カテゴリー : 社長だより
社長だよりvol.15
【大豆(だいず)と小豆(あずき) その1】
去年初めて大豆を収穫した。子供の頃に「大豆のてんぷら」をおやつ代わりに食べていた。いつか復刻版であの時の味をと思っていた。メリケン粉に当時はきっとサッカリンだと思う。家内に甘くしないで揚げてもらった。歯ごたえも記憶にあるが以外に柔らかい。当時は何を食べてもおいしかったのだろう。「蒸かし芋」も当たりはずれはあったが、仏壇から失敬したことも懐かしい。
また、隣の畑の真似をして小豆も植えてみた。大豆と一緒で全部枯れたら収穫と思っていたら笑われてしまった。“枯れたものから採っていかないと土についてふやけてしまう”、と言われた。確かに茎が細くなよなよしている。それからというもの、2~3日ごとに早起きして収穫。“ささげ”をぐっと細くした鞘に小豆が縦に7~8粒並んでいる。虫食いや未成熟で色ののらないものが結構ある。それでも2升ぐらいはできたろう。これも甘さ抑えて食べてみた。ところどころ硬く歯に残る。しかし、まぎれもなく小豆の味だ。生産者はいつ刈取り、どんな選別をしているのだろう。
「小豆」にこんな話を聞いたことがある。
昔、生保内(おぼない)の集落から東の山奥におじいさんとおばあさんがいたそうだ。めったに人に会うこともなくいつも二人で仲良く暮らしていたど。秋になり“もうすぐ雪神(ゆきおさ)がくるから豆もぐべ~、今年はえぐでぎだ、これで冬も安心だ”。大きくまるまるとりっぱな豆です。ネズミにとられないよう袋に入れて「はり」につるしていたそうです。
やがて外は真っ白です。二人は“さびな~”、といろりに「豆の殻」をくべ、手を揉んでいました。白い煙をあげバチバチ燃えていると、“おじいさん、おばあさん”と女の子の声が聞こえてきます。二人はきょとんとし、顔を見合わせていた時、つるした袋の中から“おじいさん、おばあさん”と聞こえるのです。不思議に思っておばあさんが袋の豆を手のひらにのせると、“あっ”というまに娘がいろりの前にすわっているのです。“ありがとう、私は雪神に『人の手のひらにのらないと人間に戻れない』と「まじない」をかけられて豆になっていたのです。お礼に身の回りのお世話をします”、と言って“あずき”と名付けられた娘と三人でなかよく暮らし始めたそうです。
あるとき、畑で草取りをしていたら、立派な若武者が通りかかりました。一目でいいなずけの娘だとわかり、城下に連れてゆくと言いました。あずきは“私は行かなければなりません。小袋に入ったこの豆を私と思って植えてください”と言って若武者といっしょに出てゆきました。二人の落胆ぶりはなかったそうです。やがて、植えた豆は秋には見たこともない小さな赤豆がたくさん採れました。生保内の集落に持っていったら皆がお祝いに使うと言って高い値段で買ってくれました。その豆はいつか小さい豆と書いて『あずき』と呼ばれるようになったそうです。娘は城下でその噂を聞き、東の山を静かに見ていたと・・。
H28.2月
社長だより vol.14
【今時分、庭の主役】
我が家の花や木は全部父が育てていたもの。私の代になって大半水遣り・植え替えが大変なので地植えをしたが、その種類や株も少なくなった。特に“残念だ”と思うのは寿命もあったと思うが古いミカンの木がなくなってしまったことだ。金木犀・銀木犀も消えてしまった。
『杜鵑(ほととぎす)(草)』
珍しい花ではないが秋のおとづれと共にこの花が待ち遠しい。派手でもなく、かといって地味でもない。品種改良があってか、はっきりとした色合いの品種もある。家の杜鵑は乳飲み子のような柔らかい風合いだ。ビロードのような手触りのある葉は二列に互生し、紫斑のある花を2~3個上向きに開く。ひだまりにうってつけの花だ。
『お茶の花』
椰子の實の殻に生けたる茶の花の ほのかに匂ふ冬は来にけり 北原 白秋
青密柑はみつつさむき冬枯れの 野みちを行きて茶の花を見たり 前田 夕暮
(花岡謙二編 日本植物和歌集より“茶の花”七首より二首抜粋)
実生のお茶の木。1センチ足らずの小さな白い花が咲く。どの花も恥ずかしそうに、下を向いている。花の命は数日だろう、気がつけば根元に落ちている。先に咲いた分、すでに椿の実より二回りも小さい茶色の丸い実を落としている。娘は子供の頃よくこの種を丹念に拾っていた。
