秋田東北商事株式会社

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2014年03月の記事一覧
2014.03.04 | エコムジャーナル

青森だより vol.10

 2月の全国的な大雪の影響がまだ続いております。この大雪で被害に遭われた皆様、お見舞い申し上げます。これを書いているのは2月下旬ですが、青森市は3月下旬並みの陽気で、とても暖かい日です。幹線道は乾燥路面ですが、道のわきにはまだ雪が高く積まれております。
  
 2月13日に父親が他界いたしました。葬儀の際には、たくさんの参列、お悔やみを賜り、ありがとうございました。

 今回はこのことについて感じたことを書かせていただきます。

 葬儀の準備で弔辞を父の幼馴染の方に依頼することとなり、父に関しての情報を伯父やいろいろな方から伺いました。父が生まれた頃の家の状況、親戚、友人、学生時代、仕事、結婚、趣味・・・。自分の知らないことだらけでした。このことで、ある程度父の足跡はわかりましたが、そこにいたる父の考えや思いまでは、さすがにわからないものですね。
 父の足跡に大きな影響を与えた祖父や兄弟、どのような考えで旧制中学へ入学したのか、自転車店に就職したのは親戚を頼って就職したのかまたは商売として選んだのか、どのような思いで独立し、取引会社をどのような視点で選んだのか。母との結婚や40歳を過ぎてからどうしてバドミントンを始めたのか・・・
 例えば、家業の場合、事の初めは、他愛もない理由かもしれませんが、小さな田舎町では商売を生業にしている人が多い中、自転車修理・販売からバイク・オート三輪、軽自動車・普通自動車と商材が変わり、事業の大部分を「スズキ」と共に歩み、現在にいたっております。商売のきっかけ、商材の選択、取扱メーカーの選択、資金繰り、顧客とのつながり、設備投資、人材雇用等、どのような考えで、どのように対応してきたか。また、親戚との関係など、詳しく聞いておけばよかったと後悔しております。
 元気な時には気にもとめずに当たり前のことと感じていたことを、父の死によりとてもおろそかにしていたことに気づきました。これからは、いろいろな人からお話を伺い、父の足跡に肉付けをできればと思います。

 お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんがご健在の方は、たまにはこのような家族の歴史について聞いておくことをお勧めいたします。

 話し伝えること、聞き覚えることの重要さを実感いたしました。(T.H)

H26.2月

2014.03.04 | 社長だより

社長だより vol.9

【寺内・八橋周辺 その3 史跡秋田城址】

 “寺内の高清水”と言えば、「奈良朝の秋田城址を中心とした史跡群が点在するところ」とぼやっと浮かぶ程度だ。しかし、史跡メモをみながら歩くと、勅使館・神屋敷・高清水霊泉・東門院跡・四天王寺跡・五輪の塔など当時の史跡があるある・・。地名でも綾小路・大小路・五輪坂、また、時の征夷大将軍の坂上田村麻呂にまつわる将軍野・幕洗川・大刀洗川・幣切山などの地名も数多くみられ、史跡丘陵地“高清水”は歴史好きにはたまらないタイムスリップポイントだ。

高清水丘陵

 この地に中央の勢力が直接及ぶのは、大化の改新後の斉明天皇四年(658)阿部比羅夫が軍船180隻を率い秋田浦にやってきたことに始まる。秋田城が最初に歴史に登場するのは、『続日本紀』の天平五年(733)に「出羽柵を秋田村高清水丘に遷し置く」だそうだ。秋田城は最初『出羽柵』という名称で呼ばれ、山形庄内地方から北の“高清水”に移され北辺拓殖基地となった。 

秋田城址

 “高清水”は起伏の多い独立丘陵で、標高は最も高いところで約50メートル。発掘調査から、秋田城址はこのような丘陵地の標高30メートル以上の高所を中心に構築され、二重の囲いからなっている。外郭と呼ばれる外側の囲いは基底幅約2.1メートル、高さ3メートル前後で粘土や砂を交互に叩きしめながら積み上げ、瓦をのせた土塀、京都・奈良の古刹でよくみられる築地塀だ。出入りのための門が普通四箇所に作られるそうだが、秋田城址では東門だけが発見されている。

政庁跡

 東西南北の最も長い直線距離は約550メートル。この外郭に囲まれたほぼ真ん中に東西94メートル・南北77メートルの築地塀に囲まれたところに政庁がある。秋田城の中心的施設で様々な儀式や国内外の使者などの接待を行ったりした場所で、白壁の正殿跡が確認されている。

 斑鳩の里からはるか辺境の地は蝦夷の抵抗、「元慶の乱(774)・天慶の乱(939)」を経て、中世にはその役目を終え、日本海からの強風に運ばれてきた飛び砂に埋められ、人々の新しい営みにより姿を変え、長大な築地塀も白壁の政庁も記憶から忘れられていった。昭和33年からの発掘調査で、律令制度や『続日本紀』の記述を裏付ける貴重な木簡などが多数出土している。
 外郭内に居住していると、秋田城は「もののふ」の砦というよりか雅の文化を辺境の地にもたらしているような雰囲気に浸ってしまう。ことに地平線からのぼる中秋の名月を背景にした東門は一層その趣をかきたてる。今は、雪に朱の門が映え、歴史の悠久さにすっぽり埋まっている。
(参照:金曜会編 史跡秋田城址・飯塚喜市ふる里道しるべ・あなたの知らない秋田県の歴史・平凡社秋田県の地名)

H26.2月