社長だより vol.33
【イチジクの思い出】

「あっ、イチジクがなった」。挿し木してから3年目で実がなった。苗木が届いたときは、ただの30センチぐらいの棒切れ、本当に実がなるのか半信半疑であった。冬を越して1年目、あのグローブのような5裂の葉が出てきた。実がなる?しかしダメ。翌年も葉が落ち、寒さで死んでしまったと思い、切ろうかと思った。しかし、せっかくだからこのままにしておこう、とほっぽらかした。そして今年、お盆過ぎて見つけた。実がなっている!雨の中、“ありがとう”、ずぶ濡れで周辺の草刈りをした。
イチジクには苦い思い出がある。小学校5年の時だったと思う。国鉄土崎工場近くにあった珠算教室に通ってた時のこと。前の組が遅くなり、後の組の生徒たちで教室の前庭にあったイチジクを食べたことがあった。仲間外れも嫌なので食べた。数日後、実行犯として連座したが主犯より厳しいおしかりを受けることとなり、父親に連れられ謝ることとあいなった。先生は、出口さんと言い、目の大きな方で秋田市役所の職員であった。特に読み上げ算の声はどんな会場でも隅々まで響き渡るような素晴らしいバリトンの持ち主であった。いろんな大会に出ても出口先生のような声に出会ったことはなく、誇らしい先生であった。イチジクを見るといつもほろ苦く、そして出口先生のことを思い出す。
私はあの事件以来生食は苦手となった。イチジクを植えたのは、家内ともども甘露煮が食べたくてだ。甘露煮は由利地方が有名だ。自分で買うことはないが、お隣のお土産的なお菓子で、いただくと思わず“わー、イチジク”、そんな主張がある甘露煮。さらりと気の置けない手土産だ。生食にはないあの酸味が甘みを引き締めるのだが、最近は洗練された感じだ。一昨年七回忌だった母の甘露煮はアルマイト鍋でぐつぐつ煮詰めていたが、「かすべ」煮と同じで、柔らかであったり、硬かったりで、今は何となく懐かしい。友人からいただくのもいいが、味は“うーん”だ。そんなこともあって、やはり自家製が一番。5年前、家庭菜園を購入して長年の夢を果たした?格好だ。
イチジクの伝来は江戸初期、原産地は6千年も前のバビロニア、中国を経て、長崎へ薬樹としてもたらされたという。不老長寿の果物とも呼ばれるが、便秘改善、肌荒れ、痔の出血止めなどに効能があるようだ。リンゴやナシなど多くの果物とは反対に実の中に花があるので何か不思議な効能があるのではないか。旧約聖書のエデンの楽園で食べてはならない禁断の実といわれたあのリンゴ。「南国でリンゴが育つものか、アダムとイブを見ろよ、イチジクだろう」、という人もいる。ま~、そんなことはどうでもいいじゃないか。それより、我が家の甘露煮、10個ぐらいできるだろうか。磐田からいただいたおいしい煎茶で楽しもう。



食べごろに少し早すぎた先月の小玉スイカ、栽は難しい。しかし、うまかった。
平成29.9月
第二十回投稿 新・いなさ”さ”なかま日記
★いなささなかま日記★ 9月号
お盆休みもあっという間に終り、日中は暑い日が続いておりますが、朝晩は涼しく感じるようになりました。
先日、社長が朝礼で、「秋の夜」というのは、夜が段々と長くなり、虫の声が聞こえてくる状態の夏の季語ですと話しておりました。最近は、暗くなるのが早くなり、夜は虫の声も聞こえてきており秋の夜だなと感じます。
秋と言えば「食欲の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」等いろいろあります。個人的には、一番縁遠いと感じるのがスポーツの秋です。(運動不足です。)
そんな時、テレビでねんりんピックが秋田で開催されるというのを見ました。ねんりんピックって何だろう?と思い調べたところ、ねんりんピックとは全国健康福祉祭の愛称の事で、60歳以上の方を中心として、あらゆる世代の人たちが楽しみ、交流を深めることができるスポーツと文化の祭典との事でした。健康や福祉に関する多彩なイベントを通じ、高齢者を中心とする国民の健康保持・増進、社会参加、生きがいの高揚を図り、ふれあいと活力ある長寿社会の形成に寄与するため、厚生省創立50周年を記念して、昭和63年(1988年)に兵庫県で第1回大会が開催されて以来、毎年開催されているそうです。今年は、節目となる第30回大会が秋田県で、9/9(土)~9/12(火)まで開催されるそうです。
秋は、「紅葉の秋」「芸術の秋」等まだまだいろいろあります。いろいろな所でいろいろなイベントや行事等あると思います。天気のいい日は近所を散歩してみようかなと思う今日この頃です。手始めに万歩計を買おうと考えている最後の“ま”でした。
ねんりんピック秋田2017
社長だより vol.32

今年も土崎神明さん、曳山(やま、写真左)が終わった。ユネスコ無形文化遺産登録となった今年、ことのほか熱気でごったがえした。私は御幸曳山(みゆきやま)出発地、穀保町(こくぼちょう)の隣町、新城町(しんじょうまち)で産まれた。現住居は旧寺内6区(高清水)で神明さんとは関係ないが、7月20・21日は盆暮れ一緒に来たようなものだ。6月に入るとお囃子が聞こえ、新年を迎えるように気分が高揚してくる。そして21日の夜、戻り曳山(もどりやま)。つぶれた声の音頭上げ、引手の荒声、きしむ木の車、油の焼けるにおいで『やま』は最高潮に達する。
【夏の家庭菜園】

この時期、“食べたくなる”のが「うり」。うまいのに当たった時のあの感激、ハズレへのぼろくそ。今ではハズレのないメロン。美味しいのだが何かもの足りない。昭和30年代初頭、まだまだ果物も少なく、スイカは高くて1年に2回ぐらいしか食べられなかった。その点、「うり」は手軽な夏の人気もの。フンフンにおいをかぎ、指先でやわらかさを確かめたり、包丁を入れてもらった時の緊張、スプーンで食べる?そんなことはまずなかった。即、かぶりつきだった。果汁を垂らし、怒られながら食べた。
都では「瓜田に履を入れず、李下に冠をたださず」という中国のことわざが賑わっている。「ウリ」はなくても言葉はしっかり残したいものだ。
トマトもそうだ。畑の真っ赤に熟れた大きなトマト。ガブリ!青臭いというか、畝に腰を下ろして、日差しを遮り、青いへたのところまでモクモク食べた。子供のおなかはたちまち満足する。我が家の家庭菜園もこのトマトを食べたいがために始めたものだ。
先日、我が家のトマトをじっと見ていた顔見知りの専業農家の人が、「これさ肥料やったか?」、「もちろんやったすよ!」、「あのよ、トマトは肥料やらねくてもえなだや」、と言う。実は毎年夢に見た大きなトマト、実がつかない・ついても大きくならない。今年こそはと思って肥料もたっぷりやった・・。葉もちぢれ、幹ばかり太く、“病気ではないか?・いやいや石灰が足りないのでは”と家内と悩んでいた・・・
今年はもう一つ大きな失敗をやらかしてしまった。とうきびだ。野菜や果物はもぎたてが最高。毎年、向かいの家からもぎたて5本をいただくのだが、とにかくおいしい。真似をして植えてみた。肥料もたっぷりやった。順調に大きくなり、茎から“とうきび”が2~3本出てきた。ところが何を思ったか、少し抵抗はあったがことごとくトマトよろしく“芽かき”をしてしまった・・・。数日後、青森で助手席から何気なく沿道の畑を見ていたら、“あれ?うちのとうきびと何か違う?”。直ぐわかった。“うちのとうきび、裸だ!” “芽かき”をしたときは穂(花芽)にとうきびがなるんだと錯覚していた・・、子供が帰省したら食べさせてやろうと思って丹精込めていた。がっかりした。家内に言葉はなかった。

