2019.10.01 | 社長だより

社長だより vol.58

【つれづれに】

 この頃、盛岡への行き来は国道46号線(仙岩道路)を通ることがほとんどだ。入社してすぐの社員慰安旅行で、工事中の46号線を横に見てつづら折りの国見峠を数台の社有車でつなぎ温泉に向かったことがある。頂上付近は霧が濃くて5メートルも離れれば声でやっとわかるぐらいであった。ブロッケン現象が起こるのではないかと思うような天候だったと思う。山頂は茫々としており周りを見る余裕もなく固まって写真を撮った気がする。手もかじかみ、当時の山の上の「峠の茶屋」で甘いおでんをほおばったことを通るたびに思い出す。
 峠の紅葉はまだまだ早いが、もう2~3週間もすればこの深緑が杉を残し全山黄色くなるなんて信じられないほど見事に葉の一枚一枚を変葉させる。トンネルを出るたびにそのあるはずもない紅葉がもしかしたらと心がせく。この峠の一番の見ごたえのある所に大きく膨らんだ路肩がある。窓を開けると山の冷気が肌にいよいよ秋を知らせる。

 「肌寒(はださむ)」という季語があるが、秋だけでなく例えば真夏に鍾乳洞に入って冷たさを感じた時など「肌寒い」と使える“万能季語”とも言える。金田一晴彦氏の『言葉の歳時記(新潮文庫)』に「肌寒」は“日中は汗ばむほどだが朝や晩はぐっと冷え込んで上衣がもう一枚ほしくなるような寒さ”と表現している。更に「そぞろ寒」と言えば、“秋になってそろそろ寒さが感じられるころ”、そして、「漸寒」という言葉が出てきた。“ややさむ”とふり仮名がある。“秋も終わりに近づいていよいよ寒さが厳しくなるころ”だそうだ。

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 朝、寝室の出窓の障子を開けるとヒヤッとした透明な冷気が流れ、思わず、“ぶるっ”とする。こうした秋の寒さのことを昔から使ってきた言葉として、「朝寒(あささむ)・夜寒(よさむ)」があるとして、歳時記に載っていた。同氏が言われるように、折々に“日本人の肌はそれだけ季節の移行に敏感である”と言えるのかもしれない。

 また、秋と言えば、意味も分からず、“もののあわれ”や“心にしみる”などの言葉も出てくる。この二つの言葉に秋めいた意味はないと思うのだが、なぜか、秋の感傷を感ずる。“あわれ”と言うと、徒然草の第十九段に『折節の移りかはるこそ、もののあはれなれ もののあわれは秋こそ勝れと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて・・』 (角川文庫、ビギナーズ・クラシック、徒然草)とある。意訳では「四季の移り変わるようすは、何につけても心にしみるものがある。心にしみる味わいは秋が一番深い、と誰もが認めているらしい。それはそれで一理はあるが・・」と訳されている。理由はともかくとして、遠い昔から日本人は移り行く季節に何かの哀歓を感じてきたのだろう。

 今年のマイ畑。カラス・鼠、犬に荒らされたが、二人で食べるには充分であった。白菜・キャベツ・ささげ・きゅうり・ナス・カボチャ・みょうが等よく食べた。収穫量は少なかったが人参は格別歯ごたえもありうまかった。今年デビュー野菜で見逃せないのは椎茸だ。昨年購入したほだ木に自分で駒を打ったものだが、肌寒くなってからよく出てくる。見逃して手のひら大になるものもあるが、厚肉で形のいいものは当然酒蒸しだ。

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 又、毎年作付けする小豆は不ぞろいで売り物にはならないが、約3.2キロの収穫ができた。外で篩の下に扇風機を置き、鞘のカスを吹き飛ばすのだが意外と効率がいい。部屋に戻って、虫眼鏡で虫食いや固そうな皴のよったもの、さらに腐って固まったものをえり分ける。ボケ防止で、左手でつまむ。なかなか面倒だが癖になる作業だ。今年の冬はいよいよ念願の自家製“本格水ようかん”、限界まで甘みを抑え、小豆の味を楽しむつもりだ。

令和元年.10月