秋田東北商事株式会社

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2017.04.03 | 社長だより

社長だより vol.28

【小さなこだわり】 

 身体に違和感があると“すわっ!重大な前兆か?”と、もじもじ病院に行くと、“加齢ですよ”と言われて“むくれる”ことが多くなった。自分には関係ないと思っていた“人生の終わりが近づいているんですよ”、と告げられる加齢がやっと何者かわかりかけてきた。何かの拍子に“ふっと懐かしのラジオ番組を聞きたいな”と思うことも多くなった。これも加齢だろう。身辺整理をしなくてはと思いながら何も手につかないのも加齢、華麗なる変身まだできる!と思うのも加齢に間違いない。さらに、テレビに“ぶつぶつ文句”など加齢シンドロームはきりがない。

 就寝前、ふとんの中で文芸春秋巻頭随筆Ⅱを拾い読みしていたら、「啄木が仲人をした話*1」があった。金田一京助のお見合い話だ。盛岡でNHK「私の秘密」の公開放送があった時の話だそうだ。読む気になったのはあの渡辺紳一郎(*2)の名前にある。
 設定はこんな具合だ。取材先は金田一京助先生80歳、弟子:渡辺紳一郎60歳。お見合いの場所:若竹という寄席。時は十二月の寒い日。仲人は石川啄木。「先生がすらすらと語ったのではなく、巧みな私(弟子)の合いの手につられて、ポツリポツリをつなぎあわせたもの*3」

 「青年文学士金田一京助さんは東大の助手、女性恐怖症ともいうべき仁であったらしい・・。啄木がしきりに結婚を進める・・寄席で見合いということに決まる。・・入口に近いところに陣取り火鉢を囲んで待った・・来た来たと啄木が言う・・金田一文学士は恥ずかしくて、火鉢をいじって下ばかり見ていた。啄木が見なさいというので金田一さん顔をあげて指さすほう、かぶり付きをみるとそれは後姿しか見えない。金田一さん、それも恥ずかしくて灰ばかりいじくる、しばらくして、啄木が帰る帰る。早く見なさいとささやく。金田一さん清水の舞台を飛び下りる覚悟で顔をあげると(ここで渡辺さん笑わないで、と金田一さん赤くなる)・・それがなんと何十ぺん、何百ぺんも見たお嬢さんだったんですよ*4」、かくして、ほどなく婚姻となり長男晴彦氏が誕生することとなったようだ。

 もしかしたら、関係者の随筆がまだあるのでは?と早朝の出張を気にしながら読んだ。やはりなかった。翌日帰宅後本棚の巻頭随筆Ⅰをみた。なんと目次に「金田一晴彦氏」の名があるではないか。題名は『恋文のお返し』。ときめきを感じた。しかし、こちらは残念ながら旧制中学時代の秘められた一途な恋のようだ。(お相手は懐かしの童謡歌手、安西愛子さんとか)父は初恋成就、長男春彦氏、失恋か?と言っても、“文四郎とおふく”のような忍苦に翻弄された恋ではない。言語学者が噂に反論し、出征するまでの真相を述べたもので、同氏の生真面目さが伝わってくる。

再建された緑風荘

 この「巻頭随筆Ⅰ」編の他の随筆を読んでちょっと気になることがあった。ある方の「金田一温泉*5」に入浴の話が載っている。当然文章ではない。「金田一」へのルビだ。“きんだいち”、とある。家内と(座敷童の宿が焼失して間もなく)金田一温泉に向った時のこと。町に入って「第一村人(五十歳前ぐらいのショートカットの女性)」に“きんだいち温泉にはどうゆけばいいですか?と聞いたら、“きんたいち”と呼び直される心地よい出来事があった。それ以来私は“きんたいち”と、妙に気取っている。秋田でも昔、同じようなことがあった。日本海側の山形県境に「にかほ市」(旧、仁賀保町)がある。私が三十歳代の時二回り年上の方が、「にかぼ」と呼んでいた。私もそれ以来真似をして「にかぼ」と呼んできた“実績”がある。いちいちルビに目くじらを立てることもないだろう。

*1・3・4 「啄木が仲人をした話」 渡辺紳一郎、文春文庫 巻頭随筆Ⅱ 編者 文芸春秋 文芸春秋社
  2 渡辺紳一郎 『NHK私の秘密』 のレギュラー回答者。出演者は渡辺紳一郎・徳川夢声・藤浦洸・高橋桂三アナウンサー他。
視聴者からの難問・奇問に応えるというラジオ番組だった。渡辺紳一郎は藤浦洸とは正反対でモソモソ話すのだが、何とも言えない穏やかな話しぶりで子供ながら“心許せる”おじちゃん、藤浦洸は隣の元気な兄ちゃん、徳川夢声は当代きっての朗読家、時代物が最高だったが、オーソン・ウエルズもの、火星人来襲!もよかった。高橋恵三の「事実は小説より奇なりともうしまして・・・」の決めぜりふも忘れられない。
どの回答者の個性も目に見え、話し声もはっきりと残る忘れられない番組だった
  5 金田一温泉(IGRいわて銀河鉄道 金田一温泉駅と観光案内図)

金田一温泉駅と観光案内図

平成29.4月

2017.03.01 | 社長だより

社長だより vol.27

【小野のふるさと その3】

  “「百人一首」は藤原定家という一世の歌の大家が、百人の歌人の歌を一つずつ集めたものだが、この言い方はおかしいようだ・・百人の歌人が一堂に集まり、「僧正遍照、お前は初めの五句を考えろ、おれ、業平が次を作るから。字は小野小町に書かせろ」、というぐあいにして一つの歌を作りだした、という意味になりそうだ・・「百人一首」は「百人百首」といった方が、理屈にあった言い方ではないか?*1”、と、金田一晴彦氏。そういわれればその通りだな~。

小町絵

 小野小町の伝説は全国に実に多い。“花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に”と百人一首にあるが、三十六歌仙に数えられた知性と美貌を兼ね備えた平安の美人(小町絵*2)。その出生は秋田が担っていることを改めて菅江真澄遊覧記で得心した。真澄にとって小野小町の旧跡を訪ねることはかねてからの望みであったようで、日記に一人の人・一つの地名も含め今まで読んできた中では随一のボリュウムで記されている。

09_39②

  天明五年(1785)“42日、天気はよいが風が冷ややかので、重い冬の衣をいくつも重ねて着た。いつになったらこの衣が脱げるのだろう。まだ花が咲かないで花の香りにそまない袂なので、まして春のなごりをおもえないのも当然である*3。”414日、真澄は小野小町の古跡を尋ねようと湯沢をたち、小野村で三十八代続く金庭山覚厳院(のちに熊谷神社を再建をする)の住職などから濃密に残るその出生などを聴いている。“取材”は憧れの人への想いだろうか。そんなことを思い浮かべ、古跡巡りをすると頭巾をかぶった真澄の後姿がみえてくる。   
  小野地区には、古戸(小町の母の墓)、走明神(小町の父良実の氏神)、桐ノ木田(小町誕生の地)、小町清水(小町姿見の地)、熊野神社(良実の建立で小町の詠んだ歌を奉じ和歌堂とも言われる)、平城跡(深草少将居城)、御返事橋(少将が恋文を送りその返事を待っていた場所)、桐善寺(良実の菩提寺)岩屋洞(小町臨終の場所:自作の自像が現存)など数々の遺跡が残る。

「出生」は出羽の郡司小野良実と郷士松田治朗左衛門の娘大町子とのあいだに生まれたという。“はっきりしないことであるが、小町姫は鹿のうんだ子であるという。そのわけは、良実に、この世にないほどの美しい女が通ってきていたが、その女ははらんで産み落としたのち、鹿の形を現わしたとも言い伝える*4”
「雨乞い小町」“小町姫は九つの年(十三歳とも言われる)に都に上り、また年頃になってからこの国に来て植えられた芍薬というのが田の中の小高い所にあります・・これは九十九本あって花の色はうす紅で、他の芍薬とはいささか異なるという・・枝葉をほんのわずか折っても、たちまち空がかきくもりやがて雨が降ります。まことに雨乞い小町でしょうと語った*5”と、ある。

09_39③


「二ッ森」は“小町が在世のとき、深草少将の塚を築かせ、自らの塚も前もってこの塚に並べて作らせて、わたくしが世を去ったなら、必ずここに埋めるようにと言い残して亡くなった*6”という(見ずらいが写真手前が二ッ森の遠景、左が女森・右男森)
「岩屋洞」“岩屋というところに老いてから小町がしばらく住んでいたと語り、また、聞き伝えられる歌として「有無の身やちらで根に入る八十島の霜のふすまのおもくとぢぬる」、これは小野小町が詠んだものである*7”、と。(この付近雄物川が流れ氾濫して多くの小島があったという)

  「小野のふるさと」の終盤に“小町の締めくくり”と言えるような印象的な記述がある。
426日、“はなだ色(うすいあい色)の布を厚くさして着た、たいそう清らかな女が老女にともなわれて行くのは、小野(雄勝町)の人である。ああ美しい女だと人々は見守っていた。小町姫のゆかりが残って、むかしから今に至るまで、小野村にはよい女がでてくるとは聞いていたが、これほどの美女は世にあるまいと・・*8”
この後、29日に真澄は北へ旅立ち、秋田へは享和元年(1801)に再訪することとなる。小野村のすぐ北にあるブランドの“三関のせり*9”、真澄は鍋物で舌ずつみをうって出立しただろうか。

1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(17721781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。隠れた名品そのものだ。

平成29.3月

2017.03.01 | 事務美貌録

第十四回投稿 新・いなさななかま日記

★いなさななかま日記★ 3月号

 突然ですが、皆さんはどんな秋田弁が好きですか?

