秋田東北商事株式会社

NEWSお知らせ

カテゴリー : 社長だより
2018.07.02 | 社長だより

社長だより vol.43

【大いなる積み重ね】

 午後11時半は過ぎていただろう。私は「一富士・二鷹・三茄子」 の語源を読みながら、珍しく燈りの付いた寝室で眠ってしまった。家内はまだ小説を読んでいた。ふと目が空き、手探りで枕もとの携帯を見たら午前1時23分。“へー、1・2・3並びか、こんな偶然もあるんだ”、と一瞬思ったがまた寝入ってしまった。

腕時計

 私は中学生になって両親から腕時計を贈られたが、2年ぐらいで机の中にしまいこんでしまった。それ以来、60年もの間腕時計をすることがなかった。といっても近年は携帯を肌身離さず持っているので腕時計と同じことか。時間に追われず仕事をしているなどと気取っているのも滑稽だ。今年になって、思い出したように1か月ほど還暦で亡くなった従兄の形見の音波時計をつけたが、やはり何か大事なものをなくすのではないかと気になり、今は食卓の上に飾っている。

 高校・大学入試・入札など極めて大事な時間も腕時計なしで過ごしてきた。そのせいか、腹時計は意外と当たる。先日、早朝からマイ畑での“農作業”。携帯をなくせばと思い、車に置いているのだが、雑草取り、1時間も経つと疲れる。お日様もあがってくる。一服しながら、家内が“今、何時?”、私は即座に”7時40分ぐらいだよ”と言った。ほどなく車の時計を見た家内は、なにか不思議そうに一言、“当たってる”。それはそうだ。当たる理由は手品と同じで種がある。
 汽笛だ。秋田港に苫小牧からフェリーの到着が午前7時半頃、新潟への出港が1時間後。7時、8時の時間さえ間違えなければ、海風にのって聞こえる汽笛に腹時計を合わせればいいだけのことなのである。偶然でもなく多少腹時計を考える程度だ。6時に出港する船もある。また、近くの秋田陸上自衛隊駐屯地の“起床ラッパ” も聞こえることがある。午後は学校のチャイムも聞こえるので時計代わりに事欠かない。勿論、これらの種は家内にバラしてはいない。

雲昌寺のアジサイ

 ただ、この頃時計を持たないことによって相当に無駄な時間を過ごしてきたのではと思うようになってきた。父親は旧海軍、連合艦隊旗艦『高雄』などに乗船していたと言う。出港時間には大変厳しいものがあったと、子供のころからよく聞かされていた。曰く、“集合には何があっても10分前には現地に到着していること”。これがトラウマというかごく当たり前のことなのだが、時間の約束だけは人にも冷たく当たってきたと思う。それだけに、概ね20~30分前の余裕現地到着が私のセオリーである。
 しかし、仮に週2回の約束などがあれば、月8回で240分。年間では2,880分の待ち時間となり、丸々2日が無駄となる勘定だ。60年とすれば実に120日、4か月分である。実際はもっとあったろう。この時間をただ“ぼ~”と生きてきたわけではなく、もの思いのゆとりの時間と見ればいいのだろうが、この歳になると“もったいなかったな~”と感じる。

平成30.7月

2018.06.01 | 社長だより

社長だより vol.42

【ふたたび小さな疑問】

 尺貫法は中学生の時廃止されたと思うが、今もってメートル法でしっくりこないものがいろいろある。特に面積や量的なものに多い。100 m2といっても3.3で割って、“ふーん30坪か”、100ℓは1升が1.8ℓだから、“50本ちょっとか”、となる。また、田畑での一反歩のイメージはあるが「アール」などが出てくると固まってしまう。換算は認知症防止にはいいのだろうが、いやはやピンと響く頭には程遠い。秋田高校校歌と太平山の地図
 拙宅近くの高清水小学校も今年140年、校歌に「山きよらかな 太平の そびえる姿 映しつつ・・・」とあり、作詞は秋田高校と同じく土井晩翠さんです。
 秋田市のほぼ全域から見られるピラミッド型の『太平山』。深田久弥氏の名著「日本百名山」にはないが、山の深さや信仰の対象として山岳関係者は「日本三百名山」の一つにあげている。春夏秋冬異なる趣きをはっきりとみせる。高清水からも稜線がくっきりとよく見える。また、“マイ畑”からもピークが見える毎日の暮らしに欠かせない風景だ。
 私はこの歳まで自分にずっと太平山は前岳・中岳・奥岳の総称だと思わせてきた。そっとしておきたかったが、“念のために調査”してみると手前から、前岳・中岳・鶴ケ岳・剣岳・宝蔵岳・弟子還り岳・太平山・旭岳とある。山連なりは当然知っているが、太平山への呼称、「3岳で太平山」はここに60年の思い込みの歴史が途切れることとなった。

