秋田東北商事株式会社

NEWSお知らせ

2016.07.01 | 社長だより

社長だより vol.19

【文房四宝 その2】

信助

 『「こんなことになるんだったら・・・」信助がうつむいて、低い声で言った。「いや、こうなるとわかってたら、あのとき…」「だめよ」おつえは鋭い声でさえぎった。「それを言っちゃだめ、信助さん」町にたそがれ色がたちこめるころ、おつえは妹の家を出た。~ 信助が言いかけた言葉を思いだしたとき、おつえは不意に目に涙があふれ、頬を伝うのを感じた。信助が何を言おうとしたかはわかっている。だが、過ぎた歳月は、もう取り返すことができないのだとおつえは思っていた。』
(昭和54年5月号太陽”特集小説 藤沢周平 歳月より、挿絵:中一弥“)

引用の部分は、おつえが妹のさちと信助が暮らす裏店に初めて出向いた日のこと。さちが二人の関係を知ってか知らずかお茶菓子を買いに出て二人だけになった時の場面だ。おつえが嫁いだ材木商上総屋が間もなく人手に渡ろうとしている間際だった。挿絵は信助。

 墨というと先ごろ亡くなられた富田勲さんの、NHK新日本紀行のテーマソングと共に紀州で裸一貫、真っ黒になり墨を練るあの光景を思い起こす。墨は松煙墨に限ると聞くが、あまりの重労働で昭和の三十年代でほぼ松を燃やす煙は消えたそうだ。手元にある墨は油煙墨だろう。ナタネ油を燃やして煤をとったものだ。しかし、まだ摩っていないこの墨(写真上段の左端)は価格から見て松煙墨かもしれない。購入した時、産地を聞いておけばよかった。

墨

 墨は乾いてから、働き時が30~40年後に最もいい色が出ると言われる。さすれば今がちょうど摩り時だ。しかし文箱から漂う墨の香は何とも落ち着くのである。あと何年生きられるかわからないが心を摩ることに徹したほうがいいのかもしれない。気に入った相性のいい硯でゆったりと紙に向ってこの墨を摩っている自分を思うと楽しくなってくる。墨は摩ればなくなるが墨色として残る。黒色ではあるが様々な墨色に思いを馳せるとますます楽しみになってくる。現代の名工、墨匠 港 竹仙の手になる墨跡を見たいものだ。きっと私はこれからも目肥えを楽しんでゆくのだろう。

紙

 友人からお膳を譲り受けた。お膳を包んでいた袋紙、厚手ながらごわごわ音もせずしなやかで感触は布だ。輪島と「印」があるので地域は離れているものの、越前和紙か若狭和紙と勝手に思っている。一方、この存在感のある「印(6×9センチのほぼ黄金比)」が読めない。気になる。読める人はきっと川連(かわつら)だ。「川面漆器伝統工芸館」に出かけた。訪館は初めてだ。おさえがちの外観とは違い一歩はいると穏やかな華やかさに気分が高揚する。玄関ホールに水滴の入った硯箱が展示してあった。蒔絵もいいがデザインが繊細で透明感がありことのほか上品だ。簡単にお断りされるかなと思いながら「印」を読んでもらった。“詳しいことはわからないので理事長に聞きます”とのこと。日曜にもかかわらず、ものの数分である理事の方に駆けつけていただいた。お膳を一目で“『本物の伝統輪島塗です。時代は大正あたり、読み方は「朱(しゅ)の方が、ろいろ とぎだし、とくさん ぬのきせ ほんかたぢ」』”、併せて製法も丁寧にお話しされた。数週間のもやもやが氷解した。館員の方々にも随分とお世話になった。もう一度ゆっくり訪ねてみよう。

紙束

 左の紙束は茶箱に残された半紙。半切も相当数ある。シミがはいらないようたまに取り出しては眺めている。半紙の中には、画宣紙(がせんし)の他、○○さんからのプレゼントと書いたものがある。懐かしい方の名だ。「手すき、雁皮(がんび)、シミなし」などと書かれたものもある。きっと大事にしまっていたものだろう。『奉書紙』や『鳥の子紙』と思われる紙もある。このまま残してももったいない。寝室の障子に張ったらさぞかし贅沢だろうなあ。

平成28年7月

2016.07.01 | 事務美貌録

第六回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★ 7月号

先日の朝礼スピーチで、気になる話題がありました。小学校の運動会で、住民からの苦情により、狼煙(※)やスターターピストルが使用できなくなったという内容です。都会の住宅密集地であるならまだしも、秋田市といっても田畑も散在する小学校においてそんなことがあるとは思いもよらず驚きました。
子供の頃を思い出すと、朝一番に運動会の開催を知らせる狼煙を聞いて、ワクワク・ドキドキしたものです。徒競走ではピストルの音が恐くて苦手でしたが、観戦している家族にも届く音ですから、そのほうが都合が良かったのだと思います。かの小学校はピストルの変わりに笛を使用するそうですが、グランド全体に音が響くのか気になります。

私の子供が通う小学校では狼煙も上がり、スターターピストルも使用していましたが、今一つ物足りない、盛り上がらないなと思ったら、後でBGMが無かったことに気付きました。“天国と地獄”といった定番のクラシックのBGMが流れていないだけで高揚感が半減するものだなと思いました。なんとも寂しい限りです。

万国旗

これと対照的なのが、息子の通う保育園です。狼煙こそ上げないものの、スターターピストルはもちろん、BGMも流れていますし万国旗も飾っています。保育士による戦隊ショーまであります(写真)。聖火台もありまして点火を園児代表(年長組)が行います。そして一番特徴的なのが、家族揃ってのお弁当です。お昼はグラウンドで皆で一緒に食べるのが園長先生のこだわりなんです。そしてお昼を挟んで午後はリレーで盛り上がるというのが慣習です。外で行うのが前提なので、当然天気に左右されます。毎年予備日を設けているのですが、微妙な天候の時は、実施か延期かで気を揉みます。

戦隊ショー

数年前、事情があって止むを得ず体育館で実施したことがありました。室内は狭いこともあり、お弁当無しの午前中で終了しました。何とも味気ないというか簡単な運動会のように感じられました。確かに朝早くから、家族全員のお弁当作りや会場設営など準備は大変ですが、終わった後の充実感・満足感は、体育館の比ではありません。後で思い返してみても、グラウンドで実施した運動会のほうが内容をよく覚えていて記憶に残っています。

何でも簡単に手っ取り早く済ませることが必ずしもいいこととは言えません。料理でもひと手間かけると美味しくなると言います。母がよく、「子供には出来るだけ手作りの食事を作ってあげなさい。」と言っていたのを思い出しました。忙しさにかまけて簡単に済ます度に反省しきりですが・・・。
最近、自宅近くの神社から竿灯のお囃子が聞こえるようになってきました。お囃子の練習が始まると、もう1ヶ月ほどで竿灯が始まって夏も本番だなと感じることができます。
どうかこの音に苦情の来ることがありませんように・・・。