今年の畑、春先の低温で作況は全体的に不良だ。あとの望みは枝豆か。写真は雑草がいっぱいの豆畑。右からてんこ豆(後ろは赤大豆と紅虎豆)、ささぎ豆、黒豆、小豆、枝豆。東京の友人W氏はことのほか枝豆に目がないという。播種をずらした枝豆。うまくいったら朝採りで送ろう。
お盆過ぎればそろそろ秋野菜の準備だ。それまで休もう。しかし、そうもゆかない。強敵、日照りと雑草が待っている。
平成29.8月
第十九回投稿 新・いなさ”さ”なかま日記
★いなささなかま日記★ 8月号
2度目の登場になります“か”です。
新年の挨拶をしたのが、ついこの間のように感じられますが、季節が巡るのは早いもので今年も半年以上が過ぎてしまいました。梅雨が明ければ、あっと言う間に夏が終わり、また厳しい冬が近づいてくると思うと少し憂鬱な気分です。
1月号では昨年の熊本地震・新潟県糸魚川市の大火について書きましたが、今年は「九州北部豪雨」など日本列島各地で大雨の被害が発生しています。今回、秋田県内でも記録的大雨が降り大きな被害を受けました。他県の惨状を気の毒に思うしか出来ませんでしたが、まさか身近に起こるとは夢にも思いませんでした。
7月22日・土曜日は午前中から強い雨が降り、我家の近くを流れる川の水位が驚くほど上昇していました。23日朝には市内いたるところに非難勧告が出されましたが、「まだ避難指示ではないから」と自分の気持ちを落ちかせようとしていました。川の近く、低いところから水がだんだん流れてきて、すぐ近くの道路が冠水するさまは本当に恐ろしい光景でした。普段、静かな住宅街ですが、道路脇へ次々に住民が現れ不安げに話こんでいました。「まさか、ここまで水が来るとは思わなかった。」誰もが話していたのは、ニュースの中で被災した方が言った言葉と同じだと思いました。
冠水した道路はしばらくの間、片方の入り口が通行止めされなかったため車が何台も入ってきます。「わざわざ足首までの水位の中を通らなくても」と周りの人達と話していたのですが、あの人達も誰かの所に行くため必死だったのでしょうか。
幸い夕方には、少しずつ水は引いてゆき、冠水した道路も夜には水が無くなっていました。朝からハラハラしどおしの一日でしたが、結局我家に近づいてきた水もあまり水位が上がらずにすみました。でも、川沿いでは床上浸水した家もあり、また県内各地では大変な被害を被り、農業被害も甚大だと聞きます。本当にお気の毒です。改めて、災害は突然やってくるもので、いつ自分が被災者になってもおかしくないものだと感じました。
第十八回投稿 新・いなさ”さ”なかま日記
いなささなかま日記 7月号★

マンホール女子”な”には2歳になる息子がおります。最近、マンホールの蓋を見つけると
「かあちゃんの好きなのがあったよ!マホールだよ!!写真撮って!!」と教えてくれるようになりました。とても嬉しいのよ。ただ、マホールじゃなくてマンホールなのよ。もっと言うと、マンホールの蓋なのよ。嬉しいけどね。秋田市の竿燈マークは撮らなくてもいいのよ。家の前で毎回撮ってられないわ。嬉しいけどね。。。
そんな息子の協力もあり、出掛ける度にマンホールの写真が増えております。今回はその中から宮城県東松島市矢本地区と石巻市で見つけたマンホールの蓋をご紹介します。

かわいいカエルのマンホールは東松島市矢本地区のものです。マンホールに描かれている表情の異なる4匹のカエルは『きれいな水によみがえる』というフレーズをもとにデザインしたものだそうです。カラーの蓋では、カエルがそれぞれ赤、黄色、緑、青とカラフルになっています。ぜひ見てみたいものです。

石巻市のマンガロード(サイボーグ009をはじめ漫画家石ノ森章太郎の作品に出てくるキャラクターたちがたくさん出迎えてくれる市庁舎地点から石ノ森萬画館までの約1キロメートルの通り)ではカラーのロボコンデザインを見つけました。ロボコンの上には石ノ森萬画館と花火。私がこのマンホールを撮影したのは、昨年の川開きの時でした。毎年7月31日、8月1日と行われるお祭で、夜には盛大な花火大会があります。
いよいよ7月。秋田市内でも祭りの準備や練習が始まり、夕方になるとお囃子の音も聞こえるようになってきました。秋田市では、ユネスコ無形文化遺産に登録された山・鉾・屋台行事の1つ『土崎港曳山まつり』が7月20日21日に。来月には秋田市のマンホールのデザインにもなっている『竿燈まつり』が8月3日から6日に行われます。まもなく秋田の短く濃い夏の始まりです。マンホールと同じ位、お祭も大好きな「な」でした。
社長だより vol.31
【つばめ】
田植えもとうに過ぎ、来週には夏至だというのに、未だつばめをみていない。秋田地方気象台の「平年つばめ初見」は4月18日とある。今年は4月16日が初見というから、2か月前には戻ってきていることになる。
60年も前の話だが、父の生家(秋田市高野)につばめが巣をかけていた。太い角の取れた敷居をまたぐと黒光りしたでこぼこの広い土間があり、つばめの巣は右奥の鴨居にあった。“つぱっ、つぱっ”、とせわしない子つばめの口にせっせと餌を詰め込んでいた。「つばめが巣をかけると縁起がよい」とか「つばめが低く飛ぶと雨が降る」とかはその頃覚えたのだろう。
藤沢周平の「玄鳥(げんちょう)」の書き出しに、『「つばめが巣作りをはじめたと、杢平(もくへい)が申しております。いかがいたしましょうか」。路は夫の背に回って裃を着せかけながら、努めて軽い調子で話しかけた。「つばめ?」夫は前を向いたままで問い返した。長身だが肉のうすい背である。「あれは追い払ったはずではないか」「また、戻ってきたそうです」。「場所は同じところか」。「はい、門の軒下です」。「巣はこわせ」・・・わかりましたと路は言った。予想していた返事だったのでさほど落胆はしなかったが、それでも路は、このとき二羽のつばめが嬉嬉として鳴きかわす声が、鋭く頭の中にひびきわたったような気がした』(*1)とある。
この「玄鳥」は、出奔した藩士を上意討ちの藩命を受けた3人が不意を突かれ失敗。生き残った曾根兵六は嘲笑されることになるが、実はこの兵六が冷淡・傲慢とも言える夫、人を見下す末次忠次郎の妻、路の淡い恋心の相手であった。兵六は下級武士だがやがてその責任を取らされることになると路は知った。路の父親は無外流の使い手。路は父の極意を兵六につたえ、生き伸びることを願う。「玄鳥」最後に『「杢平、来年つばめはこないでしょうね」「へい」今度は来ますまい」。曾根兵六も、だしぬけに巣を取り上げられたつばめのようだと路は思った。生死いずれにしてももはや二度と会うことができないだろうと思った』。(*1)もう戻ることのないつばめに路の恋心を託したのであろう。作品に生活感という現実味があり、どっぷりと遠い昔に引きずり込まれてしまう。
また、同氏の『夜消える』(文春文庫)に「初つばめ」がある。女として言い知れぬ辛酸をなめ、弟を育てた“なみ”。その弟が表店の太物屋(D)に婿入りすると姉を訪ねてきたときの“なみ”の激情にいろを失う。羨望、諦め、つい“なみ”に共感してしまう。両者対面の直前、“なみ”の心はつばめの俊敏な飛翔にやすらいでいたのだが・・・
私にとって“つばめ”というと、「スマートな渡り鳥」「国鉄スワローズ”(現ヤクルトスワローズ)」そして“特急つばめ”だ。現在、「国鉄スワローズ」は超低空飛行で首位から15ゲーム差。土砂降りだ。“特急つばめ”は最新鋭のEF58型電気機関車にひかれ、最後尾に展望車がついた憧れの列車。2015年に廃止された「トワライトエクスプレス」にその面影が遺っていた。最近デビューした「トワイライトエクスプレス瑞風」も最後尾に展望車を持ち、昔の“特急つばめ”を彷彿させる。EF58型の車体色は「淡緑5号」というらしいが、今も鮮烈に記憶にある。この「淡緑5号」、和の色辞典で色合わせをしてみると感覚的には「草色(くさいろ)」に見え、“くすんでいるので他の色とのバランスがとりやすい”とある。また、時期は過ぎたが春の味、“草餅は邪気を払うという意味が込められている(*2)”との事。1956年、東海道線全線電化で既に戦後が終わり、“特急つばめ“が新たな日本を切り開こうとしたのだろうか。