『干し柿』
“百め柿”と父は言っていた。正確な品種名は知らない。私は“身の程知らず”と勝手に呼ぶ。大きなものになると、大人のこぶし大にもなる。干し柿にすると1週間もしないうちにつるした軸がすっぽり抜け、約1割が落ちる。干し柿を始めたころ、夜中に「ぼとっ」と、何の音だ?謎が解けた。気になるので今年から天気をみて庭の梯子につるした。
青北風(あおぎた)、という言葉がある。「台風シーズンも過ぎると、駆け足に本格的な秋がやって来る。暦の上では晩秋に近い。季節風が交代し、涼気を追って北がかった風が吹く。これが吹くと、まだ逡巡していない夏の気が去り、めっきり秋らしくなる。そして空気は澄み、海も空も美しく青むのである*」。今年は運よく青空にも恵まれた。近づくと和菓子の匂い、どちらが身の程知らずか。(*山本健吉 ことばの歳時記 文藝春秋社)
『むらさきしきぶ』
実の色から源氏物語の作者をイメージして名付けられたようだが、何ともいい名前だ。和の色事典に「紫式部」という色名がある。色調は「深く渋い赤」だが、庭の“むらさきしきぶ”は光を浴びると光沢が出、青紫に見える。夏に咲く花も淡い紫だが、こはぜ・ななかまど・まゆみ・なんてんなど、実と同じ色の花木は思いつかない。カリンは薄いピンクだが、黄色の実をつける。
『つわぶき・石路(キク科)』
花の少ない晩秋、庭を明るくかざるつわぶき。60センチくらいの花茎に春先の黄水仙のような静な黄色の花をつける。つやつやした深緑色の肉厚の葉が花の色を一層引き立てる。今の住居に移転した時、鉢植えのつわぶきを石灯篭のわきに移植したもの。福島以西に自生すると言われるが、極めて丈夫と言われ、我が家のつわぶきも冬の間中雪の下で生きている。
H27.10月
社長だより vol.13
【寺内・八橋周辺 その6 最終回 空素沼(からすぬま)のみえる丘】
子供のころ、父からよく“からす沼には行くな、引っ張られる”と聞いていた。私は泳げないこともあり、せいぜい護国神社裏参道のうっそうとした雑木林の間から“ちらっ”と「からす沼」をみるくらいであった。不気味なというか何か得体のしれない妖怪のようなものが棲んでいるかもしれないと、子供ながら身構えていたものだ。
高清水をぶらぶらする時、『からす沼が見える丘』(私が勝手につけた名称)(高清水丘陵北東部が最高部で海抜62m)は忘れられない処だ。この丘に悲しい記憶がある。子供の頃、我が家に『クロ』という目の周りだけが茶色の黒の雑種のメスがいた。胴長で体長40㎝ぐらい、毛は極短く穏やかな性質だった。この『クロ』、丸まって寝ていても、旧国鉄土崎工場がお昼と夕方鳴らすサイレンにあわせて“うーん”と吠えているというか唸っていた。台風などの災害警報にも使われ、空襲警報(?)みたいに断続してサイレンを鳴らす時も合わせて唸っていた。(土崎は昭和20年8月14日終戦前夜、国内最後の爆撃を受けた一つで250人以上が犠牲になった。私は実際に空襲警報を聞いたことはないが、両親がそのように言っていたので聞いていたつもりでいる)
ある日の夕方、三和土(たたき)で突然『クロ』が苦しみだした。のた打ち回り、家族は呆然と見守るだけだった。そして何度も体を硬直させ、腹をパンパンに脹らませそのまま息をひきとった。まだ温かい体をさすって涙を流すだけだった。原因は「猫いらず」を食べたみたいだ。父が“何ぼ苦しかったべ”と言いながら、体を拭いてやった。“二人の(兄弟の)身代わりだな”、とぼそっと言い、クロの寝箱におにぎりと煮干しとなぜか硬貨を入れて“明日山に埋めてやろう”と言った。翌日、自転車に寝箱ごとのせて向かった山が『からす沼が見える丘』だった。今は聖霊短大がそばに建っている。高野出身の父の裏山のようなものでもあり、ろうそくを立てお参りをして葬った。身近な動物の断末魔を初めて見た。以来動物を飼ったことがない。
中学校に入って地学部に入部したその年にからす沼の調査があった。怖さもあったが興味もあり、なんとなく大人になったような気もした。畔によしずを張った涼み場所のような休屋があり、ボートも数隻繋がれていた。2隻に分乗した我々は透明度やミジンコの量や種類を調べたと思った。また、からす沼の構造なども模造紙にその断面をV字型で書いた記憶がわずかに残っている。“金槌”はやはり近づいてはいけない処だったことを納得したと思った。