※狼煙・・・運動会などで使われるのは、音しか出ない花火だそうです。ここでは子供の頃から慣れ親しんだ呼び方で“狼煙”としました。

by 「I」

2016.06.01 | 社長だより

社長だより vol.18

【文房四宝 その1】

中一弥

 『・・・硯箱は黒漆に、日輪とまさにとび立とうとする鶴を、金、銀と朱漆で描いた蒔絵細工で出来ていた。蓋を開けると、おつえはその中の筆を一本取った。軸は珍しい斑竹で、筆毛は実家の兄の見立てでは、信濃産の馬毛を使っているらしいという。品のいい巻筆だった。・・・』
(引用は昭和54年5月号太陽”特集小説 歳月より、挿絵:中一弥“)

 これは藤沢周平の「歳月」という特集小説の一節。読んでいると情景が想いにすっと入り込み心が揺れる。そして、いつも結末を期待させるが、気持ちにうるおいも残さず現実には逆らえないはかない余韻だけを残す。
挿絵は、「おつえが嫁入りの三日前に、幼なじみであった信助が冒頭の筆を届けてきた時、“心も添えてきた”ことを感じ、追い掛けたが会えず、力なく欄干に手を伸ばすシーン」のようだ

 宋代の蘇易簡(そいかん)は文房四譜という書物を遺し、同じく宋の蘇東坡(そとうば)は“人、墨を摩らず、墨、人を摩る”と言ったそうだ。共に一千年も前の中国に遡る。解説は誠におこがましい。文房四宝(ぶんぼうしほう)という言葉はその時既に定説であったらしい。文房至宝あるいは文房四友とも言われるが、文房は文人の「書斎」であり、四宝は「筆・硯・墨・紙」を指す。

筆

 習字は小学1~3年の頃、有坂先生という70歳代の方に手ほどきを受けた。楽しみは“お稽古”が終わった後のお茶おきにのらない白く固まった羊羹の端っこだった。中学になりお習字を忘れた頃、親の勧めで石田白樹先生(元秋田大学助教授、県文化功労者)のもとに通った。当時の先生の半紙・条幅の手本が今も残っている。上品でゆったりとしたふくよかさに『太宗の書』が浮かぶ。
あれから50年以上になった。ほとんど筆も握ってない。写真は母親が六十の手習いで使ったもの。大半は羊毛筆だが、よく柔らかい筆を使っていたものと思う。羊毛筆は首から脇の下にかけた山毛がいいらしい。また、良い筆は穂先が飴色と聞いていたので数本贈っているだろう。しかし、どれも未使用だ。筆箱をあけるたびに小筆で“写経を想う”のだが未だ果たせないでいる。きっと両親も待っているだろう。筆は使い込めばその良さがわかるという。今もなんとなく穂先をつかい、腹をつかう感覚はあるが、指で顔真卿(がんしんけい)の「之や大」の字をなぞるだけだ。まだ、紙に向うほど胆力はない。「弘法は筆を選ぶ」まで相当に時間がかかる。

硯

 硯をみていると、自在な運筆をものにしている自分が浮かぶ、と言ったら笑われてしまう。しかし、硯のしっとりとした質感に不思議な安堵感がある。日本の武家社会での論功行賞は領地がほとんどと思うが、古来中国では硯こそが皇帝から下賜されていたという。その優れた硯の代名詞が「端渓」(たんけい)と言われる。紫を基調にして黒、青、紅・灰褐色など様々な色彩があると言われ、「紋様・斑紋や眼」などを持っているものもある。写真は端渓といわれて求めたものだが、全体が暗紫赤褐色で陸(おか)の右下に落款のような「赤い眼」を持っている。肌は手になじみ、つい文人の夢を見てしまう。端渓の他に雑誌でしか見たことがない幻の洮河緑石(とうがりょくせき)、蘭亭硯(らんていけん)など艶やかな風格を持つ硯を是非拝見したいものだ。

陶磁硯


  一昨年、新秋田県立美術館長の平野庫太郎さんの手になる陶磁硯に出会った。“これが陶器のすずりか!”。硯は「石」という思い込みもあったが、文房を書いた雑誌をみると、「墨を摩れるものすべてが硯」、そして、日本に優れた硯石がなかったので陶硯が非常に多かったことへの記述もあった。到底文人を夢見ることは無理だ。写真は平野さんの『輪花文(りんかもん)、辰砂釉(しんしゃゆう)硯(直径は約13㎝、陸の直径は8㎝)、右は辰砂釉水滴、直径約6.5㎝』。摩ってみたい気もあるが、心を摩った方がいいようだ。

平成28年6月

2016.06.01 | 事務美貌録

第五回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★6月号

実は私、最後の「な」は「マンホール女子」なんです。 私が弊社で初めて配属されたのが建設資材部でした。
建設資材部では杭打工事や、コンクリート二次製品、下水道資材などを取り扱っているのですが、そこでマンホールの蓋と出会いました。

最近では「マンホール女子」という言葉がある程、人気も出てきたマンホールの蓋。 各自治体によってデザインが違ったり、用途によって微妙な違いがあったりします。

今回は私の好きなマンホールの蓋ベスト3(秋田編)を紹介します。

☆第3位☆ 秋田市集排  

秋田市といえば竿燈マークの蓋なのですが、こちらは農業集落排水の蓋でホタルがデザインされています。幼い頃、ホタル狩りに行ったことを思い出します。

マンホール 3

☆第2位☆ 北秋田市阿仁 親子熊の親子蓋

親子蓋はφ900の大きな蓋(親蓋)にφ600の普通の蓋(子蓋)が入っています。 マタギで有名なこの地域の蓋には熊の親子がデザインされています。

マンホール 2

☆第1位☆ 北秋田市阿仁 根子 にある『農集』

この地域に受け継がれる根子番楽がデザインされています。 これは、その番楽を見に行った時に撮影しました。 国道から細い長いトンネルを抜けると現れる擂り鉢状の地域が根子です。 空気も違ったものに感じました。

マンホール 1

農集(農業集落排水)の蓋は面白いデザインのものが多いのでぜひ探してみてください! 私は、東由利の農集の蓋(かわいい牛さんがデザインされています。)を探してみたいです。