*1玄鳥 藤沢周平 文春文庫
2和の色辞典 視覚デザイン研究所
3 日本奥地紀行 イザベラ・バード 訳 高梨健吉
平凡社ライブラリー 平凡社

写真
A 鳥類の図鑑 小学館の学習百科事典4
B 玄鳥カバー 藤沢周平 文春文庫
C 鉄道 機関車と電車 小学館の学習百科事典11
D 川崎呉服店の看板 「太物屋」
E 「交流サロンぽすと」の裏庭
明治11年、山形県金山町にイザベラ・バードが投宿し、『日本奥地紀行』(*3)に“険しい峰を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った”と紹介している。金山三峰が印象的で、100年かけてつくるという街並、白壁と切妻屋根に考え方の“ロマンチックさ”がある。「川崎呉服店」もその中の一角だ。私が特に時間をゆっくり過ごしたいところが「交流サロンぽすと」の裏庭。旧羽州街道沿いにそのたたづまいが待っている。
平成29.7月
第十七回投稿 新・いなさ”さ”なかま日記
★いなさ”さ”なかま日記 6月号★
4月フィギュアスケートの浅田真央選手が引退を発表しました。連日テレビや新聞、インターネットで特集が組まれていて、私もフィギュアファンとして大注目していました。浅田選手は、世界選手権3回の優勝、グランプリファイナル4回の優勝、四大陸選手権3回の優勝、全日本選手権6回の優勝など数々の金字塔を打ち立てました。復帰した当初からピョンチャンオリンピックを目指すと公言していましたので、あと1年現役続行すると思っていました。ラストシーズンは怪我の影響でジャンプに苦しんでいましたが、怪我を治せば復活の可能性はありましたので、非常に残念です。結果がどうであれ残り1年の選手生活を見届けたかったです。
浅田選手の魅力は世界大会で数々の実績を上げていたのにもかかわらず、常に自然体だったことではないでしょうか。世界女王に3度も君臨していながらもおごったところがなく、“普通”なところが共感を呼んだのではないかと思います。
それは彼女のお母様や指導者の教育の賜物だと思います。浅田選手の母匡子さんからは「みんなから愛されるスケーターに」と愛情を一身に受けて育ちました。決めたことは最後までやり遂げることを教えられ、トリプルアクセルにこだわったのは「練習で失敗しても試合では飛べるかもしれない」「できる技を全部使って勝ちたい」という意志の強さからでしょう。
時に彼女は語彙が少なく、インタビューの受け答えは幼稚に写りますが、インタビューの質問を悪意に取らない良さがあります。例えば、2011年母匡子さんの葬儀数日後に出場した全日本選手権後のインタビューで、「とにかく試合まで時間がなかったので、余計なことを考えている暇がなかった。選手として、やるべきことをやらなくてはならなかったので」悲しいとか、つらいということは、最後まで一切口にせず、「いつもと違う状況の中で、今までやってきたことを出せればいいなと思って滑りました。」そして、会見の最後にこういう質問が出た。「いろいろあった中で世界の代表に選ばれたことを、お母さんにどのように報告しますか?」ほんの一瞬、関係者の間に緊張感が漂った。トリノ五輪で似たような質問をされた安藤美姫が泣き出してしまった一件が頭をよぎった。だがそれは、杞憂だった。「ずっと近くにいてくれているような気がしていたので、何も報告しなくてもわかってくれていると思います」
(Numberより抜粋)
どんなに調子が悪くても“それを言い訳にしたくないから”と決して明かさず、前向きに受け止めて答える姿勢は日本のアスリートの鏡だと思います。後輩たちもその精神を受け継いでもらいたいです。
以前テレビで、ある中学生スケーターの一日が放送されていました。早朝5時から登校まで練習、朝8時から夕方まで学校、放課後から午後9時か10時頃まで練習。宿題は車中や学校の休み時間にやり、食事は車中で取るそうです。試合前はリンクを貸切って練習、貸切できる時間は深夜でした。本人の意志だけではなく、家族の協力が無ければ日々の練習は成り立ちません。それだけではなく、衣装、振付、スケート靴、遠征費、月謝などフィギュアスケートをするには年間何百万円という費用が掛かります。その中で、プロとしてやっていけるのは一握りならぬ一つまみ。本人の努力だけではなく才能、環境、家族の理解・協力が不可欠です。親御さんの子供に対する惜しみない愛情には本当に頭が下がります。一ファンとして一人でも多くの真央ちゃんが出てくることを願っています。
以上 2番目の“さ”でした。
(※私事で恐縮ですが、先月結婚し、苗字の頭が“な”から“さ”になりました。)

画像:amzon.com様より抜粋
社長だより vol.30
【続々、小さなこだわり】
「キ」へんに春と書いて「椿」、同様に夏は「榎(えのき)」、そしてヒイラギを冬の木とみて「柊」(*1)、ここまでは出てくる。しかし、秋がでてこない。一瞬、「柿!」とひらめいた・・。漢和辞典で探したら「楸」がある。読みは“ひさぎ”で落葉高木の「あかめがしわ」のようだ。
ついでに、東・西・南・北はどうだろうか。楠(くすのき)はわかる。その他書いてみると、 樹木ではないが棟(とう)、佐賀県の鳥栖の“栖(す)”までは出てくるが、北は皆目思いつかない。目を凝らして探したが無い。また、「キ」へんに上・下・左・右も探してみたがこちらは全滅だった。
中国では読みは“ちん”で、「長く久しい」という意味に使い、花は日本でいう“センダン”を指しているとのこと。(*2)
椿は昔から春の さきがけの花とさ れている。
秋田では4月から 5月半ばにかけて 咲く。
日当たりのいい藪椿は3月中頃には咲き始める。見た目は華やかだが、どことなくそそとした感じだ。その分、散るときは、山茶花などと違い花そのものが“ぼとっ”と落ちたり、茶色に色褪せて主張するところに好き嫌いがあるようだ。
飯田蛇笏(いいだだこつ)に「花びらの 肉やはらかに 落ち椿」というのがある。意味は、“ぽたりと地に落ちたまま鮮やかな色を失っていないのが美しいのだ”(*3)という。そのような種類もあるが概して散り際に抒情は感じない・・。
花をかたずけると決まって蟻がいる。ムクドリも来る。自分でも花を“ぷつっ”と引っ張ってなめると“おんこ”の実ほどではないがほのかな甘さはある。生前の父には、自宅を椿屋敷にしたいという夢があった。従妹は“おじさん、よその家から変わり種の枝をもらっては藪椿に接ぎ木をしていた”と言う。今晩はツバキ餅でも食べようか(*4)
男鹿駅(旧船川駅)から車で約10分ぐらいだろうか。日本の渚100選「鵜の崎海岸」を左に見ながらほどなく、男鹿半島(*5)南西北端、海が目の前に迫るわずかな海岸にこんもりとした能登山が見えてくる。男鹿市「椿」集落だ。男鹿市教育委員会の案内板に「ヤブツバキが自生する北限地帯として、青森県の夏泊半島とともに国の天然記念物に指定されています。(告示 大正11年10月12日)」とある。対馬暖流に椿の実が流されてきたものだろうか。柳田翁は「青森の椿は“イタコ”が持ち込んだ」(*6)との説。対馬暖流は大間のマグロと同じで津軽海峡にも分岐しているので暖流説に軍配が上がるのでは・・。しかし、“イタコ”が雪に椿の花を見て人の復活を感じ椿の実を持ってきたことも容易に想像できる。
高校の頃、この集落で夏合宿があり、能登山まで朝、片道20分の散歩をさせられた。また、能登山には「若い男女の椿伝説(*7)」がある。1804年、8月25日に菅江真澄も椿の浦を訪れている。その時も椿伝説があったのだろうか。周辺海岸にははっきりとした隆起の断層があり化石探しに夢中になったこともあった。今となれば懐かしい。
*1・2・6 ことばの歳時記 金田一晴彦 「3月4日」 新潮文庫 新潮社
*3 ことばの歳時記 山本健吉 「椿」 文芸春秋
*4 椿餅 横手市K店 真っ白なもちっとした道明寺に光沢のある濃緑の葉。文句なく、うまい。平野庫太郎氏の漆黒の小ぶりな天目茶碗に入れて撮ってみた。“贅沢”だ。
*5 ジオパーク 男鹿市教育委員会 能登山案内板
半島全体が国定公園に指定されているが、「男鹿半島・大潟ジオパーク」にも指定されている。西海岸は目もくらむような絶壁の連続で、クロダイ釣のメッカと言われる。また、北限のトラフグがとれるのでも有名だ。もちろん、“いけす”で下関に運ばれる。「男鹿半島・大潟ジオパーク」の成りたちは今から数万年も前のことらしい。能代の米代川と秋田の雄物川の砂が八郎潟を形づくり、今の形になったのは平安時代のようだ。男鹿半島北西には、噴火口に満々と水をためた国内では珍しいマール、一ノ目潟・二の目潟・三の目潟がある。あたりには静けさしかない。
*7 椿伝説(男鹿市教育委員会 能登山案内板)
・その昔、毎年男鹿の椿港から南の国に木材をはこんでいた若い船乗りが、村の娘と恋に落ちました
・必ず戻ると約束して別れてから3年が過ぎ、若者が死んでしまったと思いこんだ娘は、悲しみのあまり能登山から海に身を投げた
・4年目に村に帰ることができた若者は、娘の死を嘆き、お土産で持ってきたツバキの実を能登山にある娘の墓の周りに植えました。能登山は毎年春に花を咲かせ一面がツバキの花で覆われるようになりました
平成29.6月
社長だより vol.29
【続、小さなこだわり】