からす沼の生成はいろいろ文献を調べてもわからない。ほとんどが伝説からくるものだが、近年秋田城址の発掘調査から高清水丘陵に「とび砂」の堆積があることがわかってきた。“菅江真澄”が寺内の丘陵を歩いた時は、秋田城址は砂に埋まり伝承でそのことを知ったとある。からす沼については翁の「水の面影」にこんな記述が残されている。
『*左の方に、生根が沢(おいねがさわ)という広い池がある。ここは近ごろ、雨がないのに岸が崩れ、水をたたえるようになった。十年前に亡くなった、六十歳の老女の物語に、「私が十三歳の頃、その田へ昼飯を持って行った事を覚えている。一枚余りの田がたちまち大池となったというので、大勢で見に行った。田は、私の父が作った田だからよく知っている。木の根っ子のようなものが、水底にあるために生根という。米粒がこぼれ落ち、稲が生えたこともあるので、生稲が沢という」と言った。この生稲ノ池の水が満ち満ちていた時の深さは推し量ることが出来ないようになった。今は湖のようで、魚も数多く、鴨(かも)は餌をさがし、鳰(かいつぶり)も浮巣を作っており、水が広々と見えた』と。
様々な伝承などをもとに勝手にまとめてみると、元禄の頃(5代将軍家綱)、からす沼は狼沢(おいぬさわ)と呼ばれ、沢水が流れていた。それが日本海からの「とび砂」によって堰き止められてしだいに大きくなった沼と言えそうだ。しかし、『からす沼のみえる丘』が堰き止めた「とび砂」だとしたら、どのくらいの年月を要したか想像もつかない。有史以前の生成と思うのだが、『からす沼のみえる丘』が地震で崩れて堰き止めたかもしれない。あれやこれやと考えるがこの際、翁の説明に浸ろう。
新国道から裏参道を登りわずか6~7分ぐらいにある「からす沼」。人もあまり近づかず、緑豊かな雑木が生い茂り神秘的ともいえる。「とび砂」を防ぐために、植林に人生を捧げた“栗田定之丞”も秋田にとって忘れられない郷土の偉人だ。親友のAさんは松くい虫で全滅となった海岸に将来の砂防林を夢み、黙々と松の植林をしている。
(*東北縄文文化研究会:菅江真澄「水の面影」現代語訳全文より「生根が沢」を転記)
H27.7月
社長だより vol.12
【不思議な縁 その後】
不思議な縁として社長だよりNo.3に「旧家の襖書“石川理紀之助翁の歌二首”裏打ちをし直す」ことを書いた。あれから約2年近くの修復を経て今、我が家の玄関に掛けられた。出会った時はその筆跡から一瞬、「日野切*1」?「佐理*2」?先生にこんな書体があったのかとときめきを感じた。しかし、高揚した気分が落ち着いてくると真にゆったりとした石田白樹先生の筆に戻る。さらに見入れば、目の前で筆を走らせているような息遣いと言うか臨場感を感じ、秋田の偉人、明治の聖農、100年以上続く全国でも珍しい秋田県種苗交換会の創設者、石川理紀之助の心情さえも透けてみえる筆跡だ。遠く、東由利町の山間まで石川翁の教えが届いていたと思うと心も揺さぶられてくる。きっとこの肝いりの旧家に農民が集まって作柄などを話していたのだろう。
どうしても読み方を知りたく、県立博物館の学芸員から教えていただいた。上段左から『田をつくる家のをしへは 細鍬を右からとるの少なかりけり』、『うねか少 玉よりもなほ田を作る 人にわ国のたからいりけり』とのこと。なお、下段は修復前です。当て字が多いとのことで、私が読めるはずもなかった。
石川翁は生涯で2万首とも3万首にも及ぶ歌を詠んだと言われる。同じものがないか「石川翁資料館*3」で歌約2千首まで挑戦したものの、探すのはあまりにも膨大で無謀だった。諦めた。ただ、川上富三著に、石川翁の『田をつくる大みたからは 我が国の世の富草の種となりけり』というのがあり、同意義らしき歌に出会ったのは“収穫”であった。
私が教えをいただいた石田先生は寡黙だが、達文家で書論にも一家言のあった方だ。秋田大学の助教授で県文化功労者。私が言えることではないが、書風は「唐の太宗」にも思えるほど豊かで上品な線質で別格な世界だ。当時のお手本は相当数残っているが、どれをみてもゆったりとした筆遣い。今回の歌二首は筆跡からすれば例外とも見えるが、恐らく筆の種類が違うのではないだろうか。筆はきっと剛毛系、もしかしたら紫毫筆(しごうひつ)かもしれない。