以上、マンホール女子の「な」でした。

2016.05.09 | 社長だより

社長だより vol.17

【大豆と小豆(あずき)その3】

雲平鯛

 出張先に“お菓子の鯛が届いています”とのこと。聞き直すと“馬口労町のお菓子屋さんから、私へ、と1枚多く作った”由。“雲平鯛だ”。老舗のこだわりにあれこれ思いをめぐらし帰社した。ずしりと重さを感ずる。家で計ってみると450グラムピッタリだ。旬の桜鯛のよう、いや雲平桜鯛だ。生きているようなしなやかさがある。餡子は小豆から手抜きのないしっとりとした晒し餡。普段食べない家内までも“この雲平はおいしい”と一緒にいただいた。
依頼主の心遣いの祝い事に思いが馳せる。

 一方、なぜこの雲平鯛の頭が右向きなのか気になる。店主に伺っても、“この跳鯛(はねだい)は昔から作っているので”と、理由はわからない。それにしても見事な彫型だ。精緻な手仕事には驚きだ。秋田で彫れる職人は先ごろ絶えたそうだ。
 箱詰めは同老舗の祝い用料理菓子で、結婚式の引き菓子だ。これだけ見後な引き菓子は見たことがない。「鯛は生雲平、エビとサザエと巾着は煉切り、かまぼこは波をあらわした雲平、羊羹は白小豆を水色に染めたもの」だそうだ。“こんな引菓子を注文したい”。

椿

 風薫る五月。遅い春を告げた椿も散りだした。“今年は「椿餅」を食べなかったなー・・・”写真は藪椿に絞りと白を接ぎ木した父の自慢の一品。今年も咲いたよ!
 花岡謙二編の日本植物歌集、椿の項に、正岡子規・伊藤左千夫・与謝野晶子・若山牧水・北原白秋・岡本かのこと並んで、嬉しいことに“平福百穂”の名がある。『くれなゐの道はかなしも玉椿ぬれ葉のかげにふふみけるかも』と。

 ところで、独りよがりの甘味C級グルメ3品。
『向能代の羊羹、かまだの酒饅頭、後三年道の駅雁の里おやき』
羊羹は亡くなった先代にごちそうになったもの。大釜についた羊羹の「こげ」で、木べらで削いで“まず、食べてみれ!”と。しつこい甘みもなく小豆の味そのもの。小倉羊羹のような小豆が切り口に当たりうす白い潤みを帯びて見える華やかさはないが、今も先代のもてなしが舌に残る。
 酒饅頭は昭和30年過ぎ、秋田駅前の元金座街と呼ばれた商店街にあった食堂の酒饅頭。(数年前廃業)テレビの出初めに家族四人市電に乗って出かけ、食堂で酒饅頭を食べながら相撲を見るささやかな団らんであった。湯気の中に納まっている酒饅頭。芳醇な酒の香りは今もって類を見ない。
 おやきは製造者が二人だが、形が“ごろっ”とし、皮が米粉の方だ。棚に見えなくなり、店員に聞いたらおばあさんが亡くなったと聞く。私流の食べ方は、冷凍後オーブンで表面をこんがりと焼いて食べるというものだ。皮は香ばしく熱々で、粒餡は冷たく絶品だった。
 残念ながら3品、いずれも今は手(口)には入らない。

平成28年5月

2016.05.02 | 事務美貌録

第四回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★5月号

はじめまして。いなさなな日記の末尾より2番目の「な」です。
4月上旬、あるコンビニでスーツ姿の男性数名を見かけました。晴れやかな表情に、真新しいスーツ姿、一目で新入社員だと分かりました。フレッシュという言葉がぴったりで、見ているこちらが微笑んでしまいます。これから社会という航海に出る彼らに、ガンバッテとエールを送りたいです。

弊社でも中途採用で25歳の新人が入りました。芸能界に憧れて東京の芸能事務所に飛び込んだ経歴があります。背が高くて、ルックスも良い、いわゆるイケメンです。今後、どのような活躍をしてくれるのか楽しみにしたいと思います。

さて、GW最中です。今年は2日休めば10連休という大型連休。予定がある方もそうでない方も無事故で楽しく過ごしていきましょう。

先月、仙台の宮城県立美術館で「レオナルド・ダ・ヴィンチと“アンギアーリの戦い”展」を鑑賞してきました。日本初公開の絵画や現地美術館内の写真、ダヴィンチの多才な才能を紹介するコーナーがありました。教科書に載っていた作品もあり、貴重な品々をじっくり堪能してきました。興味のある方は足を運んでみてはいかがでしょうか。

http://davinci-mmt.tv/

今春は、「もうひとつの輝き最後の印象派」(秋田市立千秋美術館)

http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ss/senshu-art/default.htm

「江戸の遊び絵づくし展~おもしろ浮世絵ご覧あれ!~」(横手市秋田県立近代美術館)

http://www.pref.akita.jp/gakusyu/public_html/

という面白そうな絵画展が続きます。芸術の秋ならぬ、芸術の春を満喫したいと思います。

2016.04.06 | 社長だより

社長だより vol.16

【大豆(だいず)と小豆(あずき) その2】

春欄

 春蘭が人知れずひっそりと花芽を持ち上げ始めた。もう40年も前に西目町の砂防林から採取したものだ。地味だが花の形は目をくぎ付けにする自己主張がある。トロ箱2箱を会社に持ち帰ったらあっという間に空になっていた。兄弟たちは元気でいるだろうか。
 馬酔木(あせび)の花も目立たないが、一雨来るといっそう我もわれもと芽吹き、春の移ろいにうきうきさせられる。中でも、毎年秋に頭を刈り取られる“ねこやなぎ”。私は“めめんこ”と呼んでいるが、柔らかな銀色の産毛は子供への記憶をたどる。

 ある日の昼下がり、いきなり“70円ですか?90円ですか?110円ですか?”“えっ”なおも電話の主はたたみかけてくる。“山吹饅頭です!”頭の中が混乱する。さらに“葬式饅頭とも呼ばれているそうです、いいんですか?お土産にも使われています”とのこと。単語の連発。脈絡がない。ますますわからなくなった・・。いずれにしても食べないことを頑なに守ってきた葬式饅頭。“あなたに罪はないが私は知らずに食べていたのか?”