それは思いがけない出会いであった。仙台の百貨店で諦め半分・冗談半分で聞いてみた。受付嬢の交代時間であったらしく年配の指導員らしい女性が “確認しますのでお待ちください”、と丁寧に応対してくれる。電話口で“酒種?・・・”と聞こえた。 “それそれ!”と思わず声を出してしまった。地下2階のエスカレーター左わきの棚を案内された。小走りにむかうと、そこに5個入れの見覚えのある小ぶりな「酒種5色あんパン」と「桜 酒種あんパン」の2袋が残っていた。雑踏のなかで親を待つふうであり、なんか場違いのようなスチール棚だ。しかも柱の陰にある。どう見てもメイン置き場ではない。意外な扱いだ。帰りの汽車の中で食べたかったが、大事に潰さないように持ち帰った。
「あんパン」の由来は安達巌の「明治天皇とあんパン*2」に詳しい。「パン」という言葉は種子島漂着で伝わったポルトガル語、K店のあんパンが有名ぐらいでそれ以上の知識はまったくなかった。同随筆には次のようにある
『・・復活のキッカケとなったのは安政の開国であるが、その強大な推進力となったのは、明治維新の合言葉である文明開化理念だった。しかし、西洋人の常食であるパンと肉乳卵食を日本人の生活に取り入れるためには、殺生禁断・肉食禁忌の仏教文化から、手直しをしてかからねばならなかった。・・妙なことからパン食の功徳が日本人社会に広がっていった。それはパンが江戸患いといわれた脚気の妙薬だということが分かったからである。しかし、この考え方が固定すれば、パンは病人食に限定されてしまう。そこでこの点を打開するために工夫されたのが、日本独特の酒種生地製のあんパンだったのである』と、由緒正しい。ぞんざいに“あんパンでも食うか”とも言えなくなった。さらに安達氏は、当時巷に流布していた『バカの番付表で、米穀くわずしてパンを好む日本人』などと守旧派の反撃があったこと、創業者の製造・販売苦労話、京都老舗の和菓子切り崩し、明治天皇侍従・山岡鉄舟のあんぱん献上策(明治8年4月4日献上)、など興味深く逸話を記している。
念願かなってのほぼ20年ぶりの桜あんパン。その生地の豊饒な香りとかみごたえ。“やっと会えたな~!”しかし、帰宅してから面食らうことがあった。シールに「元祖酒種ぱん」とある。私は、パンは外来語なのでパンと書くべきとして、「あんぱんやアンパン」などの商品名は、いくら人だかりでも買わないことにしていた。このシールをみて、「正統あんパン派」としての自覚に揺るぎを感じてしまった。はて、どうつじつまをあわせたらいいものか・・。
K店に聞けばすむことだが、思うに創業者として従来の饅頭の生地をパンに変え、日本にはなかったものを創ったとして、日本語で「あんぱん」と命名したのではないか。今の商標登録と考えると納得がゆく。ちなみに東京の友人にK店を調べてもらったら、“「酒種ぱん」以外は「菓子パン」となっているようだ”とのこと。とすれば、やはりK店以外は「あんパン」と書くのが「正当」ではないだろうか。
*1 写真上、左がスーパーなどでの市販のあんパン、右が今回求めたK店の桜あんパン(重さ50g、直径6.5センチ、高さ3センチ)、下はK店の桜あんぱん断面。塩漬けした桜を中心に埋め込んだ桜あんぱん。餡は“昔風”でびりっとくるような甘さではない。優しい餡だ。
*2 安達巌(いわお)の「明治天皇とあんパン」、文春文庫 巻頭随筆Ⅰ、文芸春秋社
*3 山形新聞4月2日、「暦の余白に」重松清。
『あんパンの旬はいつの季節なのか。むろん四期を問わずに美味(うま)いのは大前提だが、本命は春ではないか。なにしろ、あんパンには桜の花の塩漬けのトッピングが定番なのだ。作家・吉行淳之介も同様の理由であんパンの「季」は春だとエッセイに書いていた・・・・』

春組集合!
まんさく・ろうばい君早退、桜3姉妹:吉野さん・しだれさん少し遅れる、八重さん来月登校、福寿草さん転校。えびね君入院、お~いモクレンさん集合時間だよ!(切り絵)
平成29.5月
第十六回投稿 新・いなさななかま日記
★いなさななかま日記 5月号★
♪屋根より高い鯉のぼり♪
と歌にもありますが、5月といえば鯉のぼり。
最近では大きな鯉のぼりをあまり見かけなくなりとても寂しいです。
という我が家も子供達が大きくなるにつれ、 鯉のぼりのポールを立てる、毎日鯉のぼりを出し入れする、鯉のぼりのポールを仕舞う。という作業が億劫になりここ数年は出していない事に気付きました。
江戸時代から始まったと言われるこの風習。子供は大きくなりましたが、これからも健やかな成長を願って今年は出してみようかなと思っています。
又、鯉のぼりと共に欠かせないものといえば柏餅。しかし私が子供の頃は、笹巻きと呼ばれるもち米を笹で巻いたものを食べていました。
http://www.akita-gt.org/461/inakasweets.html
きな粉と砂糖、塩少々を混ぜたものをつけて食べると絶品でこれからの時期、学校から帰ってきて鴨居に笹巻きがぶら下がっていると嬉しくなったのを思い出します。今はスーパーで真空パックを時々購入しますが、子供の頃に母親が作ってくれた笹巻きには及ばず機会があれば手作りしてみようかなと思っています。
自分が子供の頃に体験した思い出を、子供にはどの位残してあげられているか気になる時があります。古臭いと感じる風習や食べ物かもしれませんが、大人になった時に懐かしく思い出してくれるといいなと思う【さ】でした。
第十五回投稿 新・いなさななかま日記
★いなさななかま日記★ 4月号
寒かった冬も終わり、徐々に春が近づいてまいりました。
春と言えば、やはり「桜」です。東京では3/21に開花宣言がされましたが、秋田は1ヶ月遅れの4月中旬頃になりそうです。
毎年思うのですが、桜は咲き始めてから散るまでの期間がとても短いなぁと感じます。 お花見をしようとせっかく遠出しても、ちょっと早かったり、既に散っていたりと、ちょうどいい見ごろになるのは一時だな~といつも思います。しかし、そんなはかない命だからこそ、満開の桜を見た時に感動できるのではないでしょうか。
インターネットにこんな記事がありました。
【人々が桜の花に惹かれる理由6つ】
1.長い冬の後に春の訪れを知らせてくれるかのように、絶妙なタイミングで咲く
2.葉っぱ一枚もなくすべての枝から桜が咲く、きらびやかなその姿
3.一年の決まった時期にしか咲かない・・・希少性
4.咲いている時期が非常に短い
5.はかない色・・・ピンクとも白とも言えない奥ゆかしい色
6.潔く散るその姿、名残惜しく来年も見たいと感じる
まさしく、その通りだと思いました。昼の桜も綺麗ですが、今年は弘前公園あたりに夜桜をぜひ見に行きたいです。
≪東北の満開予想日はこちら≫
仙台⇒4/9 福島⇒4/10 山形⇒4/14 秋田⇒4/20 盛岡⇒4/22 青森⇒4/22