そんなことを推敲していると心がはやり一端の書家の心持。いざ筆をとって臨めば、話にもならない「書」になるのがわかっている。しかし、私の心は千年余り前に遡り、平和を享受していることを忘れ、満足する豊かさが漂ってくるのである。
*1日野切は平安末期の歌人藤原俊成の千載和歌集の断簡(撰者自筆本)として有名。
*2藤原佐理(ふじわらのすけまさ)は三跡の
一人で、自由奔放な筆致が特色。左は佐里
の離洛帖:国宝、“我が家に戻った”歌二
首もどこか気脈を感じさせるものがある。
人にはそれぞれ好き嫌いはあるが、
三筆・三蹟は個性あふれる澄んだ線、
自然な運筆で見るものを飽きさせる
ことはない。
*3「石川翁資料館」は現秋田県潟上市昭和
豊川にあり秋田自動車道、昭和男鹿半島
ICから約5分。農村の救済と農業振興にその生涯を捧げた石川翁のおびただしい数の
遺著、遺稿が保存展示されている。
H27.6月
社長だより vol.11
【寺内・八橋周辺 その5 八橋の一里塚】
秋田市役所から北側に約600メートル、けやき通りのはずれ、中央分離帯に一里塚跡地柱がある。わきの説明版には次のように記されている。『この「えのき」は道の里程を示す道標として一里塚跡に植えられたものであり、後世への証として大切に守っていきたいものである』と。
江戸から143里、奥州街道の桑折(こおり)宿から分岐した羽州街道を経て、秋田領内31番目の一里塚、それが八橋の一里塚だ。慶長9年(1604)、「日本橋を一里塚のもとと定め、36丁を道1里*」として、西から東の果まで徳川幕府が道路の両側に土を盛り、樹木を植えて目印につくらせたという。その一里塚の大きさは、五間四方(約24坪)と言われ白黒映画の股旅物からするイメージよりも相当に大きい。
*1間は6尺、約1.82㍍、1丁は60間、約109㍍、1里は約 3.9kmとなる。
なお、1間を1.97㍍とする説もある
大正3年、高野(こうや:八橋の北側)生まれの父から、生前「八橋の一里塚は今の場所ではなく、もう少し北側にあってものすごく大きな榎があった」と聞いたことがある。子供の頃、高校野球のメッカは八橋球場であった。決勝戦が秋田の早慶戦と言われた秋田高校と秋田商業となるときまって自転車の後ろに私を乗せ、寺内や八橋界隈の「案内」をしながら球場に向うのが常であった。旧一里塚が道路の拡幅で取り壊され、かろうじて近くに八橋の一里塚があったことを示した勘定だ。しかし、説明板にはないが今ある「えのき」は旧一里塚に補植されたものを現在地に移し保存しているそうなので、なんとなく“そうか”と安堵感もある。
羽州街道につくられた一里塚は64か所といわれている。秋田市より南側は今の国道13号線、北側は7号線と重なる所が多い。というよりほぼ同じだ。64か所のうち現存するのは6か所(*)だそうだ。秋田の人が一里塚というと、まず神岡の一里塚とか六郷の一里塚を思い出すのではないだろうか。六郷の「欅」の巨木は今も道路わきに残る。一里塚は明治以後交通機関の発達や道幅の拡張などによってほとんど取壊されているがよくぞ残ったものだ。いや、よく残したものだ。
私の出生地のすぐそばにも一里塚があった。八橋一里塚の次、土崎一里塚だ。羽州街道を寺内・高清水と下れば、旧幕洗川町を通って御蔵町と穀保町と交差するあたりに一里塚標があったと記憶の彼方にぼんやりとある。この交叉地点と接して新城町。歩いて1分もかからないところに我が家があった。先人達は明治以後便利さや快適になることを旗印に近代的に変貌させる街並みをみてどう思うのだろう。
*県内現存一里塚は、湯沢愛宕町・六郷・神岡・能代鴨巣・鷹巣綴子・大舘長坂の6か所。
(参照:秋田羽州街道の一里塚・飯塚喜市ふる里道しるべ・平凡社秋田県の地名、特に佐藤晃之輔氏の手になる“秋田羽州街道の一里塚”は各地の古文書や地区古老の記憶を紐解き、精緻に位置を割り出しておりその努力には圧倒される)
H26.7月
社長だより vol.10
【寺内・八橋周辺 その4 八橋人形“おでんつぁん”】