雲平鯛

 この饅頭の存在を知ったのがにかほの絶品醤油ラーメン店、飛島出身のご主人からだ。私は人知れず出会ったことのない「ご当地甘味C級グルメ」を密かに発見することを出張の楽しみにしている。ちなみにC級の定義は、そこの店だけで販売していることが唯一の条件だ。餅きり、干菓子、饅頭など一切ジャンルにこだわりはない。但し、洋菓子系は頭に無い。
いつも通りご主人に探りを入れてみた。“ここには無い”の一点張りで取り付く島もない。しかし、なかなか帰らない私を見て、小柄な体をパイプ椅子に埋め、“酒田にはある、晒し餡のいい饅頭がある”。丸メガネの奥からひびの入ったコンクリートの床をみながらしんみりと語り始めた。“飛島から出て、酒田の菓子舗で働いていた。独立めざし、この場所で開店した。しかし、あの餡子が出来なかった・・・、それで飛魚だしを使って今のラーメン店を始めたんだ”そうだ。早速、くだんの菓子舗に飛んで行ったことは言うまでもない。確かにさらりとした品のある甘みだ。宅配で送ってもらおうかと思っていた矢先、あの矢継ぎ早の電話。結局頂いたが食べなかった。

雲平鯛

 この頃はあちこちでおいしいと言われる饅頭が出ているが、なぜかピンとこない。きっと昔の餡子が脳にへばりついているのだろう。写真は「雲平鯛」。尺物と言いたいところだが、私の親指と薬指をひろげたくらいで約七寸というところか。餡子が変わっている。いわゆるあずき色ではなく茶色でぱさぱさしている。甘みはあるが、甘いという感覚ではない。昭和20年~30年前半の結婚式の引き出物にはこの「雲平鯛か山科のお頭付き、あるいは焼き型の付いた固い粉菓子の鯛」がついてきたものだ。あの歯の折れるような粉菓子、母親は4等分するのだが大きさに満足した記憶はない。

  平成28年4月

2016.04.01 | 事務美貌録

第三回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★4月号

はじめまして。“いなさなな”の真ん中の「さ」です。
4月。桜の季節になりました。秋田で桜と言えば、角館が有名です。武家屋敷と桜並木が美しく「みちのくの小京都」と呼ばれています。弊社があります卸団地にも桜並木があり、毎朝通勤時に徐々に色づく桜の枝を見るのが密かな楽しみとなっています。今年の開花は4月16日と予想されており今か今かと心待ちにしています。桜にも花言葉があるようで、少し調べただけでもソメイヨシノは「純潔」「優れた美人」シダレザクラは「優美」「ごまかし」等、桜の種類によって様々でした。

そして、この時期の弊社の社内行事として例年「新入社員歓迎会兼観桜会」が開催されます。漢字で書くとイカツイ名前の行事ですが、読んで字の如く、桜を愛でながら新入社員と親睦を深めよう!の会となっており、幹事の方々が趣向を凝らし毎年様々な場所で開催されます。

秋田県は美酒王国秋田とも言われ平成26年7月には「秋田の酒による乾杯を推進する条例」も制定され、酒造業がとても盛んです。弊社でもお酒が好きな方が多く、社内行事では全員が和気あいあいと楽しむ事ができます。

春になり暖かくなってきたので運動をしようと決め、事務服に万歩計を忍ばせて毎日歩数をカウントしています。本格的なウォーキングは面倒なので、せめて日々の歩く歩数を「少しでも多く!」と意識していますが中々歩数は伸びず、家に帰ってこれしか歩いてなかったの…と思う時もしばしば。目標を1万歩として、お昼休みに卸団地内を歩こうかなと思いつつ15時におやつを食べて英気を養う日々です。目標達成にはもう少し時間がかかりそうな「さ」でした。

2016.03.01 | 事務美貌録

第二回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★ 3月号

初めまして。営業事務のNです。
先月から始まりました「いなさなな日記」、今回初投稿になります。
普段からブログ等やっている方は慣れているのかもしれませんが、慣れていないのでどんな事を書こうか非常に悩みます。
ふと朝礼スピーチのようだな・・・と思いました。
朝礼スピーチとは、毎週月曜日の朝礼時に、社員が順番で日ごろの思いや近況を発表するものです。一年に2回くらい順番がまわってくるのですが、いつも何を話そうか悩みます。
自分の考えていることを人前で話すというのは、緊張しますがとてもいい経験になります。また、周りの人の近況や思っていること、こんな場所に行ってきたなど聞くことが出来るので、なかなか面白いです。

さて、2月14日はバレンタインデーでしたが、みなさんチョコを食べましたでしょうか。
バレンタインデーに女性が男性にチョコを渡すのは、日本独自の習慣のようで、欧米では、恋人や友達、家族などがお互いにカードや花束、お菓子などを贈ります。

毎年お店には特設コーナーができ、可愛いパッケージのものや、美味しそうなチョコがたくさん並びます。
都心の百貨店では、”試食”ができるとテレビでやっていました。(試食といっても、無料ではありませんでしたが。)
見た目だけではなく、味にもこだわる方にはとてもいい企画だと思います。
美味しかったら、きっと自分用にも買ってしまいますので、お店側もよく考えてるなぁと感心します。
私自身は、今年は初めてインターネットで注文しました。
試食はできませんが、もちろん「自分用」も買いました。
味も美味しかったので、また注文しようかと思ってしまい、見事お店の術中にはまってしまったのでした。

2016.02.02 | 社長だより

社長だよりvol.15

【大豆(だいず)と小豆(あずき) その1】

 去年初めて大豆を収穫した。子供の頃に「大豆のてんぷら」をおやつ代わりに食べていた。いつか復刻版であの時の味をと思っていた。メリケン粉に当時はきっとサッカリンだと思う。家内に甘くしないで揚げてもらった。歯ごたえも記憶にあるが以外に柔らかい。当時は何を食べてもおいしかったのだろう。「蒸かし芋」も当たりはずれはあったが、仏壇から失敬したことも懐かしい。
 また、隣の畑の真似をして小豆も植えてみた。大豆と一緒で全部枯れたら収穫と思っていたら笑われてしまった。“枯れたものから採っていかないと土についてふやけてしまう”、と言われた。確かに茎が細くなよなよしている。それからというもの、2~3日ごとに早起きして収穫。“ささげ”をぐっと細くした鞘に小豆が縦に7~8粒並んでいる。虫食いや未成熟で色ののらないものが結構ある。それでも2升ぐらいはできたろう。これも甘さ抑えて食べてみた。ところどころ硬く歯に残る。しかし、まぎれもなく小豆の味だ。生産者はいつ刈取り、どんな選別をしているのだろう。

大豆

 「小豆」にこんな話を聞いたことがある。
昔、生保内(おぼない)の集落から東の山奥におじいさんとおばあさんがいたそうだ。めったに人に会うこともなくいつも二人で仲良く暮らしていたど。秋になり“もうすぐ雪神(ゆきおさ)がくるから豆もぐべ~、今年はえぐでぎだ、これで冬も安心だ”。大きくまるまるとりっぱな豆です。ネズミにとられないよう袋に入れて「はり」につるしていたそうです。

山

 やがて外は真っ白です。二人は“さびな~”、といろりに「豆の殻」をくべ、手を揉んでいました。白い煙をあげバチバチ燃えていると、“おじいさん、おばあさん”と女の子の声が聞こえてきます。二人はきょとんとし、顔を見合わせていた時、つるした袋の中から“おじいさん、おばあさん”と聞こえるのです。不思議に思っておばあさんが袋の豆を手のひらにのせると、“あっ”というまに娘がいろりの前にすわっているのです。“ありがとう、私は雪神に『人の手のひらにのらないと人間に戻れない』と「まじない」をかけられて豆になっていたのです。お礼に身の回りのお世話をします”、と言って“あずき”と名付けられた娘と三人でなかよく暮らし始めたそうです。

