秋田東北商事株式会社

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2021年03月の記事一覧
2021.03.01 | 社長だより

社長だより vol.73

 今月も冒頭は「新型コロナウイルス」の経過について記載する事となります。全国的には緊急事態宣言の発出後、感染確認が減少傾向に転じていますが、首都圏では減少の鈍化が問題となっています。一部の地域では緊急事態宣言解除もされており、現在では4都県(東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県)が該当となっている状態です。秋田県内では2月5日以降、感染者が確認されていません。そして3月1日時点で感染者数の累計が268名(症例として累計は269例)で入院者数も3名といった状況です。秋田県内においては新型コロナウイルスの猛威は沈静化している状態だと思われます。しかし、まだまだ予断を許す事の出来ない状況です。このような状況下においても「新型コロナウイルス」は身近に潜んでいると常に意識して、面倒であっても今まで同様に感染防止対策の「マスクの着用」「手洗い(消毒)」「うがい」を確実に行ない、クラスター発生の予防である「三密」を回避した生活「withコロナ」を心掛けましょう。そして絶対に“誹謗中傷”はやめましょう。決して感染された方が悪い訳ではなく、誰にでも感染する可能性はあります。個々人の取組みや意識が感染拡大防止の重要な要素になりますので、今まで同様に充分に注意していきましょう。

 毎回記載していますが、ご自身の家族や生活もある中で未知のウイルス「新型コロナウイルス」と戦い続け、感染者を日々支えて救い続けて頂いている医療従事者並びに関係者の皆様と治療薬やワクチンの開発に尽力して頂いている研究者の皆様、本当に敬服致します。日本国内でも医療従事者に対してワクチンの先行接種が始まりました。未だ逼迫した状況に変わりはありませんが、くれぐれもご自愛下さい。

 ある情報誌を読んでいると「三菱の歴史的明訓」の言葉を目にしました。そのまま当社の創業に深く関わりのある“三菱”についての特集記事を読んでいきました。そこには三菱グループの根本理念である「三綱領(さんこうりょう)~“所期奉公”“処事公明”“立業貿易”」について書かれてありました。この「三綱領」とは1920年、当時の第4代社長であった岩崎小彌太様の訓示をもとに作られたそうです。又、この考え方は三菱の起源である1870年の海運事業を起こした時より受け継がれている考え方だそうです。更に2018年4月には「三綱領」の精神を受け継ぎ、明確にするためにビジョン・ミッションを制定していました。

【三菱グループ三綱領】※【】内は“ビジョン・ミッション”になります。

●『所期奉公』(期するところは社会への貢献)

【事業を通じ、物心共に豊かな社会の実現に努力すると同時に、かけがえのない 地球環境の維持にも貢献する。】

●『処事公明』(フェアープレイに徹する)

【公明正大で品格のある行動を旨とし、活動の公開性、透明性を堅持する。】

●『立業貿易』(グローバルな視野で)

【全世界的、宇宙的視野に立脚した事業展開を図る。】

 恥ずかしながら私はこの「三綱領」について初めて知りました。そして明治時代から真っ先に“社会貢献”を理念としている「三菱グループ」の素晴らしさに感銘を受けました。更には150年経過した今でも創業当初の理念を継承し、進むべき方向を明確にすべく“ビジョン・ミッション”に落とし込んでいる事の凄さを知りました。

 その他には「目先のことしか言わないのはボスであってリーダーではない」「仕事が人を育て、人が仕事を拓く」「失敗しながら成功に近づく」「覚悟だけが成果を生む」など、沢山の歴代の経営陣の言葉がその時代背景や状況を踏まえながら紹介されていました。関連書籍も沢山出版されているようですので、ご興味のある方は読んでみては如何でしょうか。

 当社にも創業当初からの経営理念があります。そして経営理念の中には“地域社会に貢献する”との言葉もあります。当社創業者が旧三菱商事㈱の出身者であった事から経営理念の中に“社会貢献”との思いが込められたのかもしれません。私も創業の精神を忘れずに、経営理念に沿った“ビジョン・ミッション”を策定していこうと強く思いました。

【秋田東北商事株式会社~経営理念】

『メーカーとユーザーの良き仲人役として信頼と技術で地域社会に貢献する』

 長いようで短い1ヵ月。又1ヵ月後に更新致しますので、お付き合いを宜しくお願い致します。

令和3年3月

2021.03.01 | 事務美貌録

第62回投稿 事務美貌録 3月号

【事務美貌録 3月号】

 雪の多かった冬もだんだんと落ち着いてきました。昨年の雪がない冬とは一変して、大雪の冬で秋田市とはいえ東北の冬を思い知らされました。また、コロナウイルスの脅威が始まって一年ほど経ちます。昨年の今頃は、恐怖を感じながらもここまで先の見えない事態になるとは思っていませんでした。様々なイベントや行事が中止・延期となり季節感を感じる間も無く過ぎてしまい、ぽっかりと空いてしまった一年であったように感じます。

 今年は、県外等の遠出はできませんでしたが、1回目の緊急事態宣言後、新たな開拓はなかったものの近場での外食を楽しむことができました。最近は御野場にある仲江戸によく行きます。昔ながらの中華そばで辛味が特徴的です(全部溶かすとかなり辛いです)。値段も安く、提供までの時間がとても早いのもありがたいです。かため(麺)、濃いめ(味)で頼むのが私の定番です。こってり、あっさり問わずどんなものでも好きですが、ここ最近は仲江戸のようなラーメンを欲しています。