私は迷わず、「あいー、すかだね」と答えます。

 私の母は宮城県出身なので秋田弁はあまりしゃべりません。父は秋田県人ですが、私がこの言葉をよく聞いたのは、父ではなく父方の叔母です。たまに遊びに行くと、お土産を受け取って「あいー、すかだね」、「ご飯を食べで来ながった?あいー、すかだね」、TVのニュースを観ては「あいー、すかだね」、世間話の相槌代わりに「あいー、すかだね」とにかく「あいー、すかだね」を連発する叔母でした。しまいに「あえすか、あえすか」と省略してしまってました。それが子供の頃の私の耳には小気味よく感じられたものです。
 秋田弁をご存知ない方のために、「あいー、すかだね」の意味を説明しますと、「あら、どうしましょう」、「仕方がない」、「どうしようもない」、「本当にお気の毒」といった意味になるかと思います。発音の仕方によって微妙に意味が変わるところも面白いです。同情のような慰めのような感じがまたいいんです。
 ある時、小学生の娘が「あいー、すかだね」と言うようになり、不思議に思っていると、担任の先生がよく使うということで、一時期真似をして使っていました。ですがどうもしっくりきません。言葉が浮付いているというか、自分のものになっていないんですね。やはり、方言って何度も何度も使っていくうちにだんだん染み付いてくるものだと思います。
 以前、息子の通う保育園のお茶会教室に参加した時の話です。お茶の先生が、お茶菓子について、園児たちに説明していました。「今日のお菓子は、むずがすぃー名前のお菓子だから、お家に帰って、お家の人に話すときは、おいすぃーお菓子だったよ、と話して下さいね。」と。その「おいすぃー」の秋田弁がとても聞き心地良くて、その場が和やかになりました。
 そういえば、関東へ嫁いだ友人が、東京駅でたまたま聴いた秋田弁が懐かしくて嬉しかったと話していたなぁ。方言には、ほっこり優しく包むような暖かさがあるんですね。
 いつか私も上手に言えるようになるのかなぁ。
 話が長くなりました。「あいー、すかだね!!!」

                                                                               以上、3巡目のIでした。

※ 文字にすると伝わりにくいので、参考まで音声でお伝えします♪    

生秋田😆 (アイコンをクリックすると音声が流れますので音量にご注意下さい。)

 

2017.02.01 | 事務美貌録

第十三回投稿 新・いなさななかま日記

★いなさななかま日記★ 2月号

 はじめまして、昨年から参加しました最後の“ま”です。

 何を書いていいのか良く分らず、いろいろ考えましたが、以前朝礼スピーチで健康川柳について話をしたのでその続きを書きたいと思います。

 健康川柳とは、NPO法人日本医学交流協会医療団 株式会社ドクターズプラザ(https://www.iryoudan.or.jp/poem/)が主催しており、昨年第10回目の健康川柳(健康・病気・ダイエットなどを題材にした川柳)を募集しておりました。

 

第10回目の大賞結果は以下の通りです。(ホームページより抜粋)

   大賞:退院だこの太陽は俺のもの (明人さん)

   優秀賞:ダイエット冷蔵庫にも言い含め (柴ょんさん)

   優秀賞:健康な歯からはグチも逃げてゆき (汐海 岬さん)

   優秀賞:健康に私の美貌支えられ (火星人さん)

   特別賞:病名が付いて病気になる患者 (遠藤 剛さん)

   佳作:検診のたびに縮んでゆく背丈 (三吉 誠さん)

   佳作:体重計乗る時妻の目がこわい (長島 邦夫さん)

   佳作:徘徊の噂打ち消す早歩き (古垣内 求さん)

   佳作:疲れない程度にジムで汗をかき (竹澤 聡さん)

   佳作:減量中緑が増える僕の家 (中澤 優さん)

   佳作:鏡前やせていたのは夢の中 (川嶋 竜生さん)

   佳作:病気とのモグラ叩きで生きている (たっしゃさん)

   佳作:何よりの良薬になる孫の顔 (川崎 博さん)

   佳作:バリアフリーに慣れて高さを忘れかけ (笹島 一江さん)

   佳作:検診の結果を妻が知りたがる (野平 光さん)

   佳作:問診でつい優等生演じちゃう (むーむーさん)

   佳作:健康を代弁してるいい笑顔 (さびしんぼうさん)

   佳作:無二の友体重計と万歩計 (クジラさん)

   佳作:牛の胃の ように別腹みんな持ち (紫苑さん)

   佳作:しあわせがいつも邪魔するダイエット  (夏みかんさん)

   佳作:健康を諭す言葉に棘がある (えみんさん)

   佳作:加齢です五臓六腑のきしみです (牛美さん)

   佳作:自分より 老いた主治医を元気付け (晴れ女さん)

   佳作:歩くたびイイネをくれる我が身体 (ミルキーババさん)

   佳作:少年が飛び出しそうなおじいさん (しなやかーるさん)

   佳作:まだ見たい夢があるから腹八分 (梶 政幸さん)

   佳作:散歩から恋が生まれる時もある (豊口 卓さん)

 どれも見ているだけで、分る・分ると言いたくなるような内容です。最近、俳句や短歌が流行っていると聞いた事があります。何かのご参考までに・・・

2017.02.01 | 社長だより

社長だより vol.26

【小野のふるさと その2】

09_38①

 菅江真澄遊覧記には西行法師がたびたび登場するが、『小野のふるさと(178511日~429日)』では1回だけ215日にその名がある。“釈迦入滅の日なので、(柳田村周辺の)御寺という御寺に門も狭いほど人々が詣でた。「花のもとにて春しなん」と、西行法師が誦したのもこの日ごろである*1”、と。この215日が西行忌である。入寂したのは文治六年(1190)といわれているから今から8百年以上も前のこと。当然だが、真澄はこのことを知っていたことになる。また、西行は遊覧記にあるように“「願わくは花の下にて春しなんその如月の望月(もちづき)のころ」と詠んでおり、ピタリとその日に往生してみせた*2”、と言われている。ちなみに兼好忌も215日。徒然草に“40歳に達しないうちに死ぬのがいい”とあるが、六十九歳で生涯を終えている。う~ん難しい・・。

十分一御番所跡写真


 日記の順序とは逆になるが、天正五年、415日、「銀を掘る山をみに出掛けようと、院内というところに泊った。流れる川を桂川という。水上は雄勝峠で、最上郡に下って行く陰から落ちてくるのだという*3」。実は雄物川源流の案内図など本拙稿へ写真を撮ってきたのだが、誤ってほとんど削除してしまった。銀山に関する写真はこの一枚しか残っていない。
 「まだふもとまで雪が積もっていたので歩いていると肌寒かった。この山の由来を尋ねると、関ヶ原の戦に敗れ、・・小野の縁者を訪ねてきた村山宗兵衛という人の夢に、神が金鉱のありかを告げられたことを手掛かりとして、長倉山を越えて谷深くたずねいると見た夢と少しも違わなかった。これは恐れ多い神示であったと人々にも語り、工夫を大勢連れてきて慶長十年(1605)に開けた銀山である、・・石を打ち砕いて銀をとる金槌の音がこだまし、山に響いていた*4」、と。慶長十七年に佐竹藩領となるが、写真は最盛期の十分一御番所跡(じゅうぶんのいちごばんしょあと*5)で、往時の活況がうかがい知れる。