 しかし、私の本来の疑問は依然として未解決だ。その標高差にある。太平山の標高は1,171m、前岳は774m、どこから見てもこの標高差を感じられないのである。みた感じ、前岳は9合目、よく見て8合目ぐらいにしか見えない。写真上は秋田市外旭川から撮ったもの。前岳と太平山の標高差は約400m。写真下はもっと近づいて秋田市仁別からみたもの。(両方とも8時前後方向から見ているので中岳は見えない)いつも太平山を見るとこの標高差に悩まされている。400mの差といえば、優に男鹿半島の寒風山(377m)を凌ぐ。距離や見る位置(角度)からその差を感じさせないのだろうが、足も不自由になり、走破してこの疑問を解決・納得することは永遠にできなくなった。今となれば中学2年の夏、クラスの数人で前岳から奥岳まで縦走する計画があったが参加しなかった。なぜ参加しなかったのかがそもそもの疑問だ。

 1812年7月16日、菅江真澄は「太平山(おろちのたけ)にのぼって、“居待ちの月(十七夜の月)を見ましょう。16日は月蝕があって月見にはふさわしくないので・・・”*」と、出発し19日に登頂している。翌年、晩春に再度秋田市仁別を訪れ、次の和歌を残している。
 『花はいつ 桜のこずゑ 梅の苑(その) また夕凝(ゆうこ)りの 霜のおく山』。
一昨年まで仁別から『ザブーン』へのT字路角にこの和歌を記した「菅江真澄の道」の標柱があった。
(*菅江真澄遊覧記5、月のおろちね、内田武志:東洋文庫、平凡社)

平成30.6月

 

2018.05.01 | 社長だより

社長だより vol.41

【小さな疑問】

09_53①

 新青森駅発12時48分の「つがる4号」、進行方向左側の窓から春の陽光。うとうとしながら幾度となく通ったあの7号線(旧羽州街道)。飛ばしている自分を左右に見て秋田へ向かって南下する。右側にお岩木山の真っ白な三つのこぶもはっきり見える。広大なりんご畑、ところどころに剪定した枝を焼く薄い煙も見え、匂いも漂ってくるようだ。弘前では乗降客で結構ざわめく。
 “つがる”は大鰐・碇ヶ関を過ぎ浅緑の山中をはしる。県境青森県側山あいの奥まったところに「湯の沢温泉」がある。どうやら混浴であったあの温泉、いま開いているのだろうか。この一帯はことのほか温泉の宝庫だ。赤い湯・白い湯・あったまる湯、私は特に「日影温泉」の優しい白い湯(陣場)が好きだ。長くつかって上気した顔に玄関前の沢風が硫黄の匂いとともに心地よい。

 “つがる”は大館(早口)・鷹巣・二ツ井と天然秋田杉集積地の面影を残した駅構内を通り、やがて、東能代駅に到着する。“秋田駅からリゾート列車は必ず一旦東能代駅についてから、向きを逆にして絶景の日本海沿いを走るんだよな…。スイッチバックだよな~、東能代を通らずに五能線に入る線路はないよな~。明治?の木材運搬業者が鉄道に反対しなければ、方向転換はなかったはず”などと思い巡らして、またまどろむ。男性車掌は主要駅を通るたびにカチカチと乗客数を確かめている様だ。
 三種町に入れば日本一の“じゅんさい”産地の沼があちこちに光っている。八竜メロンの定植は終わったろう。車内放送で間もなく森岳との案内。今は寂れているが能代の奥座敷的社交場・湯治場でもあった森岳温泉。M館の湯は無色透明でかけ流し、湯口から溢れる様に出てくるしょっぱい湯が自慢だ。秋田北ICから自動車道で約30分、特に入浴客に会わないラッキーな日は温泉独占で家内もニンマリご機嫌だ。