もうひとつ、春といえば新シーズンになり、いろいろな事が新しく始まる季節です。私はテレビっ子なので、新しく始まる番組、特にドラマは要チェックです!!
昔は「月9」と言われる、月曜夜9時の高視聴率ドラマを欠かさず見ていた記憶がありますが、最近はとりあえず新しく始まるドラマを録画して、一話目がおもしろかったら続けて見ているというような感じです。今回はどんなドラマが始まるのか今から楽しみです。歳を取ったせいか、青春ドラマよりもドロドロ系を好んで見てしまう「な」でした。
社長だより vol.28
【小さなこだわり】
身体に違和感があると“すわっ!重大な前兆か?”と、もじもじ病院に行くと、“加齢ですよ”と言われて“むくれる”ことが多くなった。自分には関係ないと思っていた“人生の終わりが近づいているんですよ”、と告げられる加齢がやっと何者かわかりかけてきた。何かの拍子に“ふっと懐かしのラジオ番組を聞きたいな”と思うことも多くなった。これも加齢だろう。身辺整理をしなくてはと思いながら何も手につかないのも加齢、華麗なる変身まだできる!と思うのも加齢に間違いない。さらに、テレビに“ぶつぶつ文句”など加齢シンドロームはきりがない。
就寝前、ふとんの中で文芸春秋巻頭随筆Ⅱを拾い読みしていたら、「啄木が仲人をした話*1」があった。金田一京助のお見合い話だ。盛岡でNHK「私の秘密」の公開放送があった時の話だそうだ。読む気になったのはあの渡辺紳一郎(*2)の名前にある。
設定はこんな具合だ。取材先は金田一京助先生80歳、弟子:渡辺紳一郎60歳。お見合いの場所:若竹という寄席。時は十二月の寒い日。仲人は石川啄木。「先生がすらすらと語ったのではなく、巧みな私(弟子)の合いの手につられて、ポツリポツリをつなぎあわせたもの*3」
「青年文学士金田一京助さんは東大の助手、女性恐怖症ともいうべき仁であったらしい・・。啄木がしきりに結婚を進める・・寄席で見合いということに決まる。・・入口に近いところに陣取り火鉢を囲んで待った・・来た来たと啄木が言う・・金田一文学士は恥ずかしくて、火鉢をいじって下ばかり見ていた。啄木が見なさいというので金田一さん顔をあげて指さすほう、かぶり付きをみるとそれは後姿しか見えない。金田一さん、それも恥ずかしくて灰ばかりいじくる、しばらくして、啄木が—帰る帰る。早く見なさい—とささやく。金田一さん清水の舞台を飛び下りる覚悟で顔をあげると—(ここで渡辺さん笑わないで、と金田一さん赤くなる)・・それがなんと何十ぺん、何百ぺんも見たお嬢さんだったんですよ*4」、かくして、ほどなく婚姻となり長男晴彦氏が誕生することとなったようだ。
もしかしたら、関係者の随筆がまだあるのでは?と早朝の出張を気にしながら読んだ。やはりなかった。翌日帰宅後本棚の巻頭随筆Ⅰをみた。なんと目次に「金田一晴彦氏」の名があるではないか。題名は『恋文のお返し』。ときめきを感じた。しかし、こちらは残念ながら旧制中学時代の秘められた一途な恋のようだ。(お相手は懐かしの童謡歌手、安西愛子さんとか)父は初恋成就、長男春彦氏、失恋か?と言っても、“文四郎とおふく”のような忍苦に翻弄された恋ではない。言語学者が噂に反論し、出征するまでの真相を述べたもので、同氏の生真面目さが伝わってくる。
この「巻頭随筆Ⅰ」編の他の随筆を読んでちょっと気になることがあった。ある方の「金田一温泉*5」に入浴の話が載っている。当然文章ではない。「金田一」へのルビだ。“きんだいち”、とある。家内と(座敷童の宿が焼失して間もなく)金田一温泉に向った時のこと。町に入って「第一村人(五十歳前ぐらいのショートカットの女性)」に“きんだいち温泉にはどうゆけばいいですか?と聞いたら、“きんたいち”と呼び直される心地よい出来事があった。それ以来私は“きんたいち”と、妙に気取っている。秋田でも昔、同じようなことがあった。日本海側の山形県境に「にかほ市」(旧、仁賀保町)がある。私が三十歳代の時二回り年上の方が、「にかぼ」と呼んでいた。私もそれ以来真似をして「にかぼ」と呼んできた“実績”がある。いちいちルビに目くじらを立てることもないだろう。
*1・3・4 「啄木が仲人をした話」 渡辺紳一郎、文春文庫 巻頭随筆Ⅱ 編者 文芸春秋 文芸春秋社
2 渡辺紳一郎 『NHK私の秘密』 のレギュラー回答者。出演者は渡辺紳一郎・徳川夢声・藤浦洸・高橋桂三アナウンサー他。
視聴者からの難問・奇問に応えるというラジオ番組だった。渡辺紳一郎は藤浦洸とは正反対でモソモソ話すのだが、何とも言えない穏やかな話しぶりで子供ながら“心許せる”おじちゃん、藤浦洸は隣の元気な兄ちゃん、徳川夢声は当代きっての朗読家、時代物が最高だったが、オーソン・ウエルズもの、火星人来襲!もよかった。高橋恵三の「事実は小説より奇なりともうしまして・・・」の決めぜりふも忘れられない。
どの回答者の個性も目に見え、話し声もはっきりと残る忘れられない番組だった
5 金田一温泉(IGRいわて銀河鉄道 金田一温泉駅と観光案内図)
平成29.4月
社長だより vol.27
【小野のふるさと その3】
“「百人一首」は藤原定家という一世の歌の大家が、百人の歌人の歌を一つずつ集めたものだが、この言い方はおかしいようだ・・百人の歌人が一堂に集まり、「僧正遍照、お前は初めの五句を考えろ、おれ、業平が次を作るから。字は小野小町に書かせろ」、というぐあいにして一つの歌を作りだした、という意味になりそうだ・・「百人一首」は「百人百首」といった方が、理屈にあった言い方ではないか?*1”、と、金田一晴彦氏。そういわれればその通りだな~。
小野小町の伝説は全国に実に多い。“花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に”と百人一首にあるが、三十六歌仙に数えられた知性と美貌を兼ね備えた平安の美人(小町絵*2)。その出生は秋田が担っていることを改めて菅江真澄遊覧記で得心した。真澄にとって小野小町の旧跡を訪ねることはかねてからの望みであったようで、日記に一人の人・一つの地名も含め今まで読んできた中では随一のボリュウムで記されている。
天明五年(1785)“4月2日、天気はよいが風が冷ややかので、重い冬の衣をいくつも重ねて着た。いつになったらこの衣が脱げるのだろう。まだ花が咲かないで花の香りにそまない袂なので、まして春のなごりをおもえないのも当然である*3。”4月14日、真澄は小野小町の古跡を尋ねようと湯沢をたち、小野村で三十八代続く金庭山覚厳院(のちに熊谷神社を再建をする)の住職などから濃密に残るその出生などを聴いている。“取材”は憧れの人への想いだろうか。そんなことを思い浮かべ、古跡巡りをすると頭巾をかぶった真澄の後姿がみえてくる。
小野地区には、古戸(小町の母の墓)、走明神(小町の父良実の氏神)、桐ノ木田(小町誕生の地)、小町清水(小町姿見の地)、熊野神社(良実の建立で小町の詠んだ歌を奉じ和歌堂とも言われる)、平城跡(深草少将居城)、御返事橋(少将が恋文を送りその返事を待っていた場所)、桐善寺(良実の菩提寺)岩屋洞(小町臨終の場所:自作の自像が現存)など数々の遺跡が残る。
「出生」は出羽の郡司小野良実と郷士松田治朗左衛門の娘大町子とのあいだに生まれたという。“はっきりしないことであるが、小町姫は鹿のうんだ子であるという。そのわけは、良実に、この世にないほどの美しい女が通ってきていたが、その女ははらんで産み落としたのち、鹿の形を現わしたとも言い伝える*4”
「雨乞い小町」“小町姫は九つの年(十三歳とも言われる)に都に上り、また年頃になってからこの国に来て植えられた芍薬というのが田の中の小高い所にあります・・これは九十九本あって花の色はうす紅で、他の芍薬とはいささか異なるという・・枝葉をほんのわずか折っても、たちまち空がかきくもりやがて雨が降ります。まことに雨乞い小町でしょうと語った*5”と、ある。
「二ッ森」は“小町が在世のとき、深草少将の塚を築かせ、自らの塚も前もってこの塚に並べて作らせて、わたくしが世を去ったなら、必ずここに埋めるようにと言い残して亡くなった*6”という(見ずらいが写真手前が二ッ森の遠景、左が女森・右男森)
「岩屋洞」“岩屋というところに老いてから小町がしばらく住んでいたと語り、また、聞き伝えられる歌として「有無の身やちらで根に入る八十島の霜のふすまのおもくとぢぬる」、これは小野小町が詠んだものである*7”、と。(この付近雄物川が流れ氾濫して多くの小島があったという)
「小野のふるさと」の終盤に“小町の締めくくり”と言えるような印象的な記述がある。
4月26日、“はなだ色(うすいあい色)の布を厚くさして着た、たいそう清らかな女が老女にともなわれて行くのは、小野(雄勝町)の人である。ああ美しい女だと人々は見守っていた。小町姫のゆかりが残って、むかしから今に至るまで、小野村にはよい女がでてくるとは聞いていたが、これほどの美女は世にあるまいと・・*8”
この後、29日に真澄は北へ旅立ち、秋田へは享和元年(1801)に再訪することとなる。小野村のすぐ北にあるブランドの“三関のせり*9”、真澄は鍋物で舌ずつみをうって出立しただろうか。
1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(1772~1781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。隠れた名品そのものだ。
平成29.3月
第十四回投稿 新・いなさななかま日記
★いなさななかま日記★ 3月号
突然ですが、皆さんはどんな秋田弁が好きですか?
私は迷わず、「あいー、すかだね」と答えます。
私の母は宮城県出身なので秋田弁はあまりしゃべりません。父は秋田県人ですが、私がこの言葉をよく聞いたのは、父ではなく父方の叔母です。たまに遊びに行くと、お土産を受け取って「あいー、すかだね」、「ご飯を食べで来ながった?あいー、すかだね」、TVのニュースを観ては「あいー、すかだね」、世間話の相槌代わりに「あいー、すかだね」とにかく「あいー、すかだね」を連発する叔母でした。しまいに「あえすか、あえすか」と省略してしまってました。それが子供の頃の私の耳には小気味よく感じられたものです。
秋田弁をご存知ない方のために、「あいー、すかだね」の意味を説明しますと、「あら、どうしましょう」、「仕方がない」、「どうしようもない」、「本当にお気の毒」といった意味になるかと思います。発音の仕方によって微妙に意味が変わるところも面白いです。同情のような慰めのような感じがまたいいんです。
ある時、小学生の娘が「あいー、すかだね」と言うようになり、不思議に思っていると、担任の先生がよく使うということで、一時期真似をして使っていました。ですがどうもしっくりきません。言葉が浮付いているというか、自分のものになっていないんですね。やはり、方言って何度も何度も使っていくうちにだんだん染み付いてくるものだと思います。
以前、息子の通う保育園のお茶会教室に参加した時の話です。お茶の先生が、お茶菓子について、園児たちに説明していました。「今日のお菓子は、むずがすぃー名前のお菓子だから、お家に帰って、お家の人に話すときは、おいすぃーお菓子だったよ、と話して下さいね。」と。その「おいすぃー」の秋田弁がとても聞き心地良くて、その場が和やかになりました。
そういえば、関東へ嫁いだ友人が、東京駅でたまたま聴いた秋田弁が懐かしくて嬉しかったと話していたなぁ。方言には、ほっこり優しく包むような暖かさがあるんですね。
いつか私も上手に言えるようになるのかなぁ。
話が長くなりました。「あいー、すかだね!!!」
以上、3巡目のIでした。
※ 文字にすると伝わりにくいので、参考まで音声でお伝えします♪