 高校同期会、「39会報*5」最新号に秋田市在住のS氏が院内銀山をパワースポットの一つとして同好会で出かけたことを記してあった。その時は“工夫の命・廃坑?”程度であったが、実際に銀山跡地で背筋がぞっとした。国道13号線院内新バイパスをやり過ごし、ほどなく108号線に折れ、道路右側に銀山跡地入口案内がある。車1台がやっと走れるうっそうとした杉林を登って間もなく、右側の急峻な山肌を切り取ったような、間口50m×奥行き30mぐらいのところに数知れない墓標。その日はたまたま大雪が降った後だったので、帽子をかぶって“全員”がこちらをじっとみつめる妖気漂いS氏の記事がピントきた。通り過ぎてバックミラーも見ることができなかった。

 最盛期の天保十三年(1842)には谷という谷は人家で埋まり、戸数4,000、人口15,000人まで膨れ上がり、久保田をしのぐ繁栄ぶりと言われた。銀の算出は月産375キロを連続11年、日本一の記録を保持した。小生が目にした墓標はごく一部の番所役人等であろう。過酷な重労働でたおれたり逃亡で極刑をうけた工夫の生きたあかしはない。大正10年に採鉱停止となり315年の歴史は彼らだけが知っている。日記で数多くのしき(坑道)が掘られ、鉱石を精製する過程や、工夫の作業歌など事細かに聴き取りをしていることがわかる。真澄は5月に横手に向い、角館・西木を通り阿仁銅山もみている。ここにも詳細にその選鉱のようすが記されている。

1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5 小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(1772~1781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。

平成29.2月

2017.01.06 | 事務美貌録

第十二回投稿 新・いなさななかま日記

★いなさななかま日記★ 1月号

  新年、明けましておめでとうございます。
そして、はじめまして。新たに加えていただく“か”です。今回から「いなさなな」に
 “か”と“ま”が参加して日記題名も変わります。
  ついこの間まで、クリスマスや新年を迎える準備などで忙しい日々が続きましたが、新しい年を迎え誰もが気持ちを一新されたことでしょう。
  昨年は熊本地震など自然災害の発生、年末には新潟県糸魚川市で144棟を焼いた大火 など胸の痛む出来事が数多く起こりました。だからこそ、一年の計を立てるにあたり、自分なりに出来る範囲での支援を考えてみたいと思います。
 
 さて、今年の干支は「酉」です。古来、鶏は太陽を迎える神聖なものとされ、鶏のいる神社も多くみられるそうです。また、酉年は商売繁盛に繋がるといわれていますので景気回復を少しでも期待したいと思います。ちなみに酉年生まれの人は、頭の回転が速く、洞察力・行動力があり、豊かな才能の持ち主だともいわれます。
 
 とりとめの無い文章になってしまいましたが、今年も頑張りましょう!!

2017.01.06 | 社長だより

社長だより vol.25

【小野のふるさと その1】

地図

 菅江真澄遊覧記『小野のふるさと』の書き出しに、「出羽の国雄勝郡柳田村(湯沢市)で新年を迎えた。天明五年(1785)正月一日、初日のキラキラとさしのぼる光が雪の山に映えて美しくみわたされ・・家ごとに訪れて新年を祝い、挨拶をかわしていく人のことばも晴れやかである*1」と。菅江真澄が初めて経験するみちのくのお正月・七草粥・小正月などの習俗を日記に詳細に書いている。今も230年前とあまり変わらない感覚だ。

嫁入り道中、盆踊り

 前年929日に象潟を出発し、酒田街道(現国道7号線)を北上。翌日何故か秋田に向わず本荘から国道108号線、子吉川沿いを前郷・矢島を経て伏見から八塩山周辺そして七曲峠(と思う)をたどりながら湯沢を目指していたが、大雪の柳田村で年を越す。途中、西馬音内へは10月ながら既に大雪となった七曲峠に難渋しやっとの思いでたどり着く。(地図*2)写真上は七曲峠の五合目から見た西馬音内。冬準備もない足元。雪をこぎながら目に飛び込んだ突然の集落の煙には随分ほっとしただろう。
 この七曲峠では、1月最終土曜日に新婚カップルが馬そりに揺られる嫁入り道中が開催されている。また、西馬音内と言えば“盆踊り”。たき火の周りを端縫い(はぬい)衣装・半月型の編み笠で顔を隠した女性、彦三頭巾(ひこさずきん)の男性が地口(秋田音頭に似た即興のかけ歌)に合わせ、日本三大盆踊りの一つと言われる妖艶な踊りを夜が更けるまで繰りひろげる。庄内や象潟で手布(たんの)であごから頭上にかけて結び、眼だけだして歩くのをみて驚いていた真澄。彦三頭巾をみて何と書いていただろう。未発見の資料がどこかの肝いりの家に埋もれていないだろうか。
(写真右上:嫁入り道中、羽後町パンフレット、中下:昭和40年代の盆踊り、端縫い衣装と彦三頭巾、共に11年盆踊り公式ガイドブックより)

 『小野のふるさと』での期待は、なんといっても“小野小町と院内銀山”だ。不安もあるが、遠い昔から地元でどんな伝承があったのか、目だけがどんどん先に進む。しかし、天明の大飢饉で食糧難もあったはず。小野・院内へは雪も深く、約3か月柳田村に逗留。その中で聞き覚えのある岩崎(湯沢市)の石川氏に投宿したことを二回書いている。110日と36日だ。もしかしたら私の存じ上げている石川さんなのだろうか。黒塀の雪がとけ始めるころ、真澄も目にしたまんさくの花を見ながらお邪魔してみよう。歴史のあるご自宅だから何か遺墨・痕跡が残されているかもしれない。新たな発見へ俄然夢が膨らむ。

09_37④

*1・2・3 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」内田武志編訳 東洋文庫
   お正月:“・・鏡餅はどこにもあるが、栗、柿、干しわらび、ニシン、こぶ、五葉の松の枝を添えて先祖を祀るために、このようななまくさい魚もいとわず霊前、仏前にすえているのは上代からのしきたりがなお続いているものとして結構なことと思えた・・”
   七草粥:“・・六日の夕べ、・・声をあげて菜切り包丁でたたく声が、家ごとにどよめいていた。・・七草の粥は大体故郷のものと同じである・・”
   小正月:“・・またの年越しである。なにやかにやと小正月のよういをし、家の内外をはらいきよめる。・・門ごとに柳を指してあるのはこの土地の習わしであろう。今日は鳥追いだといって、しら粥に餅を入れて食べる。犬、猫、花、紅葉などいろいろな形にいろどった餅をつくり、わりこに入れて、子供たちが家ごとに配ってあるいていた・・”
    写真は切り絵による「福の字」のいろいろ。
 
家庭菜園の去年今年(こぞことし)
 例年通り見よう見まねで30種類以上の作付をした。
『人参・なす・さつまいも・じゃがいも・かぼちゃ・ピーマン・ゴーヤ・大根・菊』は不良。蕎麦は完敗だった。『玉ねぎ・にんにく・小玉スイカ・おくら・きぬさや・アスパラ・ささぎ・きゅうり・かぶ』は良、『ほうれん草・小松菜・トマト・キャベツ・白菜』はやや良。枝豆はよく食べた。毎年収穫後に来年こそは指導を受け作付けと気勢をあげるのだが家内とも一度も専門家の指導を受けたことはない。

 平成29.1月

2016.12.01 | 社長だより

社長だより vol.24

【象潟へ向かう その3 人それぞれ】

東京の知人から「変貌した象潟をもしも芭蕉が目の当たりにしたらどんな涙を流すのでしょうか」、さらに続けて「歴史は大きな単位で総括すべきなのでしょうが、ヒトのなせる技は弱者を泣かせてばかりのような気がします。軽挙妄動にはしらず、絶景に立ち止まる心のゆとりがあれば・・・」とご意見がありました。悠久な歴史の積み重ねは人々に何を託すのだろうか?(写真は蚶満寺境内の芭蕉と西施の石像)

