秋田東北商事株式会社

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2018年09月の記事一覧
2018.09.03 | 事務美貌録

第三十二回投稿 事務美貌録 9月号

 先月の竿燈祭りに続いて、今月もお祭りのお話です。といっても、マンホール女子『な』がお送りするのは、お祭りが柄になっているマンホールのお話です。
 マンホールには各地のお祭りがデザインされているものが多くあります。秋田県でも、秋田市の竿燈祭り、能代市の能代七夕、横手市のかまくら、仙北市角館地区の曳山行事、湯沢市は犬っこまつりに七夕絵灯篭と大名行列がギュギュッとデザインされています。そして、この夏、秋田市に新しく国指定重要無形民俗文化財でもあります土崎港曳山まつりのデザインマンホールがお目見えいたしました!!
 7月20日21日のお祭りに合わせて、カラーのマンホールも登場しているとのことで、息子と二人でマンホール探しに出掛けてみました。いやー、探すとなかなか見つからないものですね。カラーのマンホールは歩道に多く、特に、インターロッキングブロックで舗装されているような駅前通りや公共の施設の近くにあるのですが、探せども探せども見つかりません。諦めかけて寄ったコンビニの近くに普通のマンホールを発見。しかも合流!!!
※マンホールは管路の分岐点や合流点に設置されており、蓋には「雨水」「汚水」「合流(雨水と汚水の合流)」などと文字が書かれております。

2018.9月.マンホール①

 
 「今日はこれで終わりにしようね」と写真を撮ると、

2018.9月.マンホール②


 そのすぐ近くにカラーのマンホールも発見!!こっちも「合流」!!土崎港曳山まつりと北前船がデザインされたこのかっこいいマンホール、8月11日、秋田市で第二段となるマンホールカードになりました。

2018.9月.マンホール③


 秋田市土崎みなと歴史伝承館にて配布しています。曳山の展示はもちろん、マンホールも展示してありました。真新しいマンホール、探してみてはいかがでしょうか?マンホール女子『な』でした。

2018.09.03 | 社長だより

社長だより vol.45

【うかつだった】

09_57①


  今年 4月20日過ぎにKHさんから葉書がきた。“あー、頑張っているんだな”と妙な安心感がかえって不安を募らせた。家内に“こんな葉書が届いたよ”とみせたら、“大丈夫かしら”と言う。彼の病状のことは以前から話してあるのできっと私と同じ思いだったのだろう。

 葉書にある作陶二人展開催の当日、まだ準備中の彼を訪ねた。ガラス越しだがいっそう痩せたように見える。やがて外にいる私を見つけ、あの人なつこい目で恥ずかしそうに“来たか”と見ている。外に出てきた彼は黒のハットをかぶっていた。“今回はギャラリー個展をやめ、普段興味のない人にも気軽に見てもらいたくてウインドーショップ的なミニ展覧会にした”と言う。しかし、声に張りもなくいつものあの開催意欲を伝えられないもどかしさを感じた。

09_57②

 二人で店の前のベンチに座り、作品を見ながら彼は病状のことやら展示作品のことを話し始めた。私が制作依頼している「小ぶりの天目茶碗」に話が及んだ時、私の手を握り、“わかってる、わかっているよ、頑張る”、という。私は励ますつもりだったが、つい “今回の展示作品は華やかさがないな”と、うっかり言葉に出してしまった。彼から一瞬“そんなことはない”と、声にならない強い語気を感じた。私も慌てて、“深みが凄みに見える”と口ごもったが彼に届いたろうか。独特な釉調を端正な形に現す芸術家に対し、たとえ本音であったとしても、まして今使えるはずもない言葉であった。それにしてもうかつだった。

 6月27日の朝にKHさんから『今日〇病院を退院です。次回から外来診療です。元気に頑張ります。ご心配をお掛けしております。ありがとうございました』とのメール。発信時間からして病院での朝食前、ベッドの上で書いたものだろう。私から、『おはようございます。いま千葉のホテルです。メールにKHさんの発信名、正直一瞬緊張しました。しかし、よかったですね。安心しました。そのうちに』、と返信した。
この「緊張」の言葉を使うのにはためらいがあった。正直、危ないのかと感じたからだ。というのは、5年前に四日市在住の二年先輩のWさんから携帯に、絞り出すような声で、“近藤さん、俺、今回はだめかもしれない”と言われ、翌日慌ててお見舞いに伺ったことがある。水も喉を通らない状態であったが意思そのものはしっかりしていた。帰秋して1週間、私の携帯にWさん名表示で電話があった。“えっ”、もしかしてと緊張しながら携帯を耳に当てた。やはりWさんではなかった。“父が亡くなりました。生前の秋田での暮らしが分かりませんので教えてくれませんか”という問い合わせであった。

釣窯釉一輪挿し

 8月8日、地方紙のお悔やみ欄でKHさんの訃報を知った。翌9日、顔写真入りでその業績が2段組みで大きく紹介された。そして、11日、同紙一面のコラムに “理想の街づくりを目指し、芸術文化を熱く語る真剣な表情が今も目に浮かぶ”と生前の活動が称えられた。葬儀には同期を始め、陶芸家・元教授を慕う多くの参列者が道半ばの終いを悼んだ。
 時間がないと覚悟する人の気持ちを知悉(ちしつ)することはできない。メッセージを遺されたものにとっては当惑しかないが、責任を解かれるかもしれないことを悟れば強さになるのかもしれない。私にその覚悟ができるだろうか。近況を知りながら言葉を交わすことなく、メールでのやりとりが最後になってしまったことをただただ申し訳なく思う。

平成30.9月