古くは毘沙門人形ともよばれた八橋人形。代表的な人形にはオイラン・花嫁・鯛乗り・毘沙門天・ニワトリ・鳩笛・翁などがあり、郷土玩具の一つだ。天神さんを私は“おでんつぁん”と呼んでいる。おでんちぁんと書いている本もあるが、私は親譲りの“おでんつぁん”派だ。
伝承によると天明年間(1781~89)京都伏見の人形師が来て焼いたのが始まりという。素焼きの上に泥絵具で彩色する素朴な人形だが土臭さに魅力がある。実に色鮮やかだ。しかし、壊れやすく段飾りでは桜の花の陰においてある灯篭、実は傘の部分が欠落している。人形は硬いがもろく、ちょっとした衝撃でも簡単に粉々になり、修復はほぼ不可能に近い。
その昔久保田(秋田市)では男の子が生まれると、必ずこの天神さんを買い求めて飾った、と言われる。我が家の“おでんつぁん”も私が生まれた時に父の実家(秋田市高野、寺内の東に位置する)から贈られたものと聞く。きっと私をかわいがってくれた“祖母”が準備してくれたのだろう。
最上段左は普通にある天神さんだが、それでも結構大型だ。その一回り大きいのが右側の牛に乗った天神さんだ。台を入れれば、高さは優に50センチはある。今までいろんな天神さんをみてきたが牛に乗った天神さんにはお目にかかったことがない。我が家の自慢の一品だ。狛犬や灯篭は見てきたが、右大臣・左大臣は今までみたことがない。こんな段飾りをセットと言えるかわからないが、我ながらほれぼれと眺めてしまう。一人ひとりの表情がみな違うので、5月に入って飽きずに毎日朝晩うっとり顔を眺めている。いい顔でしょう、さすが天神さん!
残念ながら伝承者が亡くなり、継承者もなく、廃絶になったとのことを魁新聞で知った。県立美術館の郷土玩具展示場にも八橋人形が展示されているが、牛に乗った天神さんや右大臣左大臣はいない。大事に残してほしい。
母はこの時期、「ササマキ」というちまきに似た笹餅をよくつくったものだ。これは笹を三角形にしてもち米を詰めてトシメカラ(いぐさの一種)で結んで蒸すもので、新潟の笹団子と同じ形だが心もち大きい。また、秋田は餡子ではなく黄な粉をまぶして食べる。笹の香りも心地よく残り、端午の節句を一層強く意識させる。
(参照:飯塚喜市ふる里道しるべ・平凡社秋田県の地名・第一法規日本の民族秋田・秋田市史跡めぐりガイドブック)
H26.5月
社長だより vol.9
【寺内・八橋周辺 その3 史跡秋田城址】
“寺内の高清水”と言えば、「奈良朝の秋田城址を中心とした史跡群が点在するところ」とぼやっと浮かぶ程度だ。しかし、史跡メモをみながら歩くと、勅使館・神屋敷・高清水霊泉・東門院跡・四天王寺跡・五輪の塔など当時の史跡があるある・・。地名でも綾小路・大小路・五輪坂、また、時の征夷大将軍の坂上田村麻呂にまつわる将軍野・幕洗川・大刀洗川・幣切山などの地名も数多くみられ、史跡丘陵地“高清水”は歴史好きにはたまらないタイムスリップポイントだ。
この地に中央の勢力が直接及ぶのは、大化の改新後の斉明天皇四年(658)阿部比羅夫が軍船180隻を率い秋田浦にやってきたことに始まる。秋田城が最初に歴史に登場するのは、『続日本紀』の天平五年(733)に「出羽柵を秋田村高清水丘に遷し置く」だそうだ。秋田城は最初『出羽柵』という名称で呼ばれ、山形庄内地方から北の“高清水”に移され北辺拓殖基地となった。
“高清水”は起伏の多い独立丘陵で、標高は最も高いところで約50メートル。発掘調査から、秋田城址はこのような丘陵地の標高30メートル以上の高所を中心に構築され、二重の囲いからなっている。外郭と呼ばれる外側の囲いは基底幅約2.1メートル、高さ3メートル前後で粘土や砂を交互に叩きしめながら積み上げ、瓦をのせた土塀、京都・奈良の古刹でよくみられる築地塀だ。出入りのための門が普通四箇所に作られるそうだが、秋田城址では東門だけが発見されている。
東西南北の最も長い直線距離は約550メートル。この外郭に囲まれたほぼ真ん中に東西94メートル・南北77メートルの築地塀に囲まれたところに政庁がある。秋田城の中心的施設で様々な儀式や国内外の使者などの接待を行ったりした場所で、白壁の正殿跡が確認されている。
斑鳩の里からはるか辺境の地は蝦夷の抵抗、「元慶の乱(774)・天慶の乱(939)」を経て、中世にはその役目を終え、日本海からの強風に運ばれてきた飛び砂に埋められ、人々の新しい営みにより姿を変え、長大な築地塀も白壁の政庁も記憶から忘れられていった。昭和33年からの発掘調査で、律令制度や『続日本紀』の記述を裏付ける貴重な木簡などが多数出土している。