あずき

 あるとき、畑で草取りをしていたら、立派な若武者が通りかかりました。一目でいいなずけの娘だとわかり、城下に連れてゆくと言いました。あずきは“私は行かなければなりません。小袋に入ったこの豆を私と思って植えてください”と言って若武者といっしょに出てゆきました。二人の落胆ぶりはなかったそうです。やがて、植えた豆は秋には見たこともない小さな赤豆がたくさん採れました。生保内の集落に持っていったら皆がお祝いに使うと言って高い値段で買ってくれました。その豆はいつか小さい豆と書いて『あずき』と呼ばれるようになったそうです。娘は城下でその噂を聞き、東の山を静かに見ていたと・・。

H28.2月

2016.02.02 | 事務美貌録

第一回投稿 新・いなさなな日記

★いなさなな日記★ 2月号

初めまして。営業事務のIです。今月より“いなさなな日記”がスタートします。“いなさなな”とは・・・弊社、営業事務員の苗字の頭文字をとって名付けたサブタイトルです。このサブタイトルは3番目の「な」さんの案です。秋田県の代表銘菓、“さなづら”(※1)に響きが似ていてとても気に入っています。

今年も1ヶ月が過ぎましたが、皆さんは一年の目標を立てたでしょうか?弊社では、1月の最終土曜日に社員全員が集まり、今期の方針を共有し合う会議があります。各部はもちろん、個人の目標設定もあります。個人の目標様式には上司のサポート欄もあり、なかなかよくできているなと感じます。私も完成したことに満足しながら!?この原稿を書いています。期末には自信を持って評価に臨みたいものです。

さて、今年は申年ですが、申には、病や厄が「去る」との云われもあり、縁起の良いものとされています。また昔から、申年に赤いものを身に着けると縁起がいいと云われており、東京の巣鴨では真っ赤なパンツが飛ぶように売れているのだとか。パンツのみならず、赤い下着全般売れているそうです。皆さんも、チェックしてみてはいかがですか?

何はともあれ、これから月に1回いなさなな日記をUPしていく予定ですので、こちらのチェックもよろしくお願い致します。

 ※1.ヤマブドウの果汁を固めて作られたゼリー状の和菓子で、秋田県の銘菓である。 …

2015.11.17 | 事務美貌録

新・いなさなな日記

:lol:「 いなさなな」とは?当社の営業事務員の頭文字をとったものです。

2015.10.28 | 社長だより

社長だより vol.14

【今時分、庭の主役】

 我が家の花や木は全部父が育てていたもの。私の代になって大半水遣り・植え替えが大変なので地植えをしたが、その種類や株も少なくなった。特に“残念だ”と思うのは寿命もあったと思うが古いミカンの木がなくなってしまったことだ。金木犀・銀木犀も消えてしまった。

ほととぎす

『杜鵑(ほととぎす)(草)』
 珍しい花ではないが秋のおとづれと共にこの花が待ち遠しい。派手でもなく、かといって地味でもない。品種改良があってか、はっきりとした色合いの品種もある。家の杜鵑は乳飲み子のような柔らかい風合いだ。ビロードのような手触りのある葉は二列に互生し、紫斑のある花を2~3個上向きに開く。ひだまりにうってつけの花だ。

お茶の花

『お茶の花』
椰子の實の殻に生けたる茶の花の ほのかに匂ふ冬は来にけり   北原 白秋
青密柑はみつつさむき冬枯れの 野みちを行きて茶の花を見たり  前田 夕暮
(花岡謙二編 日本植物和歌集より“茶の花”七首より二首抜粋)

 実生のお茶の木。1センチ足らずの小さな白い花が咲く。どの花も恥ずかしそうに、下を向いている。花の命は数日だろう、気がつけば根元に落ちている。先に咲いた分、すでに椿の実より二回りも小さい茶色の丸い実を落としている。娘は子供の頃よくこの種を丹念に拾っていた。

干し柿

『干し柿』
 “百め柿”と父は言っていた。正確な品種名は知らない。私は“身の程知らず”と勝手に呼ぶ。大きなものになると、大人のこぶし大にもなる。干し柿にすると1週間もしないうちにつるした軸がすっぽり抜け、約1割が落ちる。干し柿を始めたころ、夜中に「ぼとっ」と、何の音だ?謎が解けた。気になるので今年から天気をみて庭の梯子につるした。
  青北風(あおぎた)、という言葉がある。「台風シーズンも過ぎると、駆け足に本格的な秋がやって来る。暦の上では晩秋に近い。季節風が交代し、涼気を追って北がかった風が吹く。これが吹くと、まだ逡巡していない夏の気が去り、めっきり秋らしくなる。そして空気は澄み、海も空も美しく青むのである*」。今年は運よく青空にも恵まれた。近づくと和菓子の匂い、どちらが身の程知らずか。(*山本健吉 ことばの歳時記 文藝春秋社)

『むらさきしきぶ』

むらさきしきぶ

 実の色から源氏物語の作者をイメージして名付けられたようだが、何ともいい名前だ。和の色事典に「紫式部」という色名がある。色調は「深く渋い赤」だが、庭の“むらさきしきぶ”は光を浴びると光沢が出、青紫に見える。夏に咲く花も淡い紫だが、こはぜ・ななかまど・まゆみ・なんてんなど、実と同じ色の花木は思いつかない。カリンは薄いピンクだが、黄色の実をつける。

つわぶき

『つわぶき・石路(キク科)』
 花の少ない晩秋、庭を明るくかざるつわぶき。60センチくらいの花茎に春先の黄水仙のような静な黄色の花をつける。つやつやした深緑色の肉厚の葉が花の色を一層引き立てる。今の住居に移転した時、鉢植えのつわぶきを石灯篭のわきに移植したもの。福島以西に自生すると言われるが、極めて丈夫と言われ、我が家のつわぶきも冬の間中雪の下で生きている。

H27.10月

2015.07.23 | 社長だより

社長だより vol.13

【寺内・八橋周辺 その6 最終回 空素沼(からすぬま)のみえる丘】

 子供のころ、父からよく“からす沼には行くな、引っ張られる”と聞いていた。私は泳げないこともあり、せいぜい護国神社裏参道のうっそうとした雑木林の間から“ちらっ”と「からす沼」をみるくらいであった。不気味なというか何か得体のしれない妖怪のようなものが棲んでいるかもしれないと、子供ながら身構えていたものだ。

