2021.03.01 | エコムジャーナル

エコムジャーナル No.9

 2年前の春先は、土日を迎えると地元の街中を奔走していました。長いようで短い4ヶ月、3度目の投稿となります秋田担当Aです。

 平成30年の晩秋、中学2年時にクラスメイトになってから四半世紀に渡って交流のなかった同級生が我が家を訪ね、「厄年祓・年祝祭の実行委員メンバーに」と思いがけない声を掛けてくれました。

 厄年祓・年祝祭とは、地元の4地区で厄年を迎えた方々(数え61歳の男女・42歳の男性・33歳の女性)が神社で揃ってお祓いを受けると同時に、白寿・米寿・喜寿の年祝を迎えた男女も一堂に会し、6世代の出席者で今後の人生の多幸を祈願する地元の伝統的な大祭です。毎年GW前半に開催していますが、おそらく全国的にほとんど類のないスタイルでしょう。

 この大祭の運営を42歳が務めるのが習わしとなっており、開催の約半年前に1学年先輩(前年の実行委員)から引き継ぎを受けて、開催に向けた段取りを進めます。

 まずは出席者の確認からスタートです。各世代の代表者へ開催要項を伝えて呼び掛けしていただくとともに、4地区にある39町内会長を訪ねて開催案内を町内回覧していただくよう依頼します。そして、同期生へは案内状を発送して出席者を募り、開催の約2ヵ月前となる3月初旬に大体の出席人数が決まります。

 人数が決まれば、次は式典・直会の段取りに入ります。印刷屋にプログラムや席札の製作オーダー、集合写真の撮影に備えて写真屋と打ち合わせ、直会での折箱・飲み物・御神酒・記念品の手配など、できるだけ地域の活性に貢献しようと地元の個人商店あるいは地元に縁のある会社にお願いに歩きます。

 そんな中、ひとつ問題が発生します。先輩方から引き継いだ準備リストに載っている「餅」について、前年まで利用していた地元の和菓子屋が店を畳んでしまったため、それまで「毎年の」と注文していた餅の姿・形が迷宮入り。諸先輩に聞くと、「あんこ入りでねがったが?」「祝事だから紅白だべ?」「鶴の子だったような…」「いや、豆入ってだはずだ」と色とりどり。根強く確認していくと、式典で餅まきに使う直径5センチ程の白い生餅であることがわかり、全員に渡るよう出席者分の個数を用意して一件落着。

 幼少の頃、地元には4~5店の和菓子屋がありましたが、唯一のお店が平成の終わりとともに商売の歴史に幕を閉じました。それぞれのお店に名菓があり、幼少の頃の思い出の味でもあります。大祭が脈々と引き継がれていく一方で、時の流れとはいえ地元の味を次世代に伝えられないことに寂しさを感じた出来事でもありました。

 当日は晴天に恵まれ、集合写真は屋外にて全員で撮影することができました。(雨天時は神殿で2~3組に分かれて撮影します。)式典では120人の出席者が生餅を片手にお祓いを済ませ、直会では世代を越えて酌を交わします。開催にあたって多くの方々から温かいご支援をいただいたお陰もあり、平成最後の厄年祓・年祝祭は賑やかな時間を過ごしながら締め括ることができました。

平成31年4月29日 秋田魁新報より

 大祭後日、実行委員は額の制作を進めます。人ひとりでは持てない大きさの木製の額をやはり地元の建具屋へ依頼し、出席者全員の名前と当日撮影した集合写真を載せた板を額に入れ、6月下旬に神社へ奉納します。神社の神殿には過去19年分の額が飾られています。新しい額が納められると最も古い額(還暦を迎えた世代が42歳の厄年祓で納めた額)と入れ替わる仕組みです。つまり、私たちが納めた額は令和20年の開催をもって取り外されますが、その年に還暦として出席するのが私たちの世代となります。

 額の奉納も終えて秋口を迎えた頃、1学年後輩(翌年の実行委員)に引き継ぎを行い、およそ1年に渡る実行委員の務めは終わります。大正15年にはじまったと言われる地元の伝統的な大祭は、こうして脈々と引き継がれています。しかし、昨年(令和2年)の第95回は状況を鑑みて、やむなく中止となりました。

 これからの実行委員は時世に応じた様式を模索しながら、開催を検討していくことになるでしょう。我慢の時期が続きますが、節目となる4年後の第100回開催を盛大に迎えられるとともに令和以降の世代にも引き継がれ、生まれ育った地元の活性に繋がっていくことを願っております。