外郭内に居住していると、秋田城は「もののふ」の砦というよりか雅の文化を辺境の地にもたらしているような雰囲気に浸ってしまう。ことに地平線からのぼる中秋の名月を背景にした東門は一層その趣をかきたてる。今は、雪に朱の門が映え、歴史の悠久さにすっぽり埋まっている。
(参照:金曜会編 史跡秋田城址・飯塚喜市ふる里道しるべ・あなたの知らない秋田県の歴史・平凡社秋田県の地名)
H26.2月
社長だより vol.8
【寺内・八橋周辺 その2 古四王神社】
寺内というと「古四王さん」を真っ先にあげる人が多いだろう。土崎方面から幕洗川地内経由で旧国道(羽州街道)を秋田方面へ向かうと、ほどなくして高清水丘陵に差し掛かる。 護国神社表参道を過ぎると左側に古四王神社が見えてくる。大鳥居をくぐり、西向きの切石の階段を上りつめると丘陵上に明治三年に再建された社殿がある。境内を取り囲む雑木林からは、南に旧国道、西に旧雄物川河口(現秋田港)、北側には児桜の家並がかいまみられる。その静けさや時折吹き抜ける烈風が揺らすざわめきをきいていると、はるか昔の鎮守様の夢記憶がかすかにみえてくる。
古四王神社の創建は出羽柵(国指定史跡秋田城址)当時かと推測もされる程極めて古く、奈良朝の昔にさかのぼるが不明。すでに桓武天皇の延歴年間(782~806)に坂上田村麻呂が蝦夷平定の折に立ち寄り再興したと伝えられている。中世には安東氏・秋田氏に、近世には佐竹氏に武人としての崇敬をうけ、近くの住民や遠くの信者からは、単に武人としてのみだけでなく、産土神として五穀豊穣や眼病平癒についてもひろく崇拝された。明治以後、県内ただ一社の國幣社に列せられたのもその歴史を思えば頷ける。
古四王の名の由来は諸説あるようだ。一説は、祭神として祭る大毘古命は「越の国(今の新潟県)」を平定したことから「高志王・越王」からきたとする説、今一つは秋田城内の四天王寺としだいに結びつき寺内鎮守社的なものとなったともいわれる。中世は四天王寺を別当寺とする修験神社となり江戸時代には古四王権現と称され、明治三年に古四王神社となった。
境内には、高さ2メートルを超えるような黒御影の歌碑がある。菅江真澄が文政4年(1821)正月に詠んで奉った和歌だ。
『ひろ前の雪のしらふゆそのままに手酬るこしのおほきみのみや』とある。さすれば、菅江真澄は古四王の由来を「越王」と考えていたと考えるのは乱暴だろうか。流麗なかな文字で、もしかしたら本人の筆遣いかと思うとぞくぞくしてしまう。
参照 旧國幣社古四王神社由緒(古四王神社)・平凡社刊秋田県の地名・
金曜会編史跡秋田城址ふる里道しるべ(飯塚喜市編)・あきた青年公論菅江真澄
H26.1月
社長だより vol.7
【寺内・八橋周辺 その1 菅江真澄の墓】
旧国道を八橋から面影橋を渡って土崎にむかう途中、寺内に入ると“古四王さん”がある。
鳥居を右に見て土崎側に車1台がやっと通れる下りの小道がある。土地の人は“旧羽州街道だ”と言っている。4、5分歩くと、右手に「高清水霊泉」の案内がある。さらに下り、最低部の小川にかかる「伽羅橋(きゃらばし)」を渡るとすぐ右に急な階段が見える。70段近くもあろうか、矢竹を左に見て、登りきると急に東西の視界が開ける。その北東側に菅江真澄の墓碑がある。
菅江真澄は三河の人で、「江戸時代後期の国学者、紀行家で日本民俗学の先駆者ともよばれる*1」。天明4年(1784)頃来住、「自然・民族・歴史・考古・文学と学問に幅広く、観察力に富み、絵筆を駆使して紀行文や日記、随筆などを書き残した*2」。秋田市内にも秋田県連合青年会が多くの『菅江真澄の道』として標柱に和歌を添え建立しており、歴史を遺す秋田自慢の「散策道」でもある。
お墓は門人と言われる鎌田家の墓域にある。墓碑をみていると、多くの門人が菅江真澄を前に各地の風俗習慣などを聞き入っている一人のような錯覚におちいる。モノクロのNHK「新日本風土記」をみているようで、豊かな自然と共存していた往時の営みが、幻とも思えないようにみえてくる。墓碑名の周りには流麗な文字が刻まれている。この“一文”をところどころ指でなぞって模写、読んでいるとなおさら静かなざわめきにときめいてしまう。通りがかった旅人も馬を繋ぎ聞き入ることだろう。碑文のわきには、「文政十二年己丑(1829)七月十九日卒 年七十六七*2」とある。
