社長だより vol.8
【寺内・八橋周辺 その2 古四王神社】
寺内というと「古四王さん」を真っ先にあげる人が多いだろう。土崎方面から幕洗川地内経由で旧国道(羽州街道)を秋田方面へ向かうと、ほどなくして高清水丘陵に差し掛かる。 護国神社表参道を過ぎると左側に古四王神社が見えてくる。大鳥居をくぐり、西向きの切石の階段を上りつめると丘陵上に明治三年に再建された社殿がある。境内を取り囲む雑木林からは、南に旧国道、西に旧雄物川河口(現秋田港)、北側には児桜の家並がかいまみられる。その静けさや時折吹き抜ける烈風が揺らすざわめきをきいていると、はるか昔の鎮守様の夢記憶がかすかにみえてくる。
古四王神社の創建は出羽柵(国指定史跡秋田城址)当時かと推測もされる程極めて古く、奈良朝の昔にさかのぼるが不明。すでに桓武天皇の延歴年間(782~806)に坂上田村麻呂が蝦夷平定の折に立ち寄り再興したと伝えられている。中世には安東氏・秋田氏に、近世には佐竹氏に武人としての崇敬をうけ、近くの住民や遠くの信者からは、単に武人としてのみだけでなく、産土神として五穀豊穣や眼病平癒についてもひろく崇拝された。明治以後、県内ただ一社の國幣社に列せられたのもその歴史を思えば頷ける。
古四王の名の由来は諸説あるようだ。一説は、祭神として祭る大毘古命は「越の国(今の新潟県)」を平定したことから「高志王・越王」からきたとする説、今一つは秋田城内の四天王寺としだいに結びつき寺内鎮守社的なものとなったともいわれる。中世は四天王寺を別当寺とする修験神社となり江戸時代には古四王権現と称され、明治三年に古四王神社となった。
境内には、高さ2メートルを超えるような黒御影の歌碑がある。菅江真澄が文政4年(1821)正月に詠んで奉った和歌だ。
『ひろ前の雪のしらふゆそのままに手酬るこしのおほきみのみや』とある。さすれば、菅江真澄は古四王の由来を「越王」と考えていたと考えるのは乱暴だろうか。流麗なかな文字で、もしかしたら本人の筆遣いかと思うとぞくぞくしてしまう。
参照 旧國幣社古四王神社由緒(古四王神社)・平凡社刊秋田県の地名・
金曜会編史跡秋田城址ふる里道しるべ(飯塚喜市編)・あきた青年公論菅江真澄
H26.1月