1“からす沼が見える丘” 2“掲載写真” 3“秋田城跡址政庁跡地” 4“菅江真澄の墓”
1“からす沼が見える丘” 2“掲載写真” 3“秋田城跡址政庁跡地” 4“菅江真澄の墓”

 高清水をぶらぶらする時、『からす沼が見える丘』(私が勝手につけた名称)(高清水丘陵北東部が最高部で海抜62m)は忘れられない処だ。この丘に悲しい記憶がある。子供の頃、我が家に『クロ』という目の周りだけが茶色の黒の雑種のメスがいた。胴長で体長40㎝ぐらい、毛は極短く穏やかな性質だった。この『クロ』、丸まって寝ていても、旧国鉄土崎工場がお昼と夕方鳴らすサイレンにあわせて“うーん”と吠えているというか唸っていた。台風などの災害警報にも使われ、空襲警報(?)みたいに断続してサイレンを鳴らす時も合わせて唸っていた。(土崎は昭和20年8月14日終戦前夜、国内最後の爆撃を受けた一つで250人以上が犠牲になった。私は実際に空襲警報を聞いたことはないが、両親がそのように言っていたので聞いていたつもりでいる)

 ある日の夕方、三和土(たたき)で突然『クロ』が苦しみだした。のた打ち回り、家族は呆然と見守るだけだった。そして何度も体を硬直させ、腹をパンパンに脹らませそのまま息をひきとった。まだ温かい体をさすって涙を流すだけだった。原因は「猫いらず」を食べたみたいだ。父が“何ぼ苦しかったべ”と言いながら、体を拭いてやった。“二人の(兄弟の)身代わりだな”、とぼそっと言い、クロの寝箱におにぎりと煮干しとなぜか硬貨を入れて“明日山に埋めてやろう”と言った。翌日、自転車に寝箱ごとのせて向かった山が『からす沼が見える丘』だった。今は聖霊短大がそばに建っている。高野出身の父の裏山のようなものでもあり、ろうそくを立てお参りをして葬った。身近な動物の断末魔を初めて見た。以来動物を飼ったことがない。

からす沼
 

 中学校に入って地学部に入部したその年にからす沼の調査があった。怖さもあったが興味もあり、なんとなく大人になったような気もした。畔によしずを張った涼み場所のような休屋があり、ボートも数隻繋がれていた。2隻に分乗した我々は透明度やミジンコの量や種類を調べたと思った。また、からす沼の構造なども模造紙にその断面をV字型で書いた記憶がわずかに残っている。“金槌”はやはり近づいてはいけない処だったことを納得したと思った。

 からす沼の生成はいろいろ文献を調べてもわからない。ほとんどが伝説からくるものだが、近年秋田城址の発掘調査から高清水丘陵に「とび砂」の堆積があることがわかってきた。“菅江真澄”が寺内の丘陵を歩いた時は、秋田城址は砂に埋まり伝承でそのことを知ったとある。からす沼については翁の「水の面影」にこんな記述が残されている。
 『*左の方に、生根が沢(おいねがさわ)という広い池がある。ここは近ごろ、雨がないのに岸が崩れ、水をたたえるようになった。十年前に亡くなった、六十歳の老女の物語に、「私が十三歳の頃、その田へ昼飯を持って行った事を覚えている。一枚余りの田がたちまち大池となったというので、大勢で見に行った。田は、私の父が作った田だからよく知っている。木の根っ子のようなものが、水底にあるために生根という。米粒がこぼれ落ち、稲が生えたこともあるので、生稲が沢という」と言った。この生稲ノ池の水が満ち満ちていた時の深さは推し量ることが出来ないようになった。今は湖のようで、魚も数多く、鴨(かも)は餌をさがし、鳰(かいつぶり)も浮巣を作っており、水が広々と見えた』と。

 様々な伝承などをもとに勝手にまとめてみると、元禄の頃(5代将軍家綱)、からす沼は狼沢(おいぬさわ)と呼ばれ、沢水が流れていた。それが日本海からの「とび砂」によって堰き止められてしだいに大きくなった沼と言えそうだ。しかし、『からす沼のみえる丘』が堰き止めた「とび砂」だとしたら、どのくらいの年月を要したか想像もつかない。有史以前の生成と思うのだが、『からす沼のみえる丘』が地震で崩れて堰き止めたかもしれない。あれやこれやと考えるがこの際、翁の説明に浸ろう。
 新国道から裏参道を登りわずか6~7分ぐらいにある「からす沼」。人もあまり近づかず、緑豊かな雑木が生い茂り神秘的ともいえる。「とび砂」を防ぐために、植林に人生を捧げた“栗田定之丞”も秋田にとって忘れられない郷土の偉人だ。親友のAさんは松くい虫で全滅となった海岸に将来の砂防林を夢み、黙々と松の植林をしている。
(*東北縄文文化研究会:菅江真澄「水の面影」現代語訳全文より「生根が沢」を転記)

H27.7月

2015.06.11 | 社長だより

社長だより vol.12

【不思議な縁 その後】

襖の書

 不思議な縁として社長だよりNo.3に「旧家の襖書“石川理紀之助翁の歌二首”裏打ちをし直す」ことを書いた。あれから約2年近くの修復を経て今、我が家の玄関に掛けられた。出会った時はその筆跡から一瞬、「日野切*1」?「佐理*2」?先生にこんな書体があったのかとときめきを感じた。しかし、高揚した気分が落ち着いてくると真にゆったりとした石田白樹先生の筆に戻る。さらに見入れば、目の前で筆を走らせているような息遣いと言うか臨場感を感じ、秋田の偉人、明治の聖農、100年以上続く全国でも珍しい秋田県種苗交換会の創設者、石川理紀之助の心情さえも透けてみえる筆跡だ。遠く、東由利町の山間まで石川翁の教えが届いていたと思うと心も揺さぶられてくる。きっとこの肝いりの旧家に農民が集まって作柄などを話していたのだろう。

襖の書 修復前

 どうしても読み方を知りたく、県立博物館の学芸員から教えていただいた。上段左から『田をつくる家のをしへは 細鍬を右からとるの少なかりけり』、『うねか少 玉よりもなほ田を作る 人にわ国のたからいりけり』とのこと。なお、下段は修復前です。当て字が多いとのことで、私が読めるはずもなかった。
 石川翁は生涯で2万首とも3万首にも及ぶ歌を詠んだと言われる。同じものがないか「石川翁資料館*3」で歌約2千首まで挑戦したものの、探すのはあまりにも膨大で無謀だった。諦めた。ただ、川上富三著に、石川翁の『田をつくる大みたからは 我が国の世の富草の種となりけり』というのがあり、同意義らしき歌に出会ったのは“収穫”であった。