生秋田😆 (アイコンをクリックすると音声が流れますので音量にご注意下さい。)
第十三回投稿 新・いなさななかま日記
★いなさななかま日記★ 2月号
はじめまして、昨年から参加しました最後の“ま”です。
何を書いていいのか良く分らず、いろいろ考えましたが、以前朝礼スピーチで健康川柳について話をしたのでその続きを書きたいと思います。
健康川柳とは、NPO法人日本医学交流協会医療団 株式会社ドクターズプラザ(https://www.iryoudan.or.jp/poem/)が主催しており、昨年第10回目の健康川柳(健康・病気・ダイエットなどを題材にした川柳)を募集しておりました。
第10回目の大賞結果は以下の通りです。(ホームページより抜粋)
大賞:退院だこの太陽は俺のもの (明人さん)
優秀賞:ダイエット冷蔵庫にも言い含め (柴ょんさん)
優秀賞:健康な歯からはグチも逃げてゆき (汐海 岬さん)
優秀賞:健康に私の美貌支えられ (火星人さん)
特別賞:病名が付いて病気になる患者 (遠藤 剛さん)
佳作:検診のたびに縮んでゆく背丈 (三吉 誠さん)
佳作:体重計乗る時妻の目がこわい (長島 邦夫さん)
佳作:徘徊の噂打ち消す早歩き (古垣内 求さん)
佳作:疲れない程度にジムで汗をかき (竹澤 聡さん)
佳作:減量中緑が増える僕の家 (中澤 優さん)
佳作:鏡前やせていたのは夢の中 (川嶋 竜生さん)
佳作:病気とのモグラ叩きで生きている (たっしゃさん)
佳作:何よりの良薬になる孫の顔 (川崎 博さん)
佳作:バリアフリーに慣れて高さを忘れかけ (笹島 一江さん)
佳作:検診の結果を妻が知りたがる (野平 光さん)
佳作:問診でつい優等生演じちゃう (むーむーさん)
佳作:健康を代弁してるいい笑顔 (さびしんぼうさん)
佳作:無二の友体重計と万歩計 (クジラさん)
佳作:牛の胃の ように別腹みんな持ち (紫苑さん)
佳作:しあわせがいつも邪魔するダイエット (夏みかんさん)
佳作:健康を諭す言葉に棘がある (えみんさん)
佳作:加齢です五臓六腑のきしみです (牛美さん)
佳作:自分より 老いた主治医を元気付け (晴れ女さん)
佳作:歩くたびイイネをくれる我が身体 (ミルキーババさん)
佳作:少年が飛び出しそうなおじいさん (しなやかーるさん)
佳作:まだ見たい夢があるから腹八分 (梶 政幸さん)
佳作:散歩から恋が生まれる時もある (豊口 卓さん)
どれも見ているだけで、分る・分ると言いたくなるような内容です。最近、俳句や短歌が流行っていると聞いた事があります。何かのご参考までに・・・
社長だより vol.26
【小野のふるさと その2】
菅江真澄遊覧記には西行法師がたびたび登場するが、『小野のふるさと(1785,1月1日~4月29日)』では1回だけ2月15日にその名がある。“釈迦入滅の日なので、(柳田村周辺の)御寺という御寺に門も狭いほど人々が詣でた。「花のもとにて春しなん」と、西行法師が誦したのもこの日ごろである*1”、と。この2月15日が西行忌である。入寂したのは文治六年(1190)といわれているから今から8百年以上も前のこと。当然だが、真澄はこのことを知っていたことになる。また、西行は遊覧記にあるように“「願わくは花の下にて春しなんその如月の望月(もちづき)のころ」と詠んでおり、ピタリとその日に往生してみせた*2”、と言われている。ちなみに兼好忌も2月15日。徒然草に“40歳に達しないうちに死ぬのがいい”とあるが、六十九歳で生涯を終えている。う~ん難しい・・。
日記の順序とは逆になるが、天正五年、4月15日、「銀を掘る山をみに出掛けようと、院内というところに泊った。流れる川を桂川という。水上は雄勝峠で、最上郡に下って行く陰から落ちてくるのだという*3」。実は雄物川源流の案内図など本拙稿へ写真を撮ってきたのだが、誤ってほとんど削除してしまった。銀山に関する写真はこの一枚しか残っていない。
「まだふもとまで雪が積もっていたので歩いていると肌寒かった。この山の由来を尋ねると、関ヶ原の戦に敗れ、・・小野の縁者を訪ねてきた村山宗兵衛という人の夢に、神が金鉱のありかを告げられたことを手掛かりとして、長倉山を越えて谷深くたずねいると見た夢と少しも違わなかった。これは恐れ多い神示であったと人々にも語り、工夫を大勢連れてきて慶長十年(1605)に開けた銀山である、・・石を打ち砕いて銀をとる金槌の音がこだまし、山に響いていた*4」、と。慶長十七年に佐竹藩領となるが、写真は最盛期の十分一御番所跡(じゅうぶんのいちごばんしょあと*5)で、往時の活況がうかがい知れる。
高校同期会、「39会報*5」最新号に秋田市在住のS氏が院内銀山をパワースポットの一つとして同好会で出かけたことを記してあった。その時は“工夫の命・廃坑?”程度であったが、実際に銀山跡地で背筋がぞっとした。国道13号線院内新バイパスをやり過ごし、ほどなく108号線に折れ、道路右側に銀山跡地入口案内がある。車1台がやっと走れるうっそうとした杉林を登って間もなく、右側の急峻な山肌を切り取ったような、間口50m×奥行き30mぐらいのところに数知れない墓標。その日はたまたま大雪が降った後だったので、帽子をかぶって“全員”がこちらをじっとみつめる妖気漂いS氏の記事がピントきた。通り過ぎてバックミラーも見ることができなかった。
最盛期の天保十三年(1842)には谷という谷は人家で埋まり、戸数4,000、人口15,000人まで膨れ上がり、久保田をしのぐ繁栄ぶりと言われた。銀の算出は月産375キロを連続11年、日本一の記録を保持した。小生が目にした墓標はごく一部の番所役人等であろう。過酷な重労働でたおれたり逃亡で極刑をうけた工夫の生きたあかしはない。大正10年に採鉱停止となり315年の歴史は彼らだけが知っている。日記で数多くのしき(坑道)が掘られ、鉱石を精製する過程や、工夫の作業歌など事細かに聴き取りをしていることがわかる。真澄は5月に横手に向い、角館・西木を通り阿仁銅山もみている。ここにも詳細にその選鉱のようすが記されている。
1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5 小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(1772~1781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。
平成29.2月
第十二回投稿 新・いなさななかま日記
★いなさななかま日記★ 1月号
新年、明けましておめでとうございます。
そして、はじめまして。新たに加えていただく“か”です。今回から「いなさなな」に
“か”と“ま”が参加して日記題名も変わります。
ついこの間まで、クリスマスや新年を迎える準備などで忙しい日々が続きましたが、新しい年を迎え誰もが気持ちを一新されたことでしょう。
昨年は熊本地震など自然災害の発生、年末には新潟県糸魚川市で144棟を焼いた大火 など胸の痛む出来事が数多く起こりました。だからこそ、一年の計を立てるにあたり、自分なりに出来る範囲での支援を考えてみたいと思います。
さて、今年の干支は「酉」です。古来、鶏は太陽を迎える神聖なものとされ、鶏のいる神社も多くみられるそうです。また、酉年は商売繁盛に繋がるといわれていますので景気回復を少しでも期待したいと思います。ちなみに酉年生まれの人は、頭の回転が速く、洞察力・行動力があり、豊かな才能の持ち主だともいわれます。
とりとめの無い文章になってしまいましたが、今年も頑張りましょう!!
社長だより vol.25
【小野のふるさと その1】
菅江真澄遊覧記『小野のふるさと』の書き出しに、「出羽の国雄勝郡柳田村(湯沢市)で新年を迎えた。天明五年(1785)正月一日、初日のキラキラとさしのぼる光が雪の山に映えて美しくみわたされ・・家ごとに訪れて新年を祝い、挨拶をかわしていく人のことばも晴れやかである*1」と。菅江真澄が初めて経験するみちのくのお正月・七草粥・小正月などの習俗を日記に詳細に書いている。今も230年前とあまり変わらない感覚だ。
前年9月29日に象潟を出発し、酒田街道(現国道7号線)を北上。翌日何故か秋田に向わず本荘から国道108号線、子吉川沿いを前郷・矢島を経て伏見から八塩山周辺そして七曲峠(と思う)をたどりながら湯沢を目指していたが、大雪の柳田村で年を越す。途中、西馬音内へは10月ながら既に大雪となった七曲峠に難渋しやっとの思いでたどり着く。(地図*2)写真上は七曲峠の五合目から見た西馬音内。冬準備もない足元。雪をこぎながら目に飛び込んだ突然の集落の煙には随分ほっとしただろう。
この七曲峠では、1月最終土曜日に新婚カップルが馬そりに揺られる嫁入り道中が開催されている。また、西馬音内と言えば“盆踊り”。たき火の周りを端縫い(はぬい)衣装・半月型の編み笠で顔を隠した女性、彦三頭巾(ひこさずきん)の男性が地口(秋田音頭に似た即興のかけ歌)に合わせ、日本三大盆踊りの一つと言われる妖艶な踊りを夜が更けるまで繰りひろげる。庄内や象潟で手布(たんの)であごから頭上にかけて結び、眼だけだして歩くのをみて驚いていた真澄。彦三頭巾をみて何と書いていただろう。未発見の資料がどこかの肝いりの家に埋もれていないだろうか。
(写真右上:嫁入り道中、羽後町パンフレット、中下:昭和40年代の盆踊り、端縫い衣装と彦三頭巾、共に11年盆踊り公式ガイドブックより)
『小野のふるさと』での期待は、なんといっても“小野小町と院内銀山”だ。不安もあるが、遠い昔から地元でどんな伝承があったのか、目だけがどんどん先に進む。しかし、天明の大飢饉で食糧難もあったはず。小野・院内へは雪も深く、約3か月柳田村に逗留。その中で聞き覚えのある岩崎(湯沢市)の石川氏に投宿したことを二回書いている。1月10日と3月6日だ。もしかしたら私の存じ上げている石川さんなのだろうか。黒塀の雪がとけ始めるころ、真澄も目にしたまんさくの花を見ながらお邪魔してみよう。歴史のあるご自宅だから何か遺墨・痕跡が残されているかもしれない。新たな発見へ俄然夢が膨らむ。
*1・2・3 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」内田武志編訳 東洋文庫
お正月:“・・鏡餅はどこにもあるが、栗、柿、干しわらび、ニシン、こぶ、五葉の松の枝を添えて先祖を祀るために、このようななまくさい魚もいとわず霊前、仏前にすえているのは上代からのしきたりがなお続いているものとして結構なことと思えた・・”
七草粥:“・・六日の夕べ、・・声をあげて菜切り包丁でたたく声が、家ごとにどよめいていた。・・七草の粥は大体故郷のものと同じである・・”
小正月:“・・またの年越しである。なにやかにやと小正月のよういをし、家の内外をはらいきよめる。・・門ごとに柳を指してあるのはこの土地の習わしであろう。今日は鳥追いだといって、しら粥に餅を入れて食べる。犬、猫、花、紅葉などいろいろな形にいろどった餅をつくり、わりこに入れて、子供たちが家ごとに配ってあるいていた・・”
*写真は切り絵による「福の字」のいろいろ。
家庭菜園の去年今年(こぞことし)
例年通り見よう見まねで30種類以上の作付をした。
『人参・なす・さつまいも・じゃがいも・かぼちゃ・ピーマン・ゴーヤ・大根・菊』は不良。蕎麦は完敗だった。『玉ねぎ・にんにく・小玉スイカ・おくら・きぬさや・アスパラ・ささぎ・きゅうり・かぶ』は良、『ほうれん草・小松菜・トマト・キャベツ・白菜』はやや良。枝豆はよく食べた。毎年収穫後に来年こそは指導を受け作付けと気勢をあげるのだが家内とも一度も専門家の指導を受けたことはない。
平成29.1月
社長だより vol.24
【象潟へ向かう その3 人それぞれ】