蚶満寺境内の西施石像
蚶満寺境内の西施石像

西湖(中国浙江省杭州市)という名湖がある。「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」として、松島の冒頭に登場する。象潟は松島に相対させるように「江山水陸の風光数尽して」 と秋田県民にとって実に鼻が高い修辞な書き出しだ。また、東京の知人は上海駐在時代に西湖に足を運ぶたびに「西施」 に出会う揺らぎでときめいていたようです。「西施」は救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女として、芭蕉は松島に比べて『恨むがごとし』と象潟の風景に似通うものとして「象潟や 雨に西施がねぶの花」の句を遺している。(蚶満寺境内の「西施」説明を参照。また、句碑には「きさかたの雨や西施かねふの花」とあるが、曾良の旅日記もこの形でその後芭蕉が推敲して今の形に直したといわれる*1)

「西施」をおもう芭蕉を司馬遼太郎はこう書いている。「・・・花は羽毛に似、白に淡く紅をふくんで、薄明の美女をおもわせる。つかのまの合歓がかえって薄明を予感させるために、花はおぼろなほどに美しいのである。芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、西施の壮絶なうつくしさと憂いを思い、それをねぶの色に託しつつ合歓という漢語を使い、歴史を動かしたエロティシズムを表現した。・・・*2」
歴史を丹念に調べ上げ、足で確認しての考察には心がひらく。描き出された秋田県散歩を遺してもらってよかった。

象潟の景色
菅江真澄遊覧記の「秋田のかりね」にある芭蕉の名は、『冬枯れたねむの木のかたわらに「象かたの雨やせいしかねぶの花」と記しているのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。・・・』くらいだ。歌枕を巡った能因・西行への思いは感づるものの、「西施」や特に芭蕉を意識した風はみえない。象潟も各地と同じく九十九島の情景や住民の暮らしぶりを克明ともいえるように丹念な筆致とスケッチで残している。「行きかう人はアツシ(アイヌの着物)という蝦夷の島人が木の皮でおり、縫って作った短い衣を着て、小さい蝦夷刀(まきりという小刀である。蝦夷人はこれをエヒラという)を腰につけ、火うち袋をそなえていた。釣する漁師は、たぬの(手布である)に顔をつつみ、毛笠をかぶって、男女のけじめもわからず、あちこちに船を漕ぎめぐっていた*3」とある。9代藩主、佐竹義和(よしまさ)から藩命を受けて地誌編纂はわかるが、それ以前は何のため各地を巡り、その風俗・習慣を書き残したのか不思議だ。しかし、その多くの著作は重要文化財として秋田の宝物になっている。真澄が見たものと同じものに出会う静かな動悸はなんとも心地よい。この後、真澄は秋田に北上せず、本荘から西馬内を経て湯沢で冬籠りをしている。詳細な記述と相まってその行脚は謎が深まるばかりだ。

秋田の料理菓子

今年の会社発表会に秋田の料理菓子をお土産につかった。左から、雲平の丸鯛・餅の鶴・餡の亀。子供の頃、姿鯛であればどこをもらうかで一喜一憂したものだ。このほかのお祝い菓子に焼き菓子もあった。形は1種類で鯛だ。かじると歯が折れるような硬さに閉口したが、今は作る職人がいないそうだ・・・。

*1 おくのほそ道をたどる(下)井本農一 角川文庫
*2 街道をゆく二十九 司馬遼太郎 朝日新聞
*3 菅江真澄遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫

2016.12.01 | 事務美貌録

第十一回投稿 新・いなさなな日記 番外編 (次回から“いなさななかま日記”へ改名します。)

 はじめまして。当社の営業事務“いなさなな”の責任者の“こ”♂です。個性豊かな(良く言えば)当社営業事務の“事務美貌録投稿”も数える事11回。一読でもされた方々に感謝申し上げます。お気付かと思われますが“備忘録”をあえて“美貌録”と文字掛けしたタイトル。「よくもまぁ自分らで・・」と呆れる方もいらっしゃると思いますがご勘弁下さい。「女性が元気な職場は良い職場」というコラムもありますが、元気な事は決して悪いことではありませんよね。しかし時折、元気過ぎれば仇となり、罵声?激励?しながら営業事務改善委員会というチームで運営しております。女性の活躍が期待される現代、活かすも枯らすも上司次第?!上司のみなさん!背中で泣いて頑張ってゆきましょう!!(笑点の山田氏風に・・)

 女性に関わるエピソードでいえば私事で申し訳ありませんが、亡き祖母が裁縫でこしらえたカードケースを遺品として預っていた。終戦も体験した祖母は享年89歳。他界して7年目となる。手先がわりと器用な祖母は裁縫が趣味の1つであった。そのカードケースに1枚の紙切れが入っており、それには現代で云う“あいうえお作文”が記されていた。

 “あ”はあせるな。“お”は奢るな。“い”は威張るな。“く”はくさるな。“ま”はまけるな。
 ものまねで有名な芸能人コロッケ氏のお母様の名言である。(“お”は少し違うが、当時流行った教えか?それとも年齢は祖母が上だが感銘を受けて記したものかは不明・・・)

 祖母は気丈で情に厚く、世話好きで竹を割ったようなさっぱりした性格。「自分がやっていない事をやったと言われたらどこまでもかかって行け!」「千人行けども我行かん!決して流されない芯、強い気持ちを持て!」「勝って兜の緒を締めよ!」等うんざりしたが、幼い頃幾度となく聞かされた祖母の口癖は、未だ怨念!?のように耳に残っている。

 一見、気性の荒いだけにみえるが、口数の少ない祖父(こちらも他界した)を立て、時に乙女のような繊細さも備え、生前一家を縁の下の力持ちとして支えていた。昭和とは概ねこのようなスタイルではなかっただろうか?

 単純に比較は出来ないが、現代はどうであろうか?そもそも美徳と云われるスタイルも多種多様。情報、モノの溢れる現在、どれだけの人がポリシー(信念)を持って家事、育児、仕事、人に接しているであろうか?男性も然り、私も自信は無い。“人や環境のせいにする責任逃れ。自らの保身の為に装う偽善。私欲が暴走。愚痴ばかり。すぐ諦める。生気が無い。”一つ間違えばどれも皆、背中合わせに抱えている心の闇のような気がする。その闇を断つのに、あくまでも私にとってだが「あおいくま」という伝言(遺言)が映える。

 楽しさ豊かさと引き換えの代償。苦しさ貧しさの代償。どちらが人を強く大きく成長させるだろうか?こちらも比べようが無いが、戦争も体験し命の尊さを知る世代から、困難に正面から向かう姿勢、厳しさ。「優しさだけが強さでは無い。強さが無ければ守れないものもある。」という点と、それでも楽しみながら人を育てる優しさを過去から学ぶ点は数多く、考えさせられる課題が現代にあるような気がした。

 しんみりと水を差してしまいましたが、次週から新たに“か”さん、“ま”さんも加わり更にパワーアップして「いなさななかま日記」として投稿を続けてゆきますので今後ともご愛顧のほど宜しくお願い致します。

 

             以上「いなさなな日記」番外編 “こ” でした。

2016.11.01 | 事務美貌録

第十回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★11月号

「マンホール女子」なことを前回の日記に載せたところ、ほんのちょっとですが反応がありました。新しいカラーの小型マンホールが入っている場所を教えてもらったり、珍しいマンホールの蓋の写真をメールでいただいたり・・・

秋田市マンホールカード
  そんな中、この春から始まった秋田市のマンホールカードを入手いたしました。
  秋田市では上下水道局で貰うことが出来ますが、平日のみの配布ですので、なかなか手にすることが出来ませんでした。

  裏には、デザインの由来が書いてあります。
  秋田県ではまだ秋田市のみの発行となっております。北東北を見ても、まだ秋田市のみですので、貴重かもしれません?!

全国でも少しづつ広がっているマンホールカードです。機会があれば、他の市町村のものも集めたいです。
興味のある方は下水道広報プラットホームHP(http://www.gk-p.jp/mhcard.html)まで。

それではお待ちかね(?!)今回ご紹介しますマンホールの蓋はこちらです。

2013年の4月に撮影しました富山市の汚水のカラーデザインの蓋です。

富山といえば、美味しいきときと(※富山で新鮮という意味の方言)な魚介!!標高3,000m級の立山連峰から、一気に水深1,000mの海底に到達する富山湾は「天然の生簀」との呼ばれる多彩な魚種の宝庫。寒ブリに白えびやホタルイカ、忘れちゃいけないますのすし・・・私のオススメは深海魚「げんげ」です。から揚げが最高に美味しくて、コラーゲンたっぷりなんです。
それと同じ位に有名なのが「越中富山の薬売り」。我が家にも小さい頃には富山の置き薬がありました。今でも「富山やくぜん」として富山市内で薬膳料理を提供しているお店がたくさんあるようです。

富山のマンホール

←富山市のマンホール蓋はそんな「くすりのまち富山」に深く関係しているこちらのデザイン

この蓋が採用された当時の市の草花「アザミ」がデザインされています。アザミは薬用効果を持つ植物として知られています。くすりのまち富山にも合っていますね。
私が何より注目したいのは“受枠”です。
受枠にまでデザインされているものは珍しいのではないでしょうか?