 私が教えをいただいた石田先生は寡黙だが、達文家で書論にも一家言のあった方だ。秋田大学の助教授で県文化功労者。私が言えることではないが、書風は「唐の太宗」にも思えるほど豊かで上品な線質で別格な世界だ。当時のお手本は相当数残っているが、どれをみてもゆったりとした筆遣い。今回の歌二首は筆跡からすれば例外とも見えるが、恐らく筆の種類が違うのではないだろうか。筆はきっと剛毛系、もしかしたら紫毫筆(しごうひつ)かもしれない。
 そんなことを推敲していると心がはやり一端の書家の心持。いざ筆をとって臨めば、話にもならない「書」になるのがわかっている。しかし、私の心は千年余り前に遡り、平和を享受していることを忘れ、満足する豊かさが漂ってくるのである。

離洛帖

 *1日野切は平安末期の歌人藤原俊成の千載和歌集の断簡(撰者自筆本)として有名。
 *2藤原佐理(ふじわらのすけまさ)は三跡の     
  一人で、自由奔放な筆致が特色。左は佐里
  の離洛帖:国宝、“我が家に戻った”歌二
  首もどこ気脈を感じさせるものがある。
   人にはそれぞれ好き嫌いはあるが、
  三筆・は個性あふれる澄んだ線、
  自然な運筆で見るものを飽きさせる
  ことはない。
 *3「石川翁資料館」は現秋田県潟上市昭和
  豊川にあり秋田自動車道、昭和男鹿半島
  ICから約5分。農村の救済と農業振興にその生涯を捧げた石川翁のおびただしい数の
  遺著、遺稿が保存展示されている。

H27.6月

2014.07.31 | 社長だより

社長だより vol.11

【寺内・八橋周辺 その5 八橋の一里塚】

一里塚跡地柱

 秋田市役所から北側に約600メートル、けやき通りのはずれ、中央分離帯に一里塚跡地柱がある。わきの説明版には次のように記されている。『この「えのき」は道の里程を示す道標として一里塚跡に植えられたものであり、後世への証として大切に守っていきたいものである』と。
 江戸から143里、奥州街道の桑折(こおり)宿から分岐した羽州街道を経て、秋田領内31番目の一里塚、それが八橋の一里塚だ。慶長9年(1604)、「日本橋を一里塚のもとと定め、36丁を道1里*」として、西から東の果まで徳川幕府が道路の両側に土を盛り、樹木を植えて目印につくらせたという。その一里塚の大きさは、五間四方(約24坪)と言われ白黒映画の股旅物からするイメージよりも相当に大きい。
*1間は6尺、約1.82㍍、1丁は60間、約109㍍、1里は約 3.9kmとなる。
なお、1間を1.97㍍とする説もある

一里塚

 大正3年、高野(こうや:八橋の北側)生まれの父から、生前「八橋の一里塚は今の場所ではなく、もう少し北側にあってものすごく大きな榎があった」と聞いたことがある。子供の頃、高校野球のメッカは八橋球場であった。決勝戦が秋田の早慶戦と言われた秋田高校と秋田商業となるときまって自転車の後ろに私を乗せ、寺内や八橋界隈の「案内」をしながら球場に向うのが常であった。旧一里塚が道路の拡幅で取り壊され、かろうじて近くに八橋の一里塚があったことを示した勘定だ。しかし、説明板にはないが今ある「えのき」は旧一里塚に補植されたものを現在地に移し保存しているそうなので、なんとなく“そうか”と安堵感もある。

一里塚

 羽州街道につくられた一里塚は64か所といわれている。秋田市より南側は今の国道13号線、北側は7号線と重なる所が多い。というよりほぼ同じだ。64か所のうち現存するのは6か所(*)だそうだ。秋田の人が一里塚というと、まず神岡の一里塚とか六郷の一里塚を思い出すのではないだろうか。六郷の「欅」の巨木は今も道路わきに残る。一里塚は明治以後交通機関の発達や道幅の拡張などによってほとんど取壊されているがよくぞ残ったものだ。いや、よく残したものだ。
私の出生地のすぐそばにも一里塚があった。八橋一里塚の次、土崎一里塚だ。羽州街道を寺内・高清水と下れば、旧幕洗川町を通って御蔵町と穀保町と交差するあたりに一里塚標があったと記憶の彼方にぼんやりとある。この交叉地点と接して新城町。歩いて1分もかからないところに我が家があった。先人達は明治以後便利さや快適になることを旗印に近代的に変貌させる街並みをみてどう思うのだろう。
*県内現存一里塚は、湯沢愛宕町・六郷・神岡・能代鴨巣・鷹巣綴子・大舘長坂の6か所。

(参照:秋田羽州街道の一里塚・飯塚喜市ふる里道しるべ・平凡社秋田県の地名、特に佐藤晃之輔氏の手になる“秋田羽州街道の一里塚”は各地の古文書や地区古老の記憶を紐解き、精緻に位置を割り出しておりその努力には圧倒される)

H26.7月

2014.07.31 | エコムジャーナル

青森だより vol.15

 早いもので7月中旬となっております。青森も梅雨で蒸し暑い日や雨の日が多いような気がします。全国各地で台風の被害が出ており、被害を被った皆様にはお見舞い申し上げます。
また、十和田市の皆様、B1グランプリ開催地決定おめでとうございます。是非グランプリを!
さて、短い夏の青森県では、各地で様々なイベント・祭りが予定されております。

◎7/26.27 階上町 いちご煮祭り(三陸復興国立公園)
 いちご煮(ウニとアワビのお吸い物:お吸い物の中のウニが、朝露に濡れた野イチゴのよう
 だからと言うので名前がついたとか)、海藻ラーメンなどを味わいながら、イベントや
 花火があるそうです。いちご煮、おいしいですよね~

◎ 7/31~8/4 八戸市 八戸三社大祭(掛け声:ヤーレ、ヤーレ)
 約290年の伝統があるお祭りで、おがみ神社、新羅神社、神明宮の神輿行列と豪華絢爛な
 山車の合同運行です。
 10,20年位前は、近隣の市町村で山車を借りてお祭りをしていました。八戸の山車は
 その頃から進化して、とにかく綺麗、仕掛けが施され圧巻です。

◎8/1~7 弘前市 弘前ねぷた祭り(掛け声:ヤーヤドー)
 記録では1722年にすでに行われていたとか。八戸と並び歴史があります。
 三社大祭、青森ねぶたとも違い、ねぷたは扇型をしており、前側は水滸伝などを題材にした
 勇壮な武者絵ですが、後側は幽霊画などで全然趣が違います。とても綺麗ですが、
 交差点ではかなり激しい動きが見られるかも。

◎8/2~7 青森市 ねぶた祭り(掛け声:ラッセラー、ラッセーラー)
 全国的に名前が売れていますので、詳しく知りたい方は上記のホームページへ。
 ねぶたを製作、囃子、跳人、運行、観客が一体となって楽しめます。“燃える夏”という
 言葉がとにかくピッタリです。

