2025.02.28 | エコムジャーナル

エコムジャーナル No.56

北上担当のKです。ご無沙汰をしております。まったくの趣味の文章ではありますが、今回もよろしくお願いいたします。
今回はモダンジャズの帝王と呼ばれることの多いマイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」を中心に語らせていただきます。よろしければではありますが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

マイルス・デイビス、ニューオリンズで幼少期から少年期を過ごす過程において、ジャズは既に生活の一部であった。両親の理解もありニューヨークに生活の拠点を移しジュリアード音楽院に入学。最先端の音楽理論を学ぶも、当時知己を得ていたチャーリー・パーカーから学ぶことのほうがより多いとの理由でジュリアードを2年で中退。その後フルバンドやパーカー、ディジー・ガレスビーのサイドマンとしてビバップスタイルを学び、1950年代前後からリーダーとしての活動を開始。ビバップスタイルから「クールの誕生」をレコーディング以降そのスタイルは「クールジャズ」と巷では呼ばれ、そのスタイルもモダンジャズ、ハードバップ、モード、黄金クインテット(スーパービバップ・ロスト・クインテット時期などいろいろな呼称がある)など、その演奏スタイルの変遷はめまぐるしいものがあります。
「カインド・オブ・ブルー」はモード奏法時代の、彼自身にとっての完成形ともいうべき作品でして、マイルスの作品群の中でも最も一般の人気が高い作品です。重ねて言えばジャズというジャンルにおいて現在に至るまで最も高いセールスを記録し続けている作品でもあります。
このアルバム作成にあたりマイルスは以前バンドから離脱したピアニスト、ビル・エバンスを特別に招集する。そのことに関してのマイルスの自伝からの引用です。   “「カインド・オブ・ブルー」では、ビルにマイナーなモードを弾かせた。奴は、何か新しいことを始めても、それを最後まで成し遂げ、その上さらに進んだものを付け加えるタイプのピアニストだった。潜在的にわかっていることではあったが、それが全員の演奏に、効果的な、ちょっとした緊張感を生み出していた。”
マイルスはビル・エバンスが持っていたラベルやラフマニノフなどのクラシカルなスキルを触媒としてアルバム全体をイメージの投影を一貫させることにより、これまでの個人スキルに特化したジャズという音楽から一線を画した、より自然発生的なサウンドを組み立てたのではないかと考えるのです。この「カインド・オブ・ブルー」からは他からの模倣の対象になりえない、その音楽は奏でられる空間を静謐なイメージに染め上げ、それはアルバムの中で自由を許されているマイルスを初めとする全プレーヤーのアドリブまでも包括される。これはとんでもないことであり、このアルバムが最も多くの人からの支持を得ている所以ではなかろうかと私は考えます。

最後にですが、マイルスが完成した「カインド・オブ・ブルー」について語ることを一部引用させていただきます。
“実際ビューティフルだった。だが結果的には失敗だった。<中略>あのレコードは誰もが大傑作と信じていたから、俺が担ごうとしているとでも思ったんだろう。俺だって「カインド・オブ・ブルー」が好きなことは好きだ。だが特にオール・ブルースとソー・ホワット(曲名)で俺がやろうとしたことは、完全な失敗だった。”
この感覚が黄金クインテットにつながっていくのかと考えると、素人ラッパ吹きとしましては脱帽するしかないです。
以上、北上のKでした。最後まで読んでいただきありがとうございました。

参考文献:ウィキペディア「カインド・オブ・ブルー」
     マイルス・デイヴィス自伝