エコムジャーナル No.53
【気になるこの頃の“風習?”】
今年の我が家の大根、土掛けの手入れもなく11月中過ぎの収穫となってしまった。長雨で太り過ぎが多い。いつも通り天日干しはした。家内は樽に1本いっぽん秤にかけて重さを調整して調味料を入れていた。例年通りの漬物になればいいなと期待している。
この時期生大根のおつゆはことのほかおいしい。なぜ出汁が出るのかわからないが、「お椀」あふれるほど大根を食べると心もほかほかしてくる。また、納豆好きにもたまらない「大根おろし納豆」。おろしは汁ごと全部入れるがあっさりで甘みもある。自家製大根は本当に“するする”とのど越しがいい。ただし、納豆は「ひきわり」に限る。
すだれ前髪
テレビでまつ毛まで伸ばした前髪をみるたびに、“前髪を切れ”と言っている。そして、なぜこの人までがまつ毛にかかるような髪型にするのかと腹立たしい。公共放送の深夜放送アナウンサー、目が見えないのではと思うほど長くした前髪、電話をしてやろうかと思った。幼少時誰もが親から髪が長くなると、床屋へ行けと叱られたものだ。小顔が時代の流れと聞くが、見識のありそうな大人が時代に流されていいものだろうか。
驚いて大口を開ける
『秋刀魚の味』など昭和30年代の映画を見ていると、時代を反映してしっとりした風景や家族団らんが描かれていてホッとする。登場人物もこねった物言いもなく何か心の中にすっと入ってくる。一方、最近のドラマを見ていると大声をあげて臨場感を表す場面によく出くわす。圧倒されてしまうときもあるが後味が悪い、何か表現を変える方法がないものだろうか。
後味が悪いと言えば、テレビで出演者がびっくりしたとき、わざとらしく目を見開いて大口を開けるシーンはいただけない。こちらもそろそろ卒業してもいいのではないか。まったく馬鹿まる出しだ。これを秋田弁では“みたくね”という。
ら抜き言葉
以前地元新聞に、秋田出身の脚本家が「ら抜き言葉」が氾濫していることに苦言をていしたコラムが掲載されたことがあった。私もその通りだと柄にもなく共感したものだ。
例えば「食べられる」と「食べれる」を比べてみると、前者は親や社会からいつくしんでもらっているという背景が浮かぶが、後者は自分の力で食べているイメージがある。自分の努力・考えを主体的に表すように感ずるがどうだろうか。たまに、公共放送で「ら抜き言葉」が出ると大体「らあり言葉」のテロップが流れる。“よかった、ホッとする”。
近藤 嘉之