 また、ラーメンではないのですがこの時期にとても楽しみにしているものがあります。大仙市刈和野にある「お食事処としま」の「たらこめし」です。どの定食を頼んでもおいしいのですが1月下旬~3月上旬あたりに季節ものとして「たらこめし」を食べることができます。白米の上に自家製のたらこがのっている所謂「たらこご飯」なのですが、絶品です。私の知っているたらこご飯とはまったくの別物で初めて食べた時は衝撃でした。気付けば白米が無くなってしまいます。たらこの入荷状況に依存するそうで、品切れの日もあり提供期間も年によって異なります。今年も食べることができたので満足しています。写真はとり天の定食でご飯をたらこめしにしました。たらこめしは小、中、大とあり写真の大きさは小です。とり天は自家製ポン酢に付けて食べるのですがこれもおすすめです。是非訪れてみて下さい。♂のSでした。

2021.03.01 | エコムジャーナル

エコムジャーナル No.9

 2年前の春先は、土日を迎えると地元の街中を奔走していました。長いようで短い4ヶ月、3度目の投稿となります秋田担当Aです。

 平成30年の晩秋、中学2年時にクラスメイトになってから四半世紀に渡って交流のなかった同級生が我が家を訪ね、「厄年祓・年祝祭の実行委員メンバーに」と思いがけない声を掛けてくれました。

 厄年祓・年祝祭とは、地元の4地区で厄年を迎えた方々(数え61歳の男女・42歳の男性・33歳の女性)が神社で揃ってお祓いを受けると同時に、白寿・米寿・喜寿の年祝を迎えた男女も一堂に会し、6世代の出席者で今後の人生の多幸を祈願する地元の伝統的な大祭です。毎年GW前半に開催していますが、おそらく全国的にほとんど類のないスタイルでしょう。

 この大祭の運営を42歳が務めるのが習わしとなっており、開催の約半年前に1学年先輩(前年の実行委員)から引き継ぎを受けて、開催に向けた段取りを進めます。

 まずは出席者の確認からスタートです。各世代の代表者へ開催要項を伝えて呼び掛けしていただくとともに、4地区にある39町内会長を訪ねて開催案内を町内回覧していただくよう依頼します。そして、同期生へは案内状を発送して出席者を募り、開催の約2ヵ月前となる3月初旬に大体の出席人数が決まります。

 人数が決まれば、次は式典・直会の段取りに入ります。印刷屋にプログラムや席札の製作オーダー、集合写真の撮影に備えて写真屋と打ち合わせ、直会での折箱・飲み物・御神酒・記念品の手配など、できるだけ地域の活性に貢献しようと地元の個人商店あるいは地元に縁のある会社にお願いに歩きます。

 そんな中、ひとつ問題が発生します。先輩方から引き継いだ準備リストに載っている「餅」について、前年まで利用していた地元の和菓子屋が店を畳んでしまったため、それまで「毎年の」と注文していた餅の姿・形が迷宮入り。諸先輩に聞くと、「あんこ入りでねがったが?」「祝事だから紅白だべ?」「鶴の子だったような…」「いや、豆入ってだはずだ」と色とりどり。根強く確認していくと、式典で餅まきに使う直径5センチ程の白い生餅であることがわかり、全員に渡るよう出席者分の個数を用意して一件落着。

 幼少の頃、地元には4~5店の和菓子屋がありましたが、唯一のお店が平成の終わりとともに商売の歴史に幕を閉じました。それぞれのお店に名菓があり、幼少の頃の思い出の味でもあります。大祭が脈々と引き継がれていく一方で、時の流れとはいえ地元の味を次世代に伝えられないことに寂しさを感じた出来事でもありました。

 当日は晴天に恵まれ、集合写真は屋外にて全員で撮影することができました。(雨天時は神殿で2~3組に分かれて撮影します。)式典では120人の出席者が生餅を片手にお祓いを済ませ、直会では世代を越えて酌を交わします。開催にあたって多くの方々から温かいご支援をいただいたお陰もあり、平成最後の厄年祓・年祝祭は賑やかな時間を過ごしながら締め括ることができました。

平成31年4月29日 秋田魁新報より

 大祭後日、実行委員は額の制作を進めます。人ひとりでは持てない大きさの木製の額をやはり地元の建具屋へ依頼し、出席者全員の名前と当日撮影した集合写真を載せた板を額に入れ、6月下旬に神社へ奉納します。神社の神殿には過去19年分の額が飾られています。新しい額が納められると最も古い額(還暦を迎えた世代が42歳の厄年祓で納めた額)と入れ替わる仕組みです。つまり、私たちが納めた額は令和20年の開催をもって取り外されますが、その年に還暦として出席するのが私たちの世代となります。

 額の奉納も終えて秋口を迎えた頃、1学年後輩(翌年の実行委員)に引き継ぎを行い、およそ1年に渡る実行委員の務めは終わります。大正15年にはじまったと言われる地元の伝統的な大祭は、こうして脈々と引き継がれています。しかし、昨年(令和2年)の第95回は状況を鑑みて、やむなく中止となりました。

 これからの実行委員は時世に応じた様式を模索しながら、開催を検討していくことになるでしょう。我慢の時期が続きますが、節目となる4年後の第100回開催を盛大に迎えられるとともに令和以降の世代にも引き継がれ、生まれ育った地元の活性に繋がっていくことを願っております。