◎8/4~8 五所川原市 立佞武多(たちねぷた)(掛け声:ヤッテマーレ、ヤッテマーレ)
 100年位前に行われていた祭りで、平成8年にその頃の写真をもとに復活させたものです。
 高さ22メートル、重さ16トンの立佞武多は近くではカメラに収まりません。
 どぎもを抜かれる大きさです。そのため、動きはゆっくりですが、勇壮な姿を遠くからも
 見ることができます。

黒石、平川でも一味違うねぷたがあったり、三沢の七夕、南郷ジャズフェス、南部サマーフェス、東北町湖水祭りなどなど、いっぱいありますので、どうぞ楽しんでください。(T.H)

H26.7月

2014.06.27 | エコムジャーナル

青森だより vol.14

 5月下旬から6月上旬までは、青森市でも時折30℃を超える日もありましたが、梅雨に入り雨の日が多くなりました。
 6月1日、自衛隊青森駐屯地創立63年記念行事が行われました。訓練展示では、隊員の皆様の統制のとれた動き、戦車、高射砲、ヘリコプターなど多彩な訓練を見ることができました。また、式典後のパーティーには議員、自衛隊、協力企業関係者などが出席し、県内はもとより岩手、秋田の食べ物、地酒が振る舞われ、大盛況でした。関係者の皆様、お疲れ様でした。

戦車の空砲に耳を塞ぐ人たち きびきびした隊員の動き ロープで降りる隊員
 戦車の空砲に耳を塞ぐ人たち きびきびした隊員の動き  ロープで降りる隊員

 6月15日、交通安全協会の支部で安全祈願旅行に参加いたしました。地元の神社で安全祈願を行い、バスで十和田湖に向かいました。八甲田山を抜け、奥入瀬渓流、瞰湖台、休屋へ。バスの運転手さんが丁寧に見どころを説明してくれました。自家用車では見逃すようなスポットを教えてくれるので、非常にためになりました。
 宇樽部から休屋までは数年前にバイパスが開通したため、瞰湖台のある旧道を通る人は少なくなりました。プロの写真家は獣道を通り、旧瞰湖台からの眺めを撮影しているとか。

瞰湖台案内説明図 乙女の像と遊覧船 帰路で寄った蔦温泉
 瞰湖台案内説明図 乙女の像と遊覧船  帰路で寄った蔦温泉 

 ホテルでは、十和田湖で採れたヒメマス、小坂の桃豚などおいしい料理を堪能いたしました。
 震災の翌年、観光客が減ったため多くのお土産屋さんやホテルが廃業し、街並みがとても寂し状況です。皆さん、是非十和田湖においでいただき、盛り上げていただければと思います。
(T.H)

 H26.6月

2014.06.02 | エコムジャーナル

青森だより vol.13

 そろそろ衣替えの季節を迎えようとしております。前回の青森便りでは、「4月23日の夕刊に弘前城の桜が開花したとの記事が載っておりました。」と切り出しましたが、翌日の夕方、釧路からのお客様を弘前城にご案内いたしました。満開には程遠かったのですが、以外と天守閣付近も咲いており、岩木山も見ることができ、喜んでいただけたと思っております。
天守閣

 天守には入ることができ、歴史資料を拝観することができます。また、窓からはきれいな風景も眺めることができます。
 27年度から本丸の石垣の改修工事を約10年間行う予定で、来年の桜祭りまでは天守は現在の位置そうですが、その後は移動するため、しばらくはこれまでのような風景を楽しむことができなくなるそうです。

 釧路からのお客様のお話では、釧路の桜は5月中旬に咲くのですが、葉もいっしょに出てくるので、本州のような花見をほとんどしないそうです。春の楽しみ方が違うかもしれませんね。

猿回し

 青森市合浦公園の花見では、「猿回し」をやっていて、多くの見物人が詰めかけていました。
人混みを発見し、近づいた時にはほとんど芸が終わっておりました。残念!!(T.H)

 

H26.5月

2014.05.16 | 社長だより

社長だより vol.10

【寺内・八橋周辺 その4 八橋人形“おでんつぁん”】

八橋人形

 古くは毘沙門人形ともよばれた八橋人形。代表的な人形にはオイラン・花嫁・鯛乗り・毘沙門天・ニワトリ・鳩笛・翁などがあり、郷土玩具の一つだ。天神さんを私は“おでんつぁん”と呼んでいる。おでんちぁんと書いている本もあるが、私は親譲りの“おでんつぁん”派だ。
 伝承によると天明年間(1781~89)京都伏見の人形師が来て焼いたのが始まりという。素焼きの上に泥絵具で彩色する素朴な人形だが土臭さに魅力がある。実に色鮮やかだ。しかし、壊れやすく段飾りでは桜の花の陰においてある灯篭、実は傘の部分が欠落している。人形は硬いがもろく、ちょっとした衝撃でも簡単に粉々になり、修復はほぼ不可能に近い。

 その昔久保田(秋田市)では男の子が生まれると、必ずこの天神さんを買い求めて飾った、と言われる。我が家の“おでんつぁん”も私が生まれた時に父の実家(秋田市高野、寺内の東に位置する)から贈られたものと聞く。きっと私をかわいがってくれた“祖母”が準備してくれたのだろう。

天神さん

 最上段左は普通にある天神さんだが、それでも結構大型だ。その一回り大きいのが右側の牛に乗った天神さんだ。台を入れれば、高さは優に50センチはある。今までいろんな天神さんをみてきたが牛に乗った天神さんにはお目にかかったことがない。我が家の自慢の一品だ。狛犬や灯篭は見てきたが、右大臣・左大臣は今までみたことがない。こんな段飾りをセットと言えるかわからないが、我ながらほれぼれと眺めてしまう。一人ひとりの表情がみな違うので、5月に入って飽きずに毎日朝晩うっとり顔を眺めている。いい顔でしょう、さすが天神さん!

右大臣左大臣

 残念ながら伝承者が亡くなり、継承者もなく、廃絶になったとのことを魁新聞で知った。県立美術館の郷土玩具展示場にも八橋人形が展示されているが、牛に乗った天神さんや右大臣左大臣はいない。大事に残してほしい。

 母はこの時期、「ササマキ」というちまきに似た笹餅をよくつくったものだ。これは笹を三角形にしてもち米を詰めてトシメカラ(いぐさの一種)で結んで蒸すもので、新潟の笹団子と同じ形だが心もち大きい。また、秋田は餡子ではなく黄な粉をまぶして食べる。笹の香りも心地よく残り、端午の節句を一層強く意識させる。
(参照:飯塚喜市ふる里道しるべ・平凡社秋田県の地名・第一法規日本の民族秋田・秋田市史跡めぐりガイドブック)

H26.5月