(*菅江真澄の紹介の*1はあきた青年公論 菅江真澄、*2と“一文”は公人の友社 ふる里道しるべ 飯塚喜市編著 から引用した)
H25.11月
社長だより vol.5
【花筐(はながたみ)】
この「花筐」という詩集を知ったのは、1964年(昭和39年)の水温む頃、私が高校卒業まぢかではなかっただろうか。朝日新聞に日付はわからないが、三好達治の葬儀で河上徹太郎が「花筐」の『願はくば』の詩を引用して面影を語ったとの内容が掲載された。何か引っかかりがあり、その切り抜きが今も手元にある。
新聞に載った「花筐」が読めなく、それ以来調べることもせず『願はくば』の詩集でとおしてきた。最近はネットでもたやすくわかるのだが、そのままにしてきた。それが4年前の12月、書類カバンを探してぶらりと入った仙台駅前の雑居ビル。4階の催事場の古書店で偶然見つかった。そして、「花筐」は「はながたみ」と読むことも確認できた。
整然とは言えない陳列で、安い初版本にも心が動く。『今日は「願はくば」の本だ』、と言い聞かせ探していったが、“やはりない、ほっとした”。いつもの通り巡り合う喜びを持ち越し、安堵の気持ちになった。しかし、心残りもあり、手だけが段ボールの底に動いていた。A4ぐらいの本の下に文庫本のようなものがある。まさか!それが「花筐」との出会いだった。
帰りの汽車の中で、「願はくば」を探した。ない!ない!えっ!まさか?
ほどなく、居場所が分かった。どうゆうわけか、目次が一番最後。その前にあった。初版が昭和19年、発行所が北海道、ページを繰るとぼろぼろになりそうなわら半紙に、あの
『願はくばわがおくつきに 植ゑたまへ梨の木幾株
春はその白き花さき 秋はその甘き實みのる
下かげに眠れる人の あはれなる命はとふな・・・』とある。
今年で「花筐」の名前をみてから50年。
先月長年の友人の葬儀があった。弔辞で『願はくば』を引用しようとした。しかし、願はくばの後半にある『・・梨の木に馬をつないで憩えるのだろうか・・』、と自問した。気持ちの整理もつかず、言えなかった。
H25.9月
社長だより vol.4
【打ち水】
今年は父の七回忌。元気でいれば卒寿。
その父が寝たきりになり、盆栽への“水やり”は私の仕事になった。生前足が不自由になり、父に“水やってけれ、葉水も大事だ”と言われ、ついついつっけんどんに“水かけてくる”なんてぶすっと言ったものだ。
私は面倒なので、じょうろのハス口を外して水を根元にかけ、あとは多くの盆栽の上からまとめて雨降り同様“ざあ・ざあ”とかけてやった。“これでは水を撒くのと変わらない”と思いながらもついついやってしまう。
そして、毎年減ってゆく盆栽の数。枝が枯れ、樹形が変わってゆくのをみていると、無口な父の仕事の丁寧さが目に浮かぶ。
たいして時間もかからない盆栽への水かけが終わってから、玄関前の植え込みに水をかけ、僅かばかりのアプローチに「打ち水」をする頃になるとなぜか、柄にもなくゆったりしてくる、というか静かな心になる。水の動きが空気の流れを変えている。五感への清涼効果だと思うのだが、植え込みも目に見えて鮮やかに生き返る。“待ってたよ”、庭木が思い思いに話しかけてくる。
この数歩のアプローチ、「訪れた人が振り返ると思わず “えっ”と感ずる景色にしてほしい」、と地割や飛び石の配置を庭師と相談したことを思い出す。長年父の信頼の厚かったその庭師も老齢で引退となった。この頃は「口ばかりの職人」がはさみを入れるものだからなかなか景色が落ち着かない。それでも「打ち水」をすると心が和らいでくるのがわかる。このアプローチに何か主張を持たせてやりたい。蹲は手入れが大変そうなので、飛び石の横に大ぶりの「鞍馬石」を配し、杉苔をと巡らしている・・・。
H25.8月
社長だより vol.3
【不思議な縁】
由利本荘市で製材業を営む親戚から、“奥の集落にある旧家、頼まれてつぶすことになった。下見に行ったら座敷の襖に字が書いてある。みるんだったら案内するよ”と、金曜の寝る前に電話があった。