8月からはこの蓋もマンホールカードになっているそうです。ぜひ手に入れたい「な」でした。

2016.11.01 | 社長だより

社長だより vol.23

【象潟へ向かう その2 人それぞれ】

象潟 景色①

「曾良旅日記」によれば、芭蕉たちは酒田を出て吹浦につくころ雨が激しく、そのまま吹浦に泊った。翌日(元禄2年:1689、6月17日陽暦8月2日)も雨が強く船小屋に入って休んだりしながらお昼頃、汐越(しおこし:象潟のある村)に着いている。吹浦から三崎まで一里半、さらに汐越まで三里、この間、馬足不通の難所を雨の中午前中歩いている。4㎞を徒歩約1時間と考えれば難所越えもあり計算はほぼ合う。その日は「佐々木孫左衛門方で濡れた着物を乾かし、うどんを喰い*1」、「象潟橋迄行って雨暮気色をみる*2」とある。おくのほそ道では『・・雨朦朧として鳥海の山かくる。暗中に模索して雨もまた奇なりとせば、雨後の青色また頼もしきと・・』、3月27日に江戸・深川を発ち、およそ2カ月半、おくのほそ道全行程約半分、憧れの象潟に着いた。(写真は象潟ICから見た汐越方面、奥は日本海)

象潟橋


天明4年(1784)9月27日、菅江真澄が象潟に着いたときも雨だった。『やがて汐越の浦についた。まず象潟がわずかばかり見えたので・・家のあいま、橋の上などから島がいくつも見えるのを趣きぶかく思っていると、行く人が“八十八潟、九十九森”とうたう。・・ただきさかたの秋の夕ぐれと空を眺めて、この里に宿をとった*3』・・29日、『雨は昨夜よりこやみなく降って、波の音が騒がしい。障子の向こうで女が盃をとり酔い泣きして、つまらぬ戯れごとを言っている・・と、相宿の旅人が集まってむつまじく語りあった*4』。この後、小舟で島めぐりをする頃には雨も上がった。『・・藻を刈る船の集まっているのは、流れ藻を刈って連ね編み、馬の背にかけて寒さをしのがせ、町の人は夜具とするためである。その名をきさかた蒲団とよんでいる*5』、そして鳥海山は富士山の3月末、4月の初めのような「かのこまだらの白雪」などと暮らしや情景を記している。(写真上は象潟橋、たもとに島めぐりの船着場があった)

象潟 景色②

昨年晩秋、私も雨の象潟をみた。泥湯の帰り枯れ模様の山中を下り、しばらくして突然目の前に島のようなこんもりとした森をみた。“あっ、象潟だ!”周りにも大小の森がぼわっとみえる。薄暗くなった夕刻、島に近づくと、象潟だとは分かっていても裏から見るとまるで景色が違う。色がなく、背中に覆いかぶさるような妖気のようなものを感じた。ざわっとし、“早く出よう”としたことを思い出す。

象潟 景色③

「街道をゆく、合歓(ねぶ)の花」項では、『さて私は道路わきの田畑のあぜ道に入ってみた。その田畑は道路より高い。周りを見わたすと、いくつかの“島”がある。どれが能因島なのかはわからないが、いずれも黒松におおわれていて実に美しい。・・実は芭蕉がこの地を去ってから百十五年後の文化元年(1804)6月4日、大地が盛り上がってしまったのである。・・象潟の海の底が2.4㍍も隆起し、陸地になった。当座は、むざんな沼沢地だったらしい*6』とある。菅江真澄が象潟九十九島(つくもじま)をみた20年後に象潟地震で入り江は陸地になっている。芭蕉は島が浮かんでいた入り江を縦横一里ほどといっている。もう一度昔の入り江に戻せないだろうか、とのんきに思う。菅江真澄は『この浦の眺めにはただ心がいっぱいになって、涙ばかりこぼれて、ひたすら故郷のことを思った*7』と、ある。(写真は能因島。芭蕉一行はまずこの島に船を寄せて九十九島見物をしている)

小豆
小豆の花と、周りを片付けた小豆にご対面

裏庭の通路で頑張っていた「ど根性枝豆」は、一人前に実をつけ、本当かな?などと楽しみにしていた。 しかし、あえない最期を遂げてしまった。庭師がきれいに“草取り”をしていた。かわいそうなことをしてしまった。しかし、オダマキの間に1本だけ小豆がかわいい鞘をつけていたのを見つけた。

*1・2 おくのほそ道をたどる(下)井本農一 角川文庫
*3・4・5・7 菅江真澄遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫
*6 街道をゆく二十九 司馬遼太郎 朝日新聞

平成28年11月

2016.10.03 | 事務美貌録

第九回投稿 新・いなさなな日記

いよいよ10月、冬が少しずつ近づいてまいります。冬季スポーツといえば、やっぱりフィギュアスケート!今年は平昌オリンピックのプレシーズン、各選手はオリンピックを見据えたプログラムを用意してくるでしょう。

  さて、フィギュアスケートの歴史的な戦いといえば、2010年バンクーバーオリンピックの浅田真央VSキム・ヨナでしょう。歴史に残る名勝負でした。2人はジュニアのときから比較され常にライバル視されていました。2人とも19909月生まれ、4人家族で姉が一人、姉と一緒にスケートを始めました。身長・体重も同じで、2人とも国を代表する人気選手。一般的に技術の浅田、表現力のキムと言われています。

  結果はみなさんご存知のとおり、キム・ヨナ選手が金メダリストになりました。10点以上差をつけて圧勝、さらに世界歴代最高得点を更新しました。浅田選手にミスはありましたが、そんなに点差がつくミスでしたでしょうか。なぜキム・ヨナ選手は圧勝したのか、ほんのちょっと(あくまでも一ファンとして)お話したいと思います。

 

 浅田選手はシニアに上がってからすばらしい成績を収めていました。しかし、オリンピックシーズンの2009-2010年は不調でした。体が丸みを帯び、身長が伸びていました。女子は1cmでも体型がかわるとジャンプが飛びにくくなると言われます。ジャンプが飛べないままシーズンに突入、オリンピック出場も疑問視されていましたが、全日本選手権で優勝しギリギリ切符を手に入れました。

 浅田選手の代名詞はトリプルアクセル(=3A)、女子選手では世界で一人しか飛べない最高難度の必殺技。そのジャンプをオリンピックという大舞台で1試合に3回も飛ぶ快挙を成し遂げました。(ギネスブックに登録されています。)具体的には、ショートプログラムの初めの連続ジャンプで10.10点獲得しています。キム・ヨナ選手はトリプルルッツ(=3Lz)の連続ジャンプで12点を獲得。あれ?何かおかしくありませんか?最高難度のトリプルアクセルより難度の低いジャンプに高い得点が出ています。ジャッジのミスでしょうか?いいえ、ジャッジミスではありません。これが現行制度のカラクリなのです。

ジャンプは基礎点に評価点を加算して算出されます。

 基礎点評価点合計
浅田3A+2T

9.50

0.60

10.10

キム3Lz+3T

10

2

12

 トリプルアクセルは最高難度である故に厳しくジャッジされてしまい、得点が伸びにくいのです。では、トリプルアクセルを回避して、トリプルルッツで勝負すればいいのではないかと思いますが、当時の浅田選手はルッツジャンプを苦手としていて、試合に入れていませんでした。だからこそトリプルアクセルに掛けるしかなかったのでしょう。

 対してキム・ヨナ選手はトリプルアクセルを飛ばず、次に得点の高いルッツジャンプで手堅く得点を積み上げ、オリンピックという舞台で完璧な演技をし、優勝しました。つまり、現採点方式を徹底的に分析し、トリプルアクセルを飛ばなくても勝てるプログラムを作り、それを実現したのです。 

まだまだ話したいことは山ほどありますが、そろそろ時間が迫ってきました・・・

昨年、復活した浅田選手。平昌オリンピックを目指すと公言しましたが、一ファンとしては、彼女のスケート、彼女の笑顔を見られるだけで幸せです。今シーズンもテレビの前で応援しています!!以上 2番目のなでした。こちらの書籍を参考にしました。