東京の知人から「変貌した象潟をもしも芭蕉が目の当たりにしたらどんな涙を流すのでしょうか」、さらに続けて「歴史は大きな単位で総括すべきなのでしょうが、ヒトのなせる技は弱者を泣かせてばかりのような気がします。軽挙妄動にはしらず、絶景に立ち止まる心のゆとりがあれば・・・」とご意見がありました。悠久な歴史の積み重ねは人々に何を託すのだろうか?(写真は蚶満寺境内の芭蕉と西施の石像)

西湖(中国浙江省杭州市)という名湖がある。「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」として、松島の冒頭に登場する。象潟は松島に相対させるように「江山水陸の風光数尽して」 と秋田県民にとって実に鼻が高い修辞な書き出しだ。また、東京の知人は上海駐在時代に西湖に足を運ぶたびに「西施」 に出会う揺らぎでときめいていたようです。「西施」は救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女として、芭蕉は松島に比べて『恨むがごとし』と象潟の風景に似通うものとして「象潟や 雨に西施がねぶの花」の句を遺している。(蚶満寺境内の「西施」説明を参照。また、句碑には「きさかたの雨や西施かねふの花」とあるが、曾良の旅日記もこの形でその後芭蕉が推敲して今の形に直したといわれる*1)
「西施」をおもう芭蕉を司馬遼太郎はこう書いている。「・・・花は羽毛に似、白に淡く紅をふくんで、薄明の美女をおもわせる。つかのまの合歓がかえって薄明を予感させるために、花はおぼろなほどに美しいのである。芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、西施の壮絶なうつくしさと憂いを思い、それをねぶの色に託しつつ合歓という漢語を使い、歴史を動かしたエロティシズムを表現した。・・・*2」
歴史を丹念に調べ上げ、足で確認しての考察には心がひらく。描き出された秋田県散歩を遺してもらってよかった。

