草少将の塚を築かせ、自らの塚も前もってこの塚に並べて作らせて、わたくしが世を去ったなら、必ずここに埋めるようにと言い残して亡くなった*6”という(見ずらいが写真手前が二ッ森の遠景、左が女森・右男森)
「岩屋洞」“岩屋というところに老いてから小町がしばらく住んでいたと語り、また、聞き伝えられる歌として「有無の身やちらで根に入る八十島の霜のふすまのおもくとぢぬる」、これは小野小町が詠んだものである*7”、と。(この付近雄物川が流れ氾濫して多くの小島があったという)

  「小野のふるさと」の終盤に“小町の締めくくり”と言えるような印象的な記述がある。
426日、“はなだ色(うすいあい色)の布を厚くさして着た、たいそう清らかな女が老女にともなわれて行くのは、小野(雄勝町)の人である。ああ美しい女だと人々は見守っていた。小町姫のゆかりが残って、むかしから今に至るまで、小野村にはよい女がでてくるとは聞いていたが、これほどの美女は世にあるまいと・・*8”
この後、29日に真澄は北へ旅立ち、秋田へは享和元年(1801)に再訪することとなる。小野村のすぐ北にあるブランドの“三関のせり*9”、真澄は鍋物で舌ずつみをうって出立しただろうか。

1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(17721781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。隠れた名品そのものだ。

平成29.3月

2017.03.01 | 事務美貌録

第十四回投稿 新・いなさななかま日記

★いなさななかま日記★ 3月号

 突然ですが、皆さんはどんな秋田弁が好きですか?

私は迷わず、「あいー、すかだね」と答えます。

 私の母は宮城県出身なので秋田弁はあまりしゃべりません。父は秋田県人ですが、私がこの言葉をよく聞いたのは、父ではなく父方の叔母です。たまに遊びに行くと、お土産を受け取って「あいー、すかだね」、「ご飯を食べで来ながった?あいー、すかだね」、TVのニュースを観ては「あいー、すかだね」、世間話の相槌代わりに「あいー、すかだね」とにかく「あいー、すかだね」を連発する叔母でした。しまいに「あえすか、あえすか」と省略してしまってました。それが子供の頃の私の耳には小気味よく感じられたものです。
 秋田弁をご存知ない方のために、「あいー、すかだね」の意味を説明しますと、「あら、どうしましょう」、「仕方がない」、「どうしようもない」、「本当にお気の毒」といった意味になるかと思います。発音の仕方によって微妙に意味が変わるところも面白いです。同情のような慰めのような感じがまたいいんです。
 ある時、小学生の娘が「あいー、すかだね」と言うようになり、不思議に思っていると、担任の先生がよく使うということで、一時期真似をして使っていました。ですがどうもしっくりきません。言葉が浮付いているというか、自分のものになっていないんですね。やはり、方言って何度も何度も使っていくうちにだんだん染み付いてくるものだと思います。
 以前、息子の通う保育園のお茶会教室に参加した時の話です。お茶の先生が、お茶菓子について、園児たちに説明していました。「今日のお菓子は、むずがすぃー名前のお菓子だから、お家に帰って、お家の人に話すときは、おいすぃーお菓子だったよ、と話して下さいね。」と。その「おいすぃー」の秋田弁がとても聞き心地良くて、その場が和やかになりました。
 そういえば、関東へ嫁いだ友人が、東京駅でたまたま聴いた秋田弁が懐かしくて嬉しかったと話していたなぁ。方言には、ほっこり優しく包むような暖かさがあるんですね。
 いつか私も上手に言えるようになるのかなぁ。
 話が長くなりました。「あいー、すかだね!!!」

                                                                               以上、3巡目のIでした。

※ 文字にすると伝わりにくいので、参考まで音声でお伝えします♪    

生秋田😆 (アイコンをクリックすると音声が流れますので音量にご注意下さい。)