2016.10.03 | 社長だより

社長だより vol.22

      【象潟へむかう その1 人それぞれ】

海
海2

 酒田から帰る時、吹浦(ふくら)に差し掛かれば、象潟を目指し いた芭蕉がここで風雨にあい、そのまま泊ったことを想う。翌日、 (元禄2168981日)「酒田の湊より東北の方、山を越え、 磯を伝い、いさごをふみて、其の際十里、日陰やゝかたぶく比、汐 風真砂を吹上、・・*1」と“おくのほそ道”にある。“東北の方を 通れば大幅に回り道のはず、そんな道を選ぶわけはない。できるだ け最短であろう、東北とは菅江真澄(*4)の言う剣竜山を指すの だろう”。吹浦を通れば決まってそんな思いになる。写真上は県境にある三崎 山から見た、海沿いの難所。そして象潟へ続く砂浜、下は曾良(そら)と通ったであろう三崎山の峠道。道幅は一人がやっとだ。ここを歩いたんだ・・・

岩
服

実際、芭蕉の時代の旅はどんなものだったのか?古い股旅物映画しかイメージは湧かないが旅支度は「紙子一衣(左)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ※2」とある。しかし、長旅、それも未知の土地へともなれば細々あるだろう。

 必要最低限のものは身に付けて行くとすれば、「扇子、針と糸、懐中鏡、日記帳、櫛、鬢付け油、提灯、ろうそく、火打ち道具、懐中付木さらに頭巾・  風呂敷・足袋、脚絆、枕、雨具、草履、傘、箸、茶わん*3」など何も持たずにぶらり気ままな旅を楽しむなどは到底できないことは確かだ。雁風呂の心持があったと思う。 

 秋田は日本一多い国指定重要無形民俗文化財を誇るが、菅江真澄がした紀行文のおかげと言われる。『秋田のかりね*4』(天明49 ~12 月)925日(雨)に「剣竜山を下って、しばらくのうちに吹浦という磯の館につく。人の往来が繁かった。ここの関所に入り、田で用意した関手形を改めて旅人を通している。島崎の浜、滝の浦を歩いて女鹿の関に到り、関手形を渡した。椿ばかり生い茂る岩面の道に入り、やがて下って三崎坂に出た。・・*4」とある。この三崎山周辺『有耶無耶の関(うやむや)』があったようだがはっきりとしない。椿ばかりというが、これはタブの木と思う。藪椿も見えるが、北国には珍しいタブの自生の林だ。菅江真澄も芭蕉が通ったこの道をたどったのだろう。それにしても、紀行文にあるその土地の暮らしや習慣・行事など克明な記述と風俗・民具のスケッチには舌を巻く。そして、内田武志の編訳も年表・行程(左)  などが付記され実に編集が丁寧だ。

本

  司馬遼太郎は、秋田空港(旧雄和町)から画家の須田剋太と個人タクシーで、象潟に向っている。「街道をゆく 二十九」に次のように書いている。『・・いっそもっとみなみにゆき、南の県境近くの象潟の蚶満寺(かんまんじ)を訪れようと思った。「よほど距離がありますか」「一時間ほどすこしかかります」「きさかたへゆくか」と、つぶやいた。・・・さらに南下して金浦(このうら)という浜辺の町をすぎるころから、左側の地形が、陸であるのに海であるかの印象をあたえはじめた・・*5』この後、蚶満寺の熊谷住職さんとの話などが始まるが、秋田の人にはことのほかこの風景描写、実によくわかる。

 私にとって初めての名勝象潟は秋田市立土崎小学校5年生、秋の旅行であった。汽車、(SL)で向かったと思う。象潟は羽越本線だからきっと秋田駅で乗り換えしたんだろう。“独特な島”の印象はその時から畏敬の対象として特別な感情が今も続いている。

*1  おくのほそ道をたどる(下)象潟 井本農一 角川文庫
*2,3 國文學 おくのほそ道とは何か 第34号巻6号 森川 昭 學燈社
*4  菅江真澄 遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫
*5  街道をゆく二十九 秋田県散歩 司馬遼太郎 朝日新聞

 

2016.09.01 | 事務美貌録

第八回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★ 9月号

秋田音頭という民謡に『秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ、能代春慶、桧山納豆、大館曲げわっぱ』という歌詞があります。子供の頃から幾度となく聞いた歌詞。思い立って夏休みに大館に行ってきました。
 
大館に行った日はゼロダテ美術展2016(http://www.zero-date.org/index.html)が開催されており、街に石で作った大きな秋田犬がおり、様々なイベントが開催されていました。
そして秋田音頭の歌詞に出てくる『大館曲げわっぱ』の体験工房(http://odate-magewappa.com/)に行きました。
ここでは丸弁当箱、七寸盆、パン皿から選んで実際に曲げわっぱの製作体験ができます。

秋田犬(石造)
曲げわっぱ(体験工房)
曲げわっぱ(体験)

伝統工芸士の先生に教わりながら丸弁当箱の製作体験をしました。底板と蓋板をつける作業なのですが想像以上に難しく悪戦苦闘しながらも楽しく作業をしました。

曲げわっぱ(体験)

曲げわっぱ弁当箱には吸湿性でご飯が美味しくなるという利点があります。しかしよく乾燥をさせないとカビが発生しやすいそうです。製作した次の日に早速炊きたてのご飯を弁当箱に入れお櫃代わりに使いました。冷めてもご飯が硬くならず木の香りがしてとても美味しかったです。
近年、曲げわっぱの良さが見直されており、体験工房には首都圏からも体験にいらっしゃるそうです。先人達の知恵と技に感謝をし、この伝統工芸品を子供達に伝えていきたいなと思った【さ】でした。

By 『さ』

2016.09.01 | 社長だより

社長だより vol.21

ど根性枝豆

【ど根性枝豆】

自宅が丘陵地にあるためか、庭にスズメ・シジュウカラ・ヒワ・キジバト・ムクドリ、春はよくメジロ・ウグイスを見かける。晩秋にはキツツキ類のドラミングも聞こえる。キジも年に何回か裏の椿に泊っているようだ。賑やかな声が聞こえてくる時、そっとガラス戸を開け小豆や大豆の虫食いをまいてやる。その時は一斉に逃げてしまうが、次の日はほとんどなくなっている。ところがある日、庭の通路に枝豆らしきものが生えてきた。もう1か月ぐらいもなったろうか。背丈は伸びないがまだ生きている。名付けて「ど根性枝豆」。この後どうする気なんだろう。興味津々だ。

豆

今年の家庭菜園、“手入れが楽だ”、だけの理由で「豆13種」植えてみた。今のところ上の三段プラス枝豆の収穫が終わったが残りはこれからだ。どんな食べ方をするかもわからず植えたが、しかし、植え付けに大きな問題があった。芽が出てきたときは楽勝のつもりであったが、『背丈の高いもの・低いもの、つる有り・無し、さらに自立するもの・しないもの』と“やちゃくちゃない。”今一番心配なものが紅平豆。この丈が10センチそこそこ。両畝には70センチもあろうかという青黒と秘伝がのしかかっている。草刈りをして初めてそのことを知った。

赤飯に使う天こ豆の花
赤飯に使う天こ豆の花

この紅平豆、さらに実のつけかたが悪い。来年は心して植えてやろう。その他の豆も収穫が待ち遠しい。煮物か塩ふりか、ことこと砂糖で煮ふくめるのか、楽しみだ。と言っても家内に頼むのだが・・・。    

赤門を前に、太平山に入道雲
赤門を前に、太平山に入道雲

今年は真夏日が続く。それでもこの頃、夜更けの虫の音が一段とはっきりとしてきた。時折、顔に涼風が触れると季節の移り変わりを感ずる。『夜の秋』がきた。金田一晴彦の「ことばの歳時記」、8月19日に『けさの秋』がある。“朝起きて、庭におりてみると、もはや夏のものとは思われないような涼風が立ち・・”と、虚子の『土近く朝顔咲くや今朝の秋』を紹介している。俳人ならではの繊細な感覚だ。近寄る秋に思わずほっとするが、過ぎゆく季節に思いが遺っただろうか。

平成28年9月

2016.08.01 | 社長だより

社長だより vol.20

【文房四宝 その3】

 東京在住の方から『おつえと信助の「TO BE CONTINUE」』、続けて、『筆職人信助の作る立派な筆、しかしながら文房四宝のうち使っていくと価値が落ちていくのは筆。鑑賞するには筆毛の管理が大変。墨や硯と筆の違うあやうさ、はかなさを藤沢周平は男と女の間に象徴的に潜り込ませたのでしょうか。はたまた墨に染まった筆毛はもう元には戻れないのか・・』とメールを頂戴しました。