菅江真澄遊覧記の「秋田のかりね」にある芭蕉の名は、『冬枯れたねむの木のかたわらに「象かたの雨やせいしかねぶの花」と記しているのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。・・・』くらいだ。歌枕を巡った能因・西行への思いは感づるものの、「西施」や特に芭蕉を意識した風はみえない。象潟も各地と同じく九十九島の情景や住民の暮らしぶりを克明ともいえるように丹念な筆致とスケッチで残している。「行きかう人はアツシ(アイヌの着物)という蝦夷の島人が木の皮でおり、縫って作った短い衣を着て、小さい蝦夷刀(まきりという小刀である。蝦夷人はこれをエヒラという)を腰につけ、火うち袋をそなえていた。釣する漁師は、たぬの(手布である)に顔をつつみ、毛笠をかぶって、男女のけじめもわからず、あちこちに船を漕ぎめぐっていた*3」とある。9代藩主、佐竹義和(よしまさ)から藩命を受けて地誌編纂はわかるが、それ以前は何のため各地を巡り、その風俗・習慣を書き残したのか不思議だ。しかし、その多くの著作は重要文化財として秋田の宝物になっている。真澄が見たものと同じものに出会う静かな動悸はなんとも心地よい。この後、真澄は秋田に北上せず、本荘から西馬内を経て湯沢で冬籠りをしている。詳細な記述と相まってその行脚は謎が深まるばかりだ。

今年の会社発表会に秋田の料理菓子をお土産につかった。左から、雲平の丸鯛・餅の鶴・餡の亀。子供の頃、姿鯛であればどこをもらうかで一喜一憂したものだ。このほかのお祝い菓子に焼き菓子もあった。形は1種類で鯛だ。かじると歯が折れるような硬さに閉口したが、今は作る職人がいないそうだ・・・。
*1 おくのほそ道をたどる(下)井本農一 角川文庫
*2 街道をゆく二十九 司馬遼太郎 朝日新聞
*3 菅江真澄遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫
第十一回投稿 新・いなさなな日記 番外編 (次回から“いなさななかま日記”へ改名します。)
はじめまして。当社の営業事務“いなさなな”の責任者の“こ”♂です。個性豊かな(良く言えば)当社営業事務の“事務美貌録投稿”も数える事11回。一読でもされた方々に感謝申し上げます。お気付かと思われますが“備忘録”をあえて“美貌録”と文字掛けしたタイトル。「よくもまぁ自分らで・・」と呆れる方もいらっしゃると思いますがご勘弁下さい。「女性が元気な職場は良い職場」というコラムもありますが、元気な事は決して悪いことではありませんよね。しかし時折、元気過ぎれば仇となり、罵声?激励?しながら営業事務改善委員会というチームで運営しております。女性の活躍が期待される現代、活かすも枯らすも上司次第?!上司のみなさん!背中で泣いて頑張ってゆきましょう!!(笑点の山田氏風に・・)
女性に関わるエピソードでいえば私事で申し訳ありませんが、亡き祖母が裁縫でこしらえたカードケースを遺品として預っていた。終戦も体験した祖母は享年89歳。他界して7年目となる。手先がわりと器用な祖母は裁縫が趣味の1つであった。そのカードケースに1枚の紙切れが入っており、それには現代で云う“あいうえお作文”が記されていた。
“あ”はあせるな。“お”は奢るな。“い”は威張るな。“く”はくさるな。“ま”はまけるな。
ものまねで有名な芸能人コロッケ氏のお母様の名言である。(“お”は少し違うが、当時流行った教えか?それとも年齢は祖母が上だが感銘を受けて記したものかは不明・・・)

祖母は気丈で情に厚く、世話好きで竹を割ったようなさっぱりした性格。「自分がやっていない事をやったと言われたらどこまでもかかって行け!」「千人行けども我行かん!決して流されない芯、強い気持ちを持て!」「勝って兜の緒を締めよ!」等うんざりしたが、幼い頃幾度となく聞かされた祖母の口癖は、未だ怨念!?のように耳に残っている。
一見、気性の荒いだけにみえるが、口数の少ない祖父(こちらも他界した)を立て、時に乙女のような繊細さも備え、生前一家を縁の下の力持ちとして支えていた。昭和とは概ねこのようなスタイルではなかっただろうか?
単純に比較は出来ないが、現代はどうであろうか?そもそも美徳と云われるスタイルも多種多様。情報、モノの溢れる現在、どれだけの人がポリシー(信念)を持って家事、育児、仕事、人に接しているであろうか?男性も然り、私も自信は無い。“人や環境のせいにする責任逃れ。自らの保身の為に装う偽善。私欲が暴走。愚痴ばかり。すぐ諦める。生気が無い。”一つ間違えばどれも皆、背中合わせに抱えている心の闇のような気がする。その闇を断つのに、あくまでも私にとってだが「あおいくま」という伝言(遺言)が映える。
楽しさ豊かさと引き換えの代償。苦しさ貧しさの代償。どちらが人を強く大きく成長させるだろうか?こちらも比べようが無いが、戦争も体験し命の尊さを知る世代から、困難に正面から向かう姿勢、厳しさ。「優しさだけが強さでは無い。強さが無ければ守れないものもある。」という点と、それでも楽しみながら人を育てる優しさを過去から学ぶ点は数多く、考えさせられる課題が現代にあるような気がした。
しんみりと水を差してしまいましたが、次週から新たに“か”さん、“ま”さんも加わり更にパワーアップして「いなさななかま日記」として投稿を続けてゆきますので今後ともご愛顧のほど宜しくお願い致します。
以上「いなさなな日記」番外編 “こ” でした。





