もしかして、手の込んだ古い建具があるかもしれない。矢も楯もなく翌日朝に電話の主の先導で取り壊す家に行ってみた。外観はどうということもない。気落ちしながら低い軒をくぐり座敷に入った。薄暗く布団や雑多なものがちらばり、畳もところどころ落ちているところもあり、黴臭く薄気味悪い。“これなんだけど、”と指を指す。“えっ、これ石田白樹さんの書だよ”。“ふーん、こっちにもあるんだ。”続きの座敷に目を移すと七言絶句の漢詩。ゆったりとふくよかな時が流れるまさしく先生の行書だ。“欲しかったら、持って行ってやるよ”。思わず“欲しい”声が漏れた。
家に届いた襖の書はあの時見た以上に真っ赤にやけパキパキ折れる。さらに猫のひっかき傷での欠損、雨漏りなどでボロボロになっている。修復には半年以上もかかるそうだ。取りあえず、種苗交換会を始めた石川理紀之助翁の歌二首(かな)、襖二枚の修復を依頼した。お好きであったご酒後かとも感じさせるような筆の動き。下張りの新聞紙から、先生が60歳近くと思われる円熟期の作品だ。これだけの名品、滅多にない。落款も今まで見たこともない文人画のようなひょうたん型に“白樹”とある。
先生は秋田大学の元助教授で書道界の重鎮であった。奥様は毛馬内(現鹿角市)ご出身の『ゆたか』さんで「かなの名手」と聞いていた。先生が不在の時は奥様にも手ほどきを受けた。なけなしの家計の中から約10年書道塾に通わせた両親。今思えばなんと贅沢な子育てであったろう。
あとで襖に引き合わせてくれた親戚から、「石田先生は学生時代、近藤さんの奥さんの手形の実家に下宿していたそうだ」と聞いた。これもまた何とも言えず不思議な縁だ。年末修復が終わり我が家に帰ってくる。畳にながまって飽きるまでながめよう。
H25.7月
社長だより vol.2
【昔の夏みかん】
我が家に必ず毎年4月に、静岡の磐田から「昔の夏ミカン」と「新茶」が宅急便で届く。部屋中にツーンと新鮮な香りが拡がる。
送り主は、亡くなった父の戦友の奥さんのお名前だ。秋には「三ケ日のみかん」も送っていただく。秋田からは夏に、「いなにはそうめん」、秋は「大森のふじ」をお届けします。この“相互訪問”は、父と戦友の間で、昭和30年代初頭、夏みかんとリンゴで始まり、かれこれ55年も過ぎた。今はお互い顔見ぬ長男同士の付き合いだ。
今年もいただいた「昔の夏みかん」を仏壇にお供えした。毎朝家内と一緒にご飯とお水をあげ、“食べるか?”と顔を見合わせ、最後の1個に手をつけた。届いてからかれこれ1か月半以上も過ぎた。“しなぶけ”てしまったが、しっとりと重く、歯が浮くような酸っぱさは、子供のあの時に帰る。
父の海軍時代の履歴表と写真から推測すると、戦友とは支那事変で苦楽を共にしたようだ。磐田へは小学校低学年の時、家族4人でC58(だと思う)に牽かれた夜行列車(急行津軽)の2等車(ボックス席でクッションが良いだけ?)に乗ってお邪魔しただけだ。あの時、窓を開け目に何回煙(石炭)を入れただろう。目がごろごろして、両親に“涙を流せば取れる”と言われたことを思い出す。「昔の夏みかん」の木も二代目と聞く。亡き父の名代で戦友の墓参りもしたい。今度は「こまちとこだま」を乗り継いで家内と磐田へたどってみよう。
H25.6月
社長だより vol.1
【花木暦】
子供の頃は庭の片隅にもあった沈丁花。何とはなしになじめなかったあの匂い。しかし、いまはすっかり虜になってしまった。他界した父母がこの沈丁花が好きだったせいかもしれない。向かいのお宅から、道路越しに遠くまで漂う芳香力の強さ。外に出ると花のそばまで引きよせられる。爽やかで切ない香りだ。花好きの父母を思い出させ、胸が一瞬“きゅん”となる。
我が家の花木花暦。春一番が玄関前の目立たない“黄梅”だ。そして、縮れた錦糸卵のような“まんさく”、シジュウカラがすきな“馬酔木”の実。“モクレン”、ちょっと名前負けする匂いの“橘”の花、“つつじ”、そして夏始めの白粉のような“クチナシ”。橘の花にも似た“かりん”の花、シャイな“夏椿”、“金木犀”と続き、最後が“お茶の花”。今は“藪椿”も咲き始めてきた。しかし、『クチナシと金木犀・お茶』は今年の大雪と季節外れの寒さに見る影もない。親父、ごめんよ!
H25.5月