 実は、小説の終盤に「信助の届けた筆をおつえが手入れを怠ったため虫食いでボロボロになり、筆を折ろうとしたこと、信助との間が終わったとして泣きつくしたこと、この筆に“輝くようだった若い時分の残光をみて”過去の思い出として大切に保管しようとした」ことが書かれています。そして、結びは、間もなく人手に渡る『暗く長い廊下を歩きながら、おつえは夫に優しい言葉をかけてやりたい気持ちになっている』で終わっているのです。この時の情景を中一弥の挿絵がすべてを呑み込んだかのようにしっとりとラストを飾っています。

 実際の挿絵は“てぷっとした”夫が行燈の前に紋付羽織を着て力なく後ろ向きで酒を飲んでいる。おつえは立ち上がって背中合わせだが、声をかけようかと切れ長の目で夫の背中を見ている・・・そんな情景を想像してください。引用は昭和54年5月号太陽特集小説 藤沢周平 歳月より。

ムクゲ、クチナシ、のうぜんかずら
今時の花木(左から)  ムクゲ   クチナシ   のうぜんかずら

 ムクゲは八重の赤紫、一重の赤紫と白の3種がある。クチナシは冬囲いをしてやるのだが毎年春に殆ど葉を落とし、心配させるが新芽を吹きだし、甘い香りの真っ白な花を咲かせてくれる。のうぜんかずらは父の大好きな花の一つ、前の家にあったものを銀杏ごと移植したもの。高さは5mもあろうか、土崎の曳山あたりに咲き始め、本格的な夏到来を教える。

印材

 私の文房具の中で心残りの硯がある。厚みが5センチぐらいで何の飾りもない手のひらにすっぽり入るような楕円の端渓だ。艶やかながら深みのある漆黒。目の前から見えなくなって20年にもなる。どこに去(い)ってしまったのだろう。墨色の中を流れてゆく私の思いは届くのだろうか。墨色というと福島弘樹さんの文鎮(氏のオブジェとしての芸術作品だが、勝手に私が文鎮と言っている)がある。鉄と銅の合金だ。印材と一緒に眺めていると金属ながら優しく話しかけてくるような温もりを感ずる。

印影

 印影も実に面白く和やかさを与えてくれる。写真は私と母(夕子)の朱文の印影。どちらも40年近く前、専門家に篆刻してもらったものだが気に入っている。白文もあるが、「嘉」の字が「由」で届けられ、お蔵入りしている。秋田の長い冬の楽しみは篆刻にして印譜でも作ろうか。書もいいが、印影の自由奔放さは人に見せることもなく気楽で楽しい。書や日本画の展覧会に出掛けても白黒と余白に朱の印影はことさら気になる。

文箱

 文箱の蓋を開けて、いざ写経、準備はできているがその気になって心を摩っている。これを幾度となく繰り返しているのだからいやはや何とも滑稽な話だ。印肉は丸い磁器製の印池に入っている。ふたの裏に光明朱砂印泥、一両(四文匁:よんもんめ)とある。水滴・筆洗・筆架・印材・筆筒・鎮紙(文鎮)など眺めて愛らしい文房具は、私のような凡人には憧れへの思索に欠かせない道具たちだ。(文房四宝おわり) 

 平成28年8月

2016.08.01 | 事務美貌録

第七回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★ 8月号

8月に入り、いよいよ夏本番になりました。 熱中症で救急搬送される人も増えているようです。
くれぐれも体調管理には気をつけ、暑い夏を乗り切りましょう。

夏といえば、花火やお祭りが頭に浮かびます。秋田の夏祭りで有名なのが『竿燈まつり』です。
 竿燈まつりは東北三大祭りの一つで、260年以上の歴史をもつ国重要無形民俗文化財です。毎年8月3日~6日の4日間開催され、夜に行われる≪夜本番≫と、昼竿燈と呼ばれている≪妙技会≫があります。妙技会というのは、大若・小若・囃子方それぞれの部門に分かれ、技を競い合うもので、絶妙なバランスで竿燈を手や肩や腰や額などに移し替えたり、花傘や扇子を使ったスリリングな妙技を見ることが出来ます。私は、妙技会を見たことがないので一度見てみたいと思っていました。今年の妙技会は、8月4日~6日まで行われるとのことなので、是非行ってみたいと思います。

竿燈そのものを見るのも楽しいですが、お祭りと言ったら⇒屋台!!ではないでしょうか。美味しそうなものがたくさん並び、どうしてもそちらの方に目がいってしまいます。ご当地グルメフェスティバルも開催されますので、そちらも要チェックです。

秋田竿燈まつり 公式WEBサイト
http://www.kantou.gr.jp/index.htm
ご当地グルメフェスティバル
http://www.akitacci.or.jp/bfes/index.html

観音


話は変わりますが、先日岩手県釜石市にある「釜石大観音」というところに行って来ました。
三陸海岸の海沿いにあるとても大きな観音様。高さ48.5mもあるそうです。
いつか行ってみたいと思っていて、先日それが実現しました。
魚を抱いているので「魚籃観音」とも言われているそうです。
観音様の内部にある、約200段のらせん階段を上っていくと・・・釜石湾を一望できる展望台に着きました。

皆さんも近くに行く機会がありましたら、是非寄ってみてはいかがでしょうか。

上からの眺めは絶景でした。

海

By 2番目の『な』

2016.07.01 | 社長だより

社長だより vol.19

【文房四宝 その2】

信助

 『「こんなことになるんだったら・・・」信助がうつむいて、低い声で言った。「いや、こうなるとわかってたら、あのとき…」「だめよ」おつえは鋭い声でさえぎった。「それを言っちゃだめ、信助さん」町にたそがれ色がたちこめるころ、おつえは妹の家を出た。~ 信助が言いかけた言葉を思いだしたとき、おつえは不意に目に涙があふれ、頬を伝うのを感じた。信助が何を言おうとしたかはわかっている。だが、過ぎた歳月は、もう取り返すことができないのだとおつえは思っていた。』
(昭和54年5月号太陽”特集小説 藤沢周平 歳月より、挿絵:中一弥“)

引用の部分は、おつえが妹のさちと信助が暮らす裏店に初めて出向いた日のこと。さちが二人の関係を知ってか知らずかお茶菓子を買いに出て二人だけになった時の場面だ。おつえが嫁いだ材木商上総屋が間もなく人手に渡ろうとしている間際だった。挿絵は信助。

 墨というと先ごろ亡くなられた富田勲さんの、NHK新日本紀行のテーマソングと共に紀州で裸一貫、真っ黒になり墨を練るあの光景を思い起こす。墨は松煙墨に限ると聞くが、あまりの重労働で昭和の三十年代でほぼ松を燃やす煙は消えたそうだ。手元にある墨は油煙墨だろう。ナタネ油を燃やして煤をとったものだ。しかし、まだ摩っていないこの墨(写真上段の左端)は価格から見て松煙墨かもしれない。購入した時、産地を聞いておけばよかった。

墨

 墨は乾いてから、働き時が30~40年後に最もいい色が出ると言われる。さすれば今がちょうど摩り時だ。しかし文箱から漂う墨の香は何とも落ち着くのである。あと何年生きられるかわからないが心を摩ることに徹したほうがいいのかもしれない。気に入った相性のいい硯でゆったりと紙に向ってこの墨を摩っている自分を思うと楽しくなってくる。墨は摩ればなくなるが墨色として残る。黒色ではあるが様々な墨色に思いを馳せるとますます楽しみになってくる。現代の名工、墨匠 港 竹仙の手になる墨跡を見たいものだ。きっと私はこれからも目肥えを楽しんでゆくのだろう。

紙

 友人からお膳を譲り受けた。お膳を包んでいた袋紙、厚手ながらごわごわ音もせずしなやかで感触は布だ。輪島と「印」があるので地域は離れているものの、越前和紙か若狭和紙と勝手に思っている。一方、この存在感のある「印(6×9センチのほぼ黄金比)」が読めない。気になる。読める人はきっと川連(かわつら)だ。「川面漆器伝統工芸館」に出かけた。訪館は初めてだ。おさえがちの外観とは違い一歩はいると穏やかな華やかさに気分が高揚する。玄関ホールに水滴の入った硯箱が展示してあった。蒔絵もいいがデザインが繊細で透明感がありことのほか上品だ。簡単にお断りされるかなと思いながら「印」を読んでもらった。“詳しいことはわからないので理事長に聞きます”とのこと。日曜にもかかわらず、ものの数分である理事の方に駆けつけていただいた。お膳を一目で“『本物の伝統輪島塗です。時代は大正あたり、読み方は「朱(しゅ)の方が、ろいろ とぎだし、とくさん ぬのきせ ほんかたぢ」』”、併せて製法も丁寧にお話しされた。数週間のもやもやが氷解した。館員の方々にも随分とお世話になった。もう一度ゆっくり訪ねてみよう。

紙束

 左の紙束は茶箱に残された半紙。半切も相当数ある。シミがはいらないようたまに取り出しては眺めている。半紙の中には、画宣紙(がせんし)の他、○○さんからのプレゼントと書いたものがある。懐かしい方の名だ。「手すき、雁皮(がんび)、シミなし」などと書かれたものもある。きっと大事にしまっていたものだろう。『奉書紙』や『鳥の子紙』と思われる紙もある。このまま残してももったいない。寝室の障子に張ったらさぞかし贅沢だろうなあ。

平成28年7月

2016.07.01 | 事務美貌録

第六回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★ 7月号

先日の朝礼スピーチで、気になる話題がありました。小学校の運動会で、住民からの苦情により、狼煙(※)やスターターピストルが使用できなくなったという内容です。都会の住宅密集地であるならまだしも、秋田市といっても田畑も散在する小学校においてそんなことがあるとは思いもよらず驚きました。
子供の頃を思い出すと、朝一番に運動会の開催を知らせる狼煙を聞いて、ワクワク・ドキドキしたものです。徒競走ではピストルの音が恐くて苦手でしたが、観戦している家族にも届く音ですから、そのほうが都合が良かったのだと思います。かの小学校はピストルの変わりに笛を使用するそうですが、グランド全体に音が響くのか気になります。

私の子供が通う小学校では狼煙も上がり、スターターピストルも使用していましたが、今一つ物足りない、盛り上がらないなと思ったら、後でBGMが無かったことに気付きました。“天国と地獄”といった定番のクラシックのBGMが流れていないだけで高揚感が半減するものだなと思いました。なんとも寂しい限りです。

万国旗

これと対照的なのが、息子の通う保育園です。狼煙こそ上げないものの、スターターピストルはもちろん、BGMも流れていますし万国旗も飾っています。保育士による戦隊ショーまであります(写真)。聖火台もありまして点火を園児代表(年長組)が行います。そして一番特徴的なのが、家族揃ってのお弁当です。お昼はグラウンドで皆で一緒に食べるのが園長先生のこだわりなんです。そしてお昼を挟んで午後はリレーで盛り上がるというのが慣習です。外で行うのが前提なので、当然天気に左右されます。毎年予備日を設けているのですが、微妙な天候の時は、実施か延期かで気を揉みます。

戦隊ショー

数年前、事情があって止むを得ず体育館で実施したことがありました。室内は狭いこともあり、お弁当無しの午前中で終了しました。何とも味気ないというか簡単な運動会のように感じられました。確かに朝早くから、家族全員のお弁当作りや会場設営など準備は大変ですが、終わった後の充実感・満足感は、体育館の比ではありません。後で思い返してみても、グラウンドで実施した運動会のほうが内容をよく覚えていて記憶に残っています。

何でも簡単に手っ取り早く済ませることが必ずしもいいこととは言えません。料理でもひと手間かけると美味しくなると言います。母がよく、「子供には出来るだけ手作りの食事を作ってあげなさい。」と言っていたのを思い出しました。忙しさにかまけて簡単に済ます度に反省しきりですが・・・。
最近、自宅近くの神社から竿灯のお囃子が聞こえるようになってきました。お囃子の練習が始まると、もう1ヶ月ほどで竿灯が始まって夏も本番だなと感じることができます。
どうかこの音に苦情の来ることがありませんように・・・。

※狼煙・・・運動会などで使われるのは、音しか出ない花火だそうです。ここでは子供の頃から慣れ親しんだ呼び方で“狼煙”としました。

by 「I」

2016.06.01 | 社長だより

社長だより vol.18

【文房四宝 その1】

中一弥

 『・・・硯箱は黒漆に、日輪とまさにとび立とうとする鶴を、金、銀と朱漆で描いた蒔絵細工で出来ていた。蓋を開けると、おつえはその中の筆を一本取った。軸は珍しい斑竹で、筆毛は実家の兄の見立てでは、信濃産の馬毛を使っているらしいという。品のいい巻筆だった。・・・』
(引用は昭和54年5月号太陽”特集小説 歳月より、挿絵:中一弥“)

 これは藤沢周平の「歳月」という特集小説の一節。読んでいると情景が想いにすっと入り込み心が揺れる。そして、いつも結末を期待させるが、気持ちにうるおいも残さず現実には逆らえないはかない余韻だけを残す。
挿絵は、「おつえが嫁入りの三日前に、幼なじみであった信助が冒頭の筆を届けてきた時、“心も添えてきた”ことを感じ、追い掛けたが会えず、力なく欄干に手を伸ばすシーン」のようだ

 宋代の蘇易簡(そいかん)は文房四譜という書物を遺し、同じく宋の蘇東坡(そとうば)は“人、墨を摩らず、墨、人を摩る”と言ったそうだ。共に一千年も前の中国に遡る。解説は誠におこがましい。文房四宝(ぶんぼうしほう)という言葉はその時既に定説であったらしい。文房至宝あるいは文房四友とも言われるが、文房は文人の「書斎」であり、四宝は「筆・硯・墨・紙」を指す。

筆

 習字は小学1~3年の頃、有坂先生という70歳代の方に手ほどきを受けた。楽しみは“お稽古”が終わった後のお茶おきにのらない白く固まった羊羹の端っこだった。中学になりお習字を忘れた頃、親の勧めで石田白樹先生(元秋田大学助教授、県文化功労者)のもとに通った。当時の先生の半紙・条幅の手本が今も残っている。上品でゆったりとしたふくよかさに『太宗の書』が浮かぶ。
あれから50年以上になった。ほとんど筆も握ってない。写真は母親が六十の手習いで使ったもの。大半は羊毛筆だが、よく柔らかい筆を使っていたものと思う。羊毛筆は首から脇の下にかけた山毛がいいらしい。また、良い筆は穂先が飴色と聞いていたので数本贈っているだろう。しかし、どれも未使用だ。筆箱をあけるたびに小筆で“写経を想う”のだが未だ果たせないでいる。きっと両親も待っているだろう。筆は使い込めばその良さがわかるという。今もなんとなく穂先をつかい、腹をつかう感覚はあるが、指で顔真卿(がんしんけい)の「之や大」の字をなぞるだけだ。まだ、紙に向うほど胆力はない。「弘法は筆を選ぶ」まで相当に時間がかかる。

硯

 硯をみていると、自在な運筆をものにしている自分が浮かぶ、と言ったら笑われてしまう。しかし、硯のしっとりとした質感に不思議な安堵感がある。日本の武家社会での論功行賞は領地がほとんどと思うが、古来中国では硯こそが皇帝から下賜されていたという。その優れた硯の代名詞が「端渓」(たんけい)と言われる。紫を基調にして黒、青、紅・灰褐色など様々な色彩があると言われ、「紋様・斑紋や眼」などを持っているものもある。写真は端渓といわれて求めたものだが、全体が暗紫赤褐色で陸(おか)の右下に落款のような「赤い眼」を持っている。肌は手になじみ、つい文人の夢を見てしまう。端渓の他に雑誌でしか見たことがない幻の洮河緑石(とうがりょくせき)、蘭亭硯(らんていけん)など艶やかな風格を持つ硯を是非拝見したいものだ。

陶磁硯


  一昨年、新秋田県立美術館長の平野庫太郎さんの手になる陶磁硯に出会った。“これが陶器のすずりか!”。硯は「石」という思い込みもあったが、文房を書いた雑誌をみると、「墨を摩れるものすべてが硯」、そして、日本に優れた硯石がなかったので陶硯が非常に多かったことへの記述もあった。到底文人を夢見ることは無理だ。写真は平野さんの『輪花文(りんかもん)、辰砂釉(しんしゃゆう)硯(直径は約13㎝、陸の直径は8㎝)、右は辰砂釉水滴、直径約6.5㎝』。摩ってみたい気もあるが、心を摩った方がいいようだ。

平成28年6月