 森岳を出てほどなく、一瞬オレンジと赤の流れる色とすれ違う。“あっ、クマゲラだ、クマゲラも五能線に入るには必ず東能代を通るはずだよな~”と、また、勾配のないスイッチバックを思い出してしまった。次に停車する駅は八郎潟。よそでは見られない「願人踊り(がんにんおどり)」がある。もう間もなく始まる。何とも愉快というか軽快な踊り、決して見逃すまい。この八郎潟駅から東側に車で約10分、朝市・鍛冶・建具職人の五城目町がある。 “奥羽本線が通らないのは能代と同じで木材運搬業者が鉄道に反対したためだよな~、今となれば鉄道が欲しいだろうな~”。五城目には薬効が高いといわれる「湯の越」の湯があるが、私は混雑を避け、もっと手前の高台にあるぬるっとした「小倉温泉」に入る。ここも独り占めのチャンスがある。

 ここから秋田までは一飛び。到着は15時28分。杖をついてゆっくり出たら、カチカチ車掌にバッタり。意外に若く、眼鏡をかけた生真面目そうな感じ。思わず、“リゾート列車は東能代でスイッチバックですよね?”、“・・・のために最後尾を先頭にして五能線に入ります”と、丁寧な説明が返ってきた。間違いなかった。安心した。所要時間2時間40分、今度時間があったら五能線で帰ろう。

切絵の枝垂れ桜

我が家の菜園に作られたカラスの巣。
 (壊さずに下におろした。直径約60センチ)

平成30.5月

2018.04.02 | 社長だより

社長だより vol.40

【ミソソ ミレド レミソミレ・・・】

  日曜の朝、8時5分、NHK第一放送、『音楽の泉』はシューベルトの「楽興の時」で始まる。おなじみの声で、主題の旋律や演奏者の紹介。どこかで聞き覚えのある旋律が出てくると、途端に思い出への呼び水というのか、遠い人生へスイッチが入ってしまう。 よく知っている曲ともなれば気持ちが高揚する。そして深みのある解説はつとに心地よい。今の解説者は皆川達夫氏だが、いつになっても子供のころの「堀内敬三」さんのイメージが強い。

房総
千葉の友人から房総の花だより

 4月になり桜前線の等高線もずいぶんと上がってきた。もう少しで秋田にも届く。陽光に、つい、がらにもなく“春のうららの隅田川(花)、春の小川”がふっと口をつく。早春の卒業式では「仰げば尊し、蛍の光」などはとうになくなったろう。川沿いの桜並木に子供たちの歓声もモノクロ映画でしか見られなくなった。
 春の付く、春を彷彿させる楽曲は数多くある。早春賦・おぼろ月・メンデルスゾーンの「春の歌」・ヴィヴァルディの「四季/春」・くるみ割り人形の「花のワルツ」、自然の中にゆったりと遊ばせる「田園」もその一つだろう。確か“春を愛する人は心清き人…”という歌もあったな~。

交響曲第九番 新世界から

 春はのどかな情景を思い出させるだけでなく、新天地に向かう役割も演じる。ドヴォルザークもその一人。50歳のころ、ボへミヤからアメリカに渡り、交響曲第九番【新世界より】を作曲している。全編にわたって、どこか懐かしい旋律の【新世界より】。特に広く知られている第2楽章の冒頭序奏後の「家路とか遠き山に日は落ちて」は教科書にも載っていた。 “♪ミソソ ミレド レミソミレ ミソソミレド レミレドド・・・”、遠き山に 日は落ちて 星は空をちりばめぬ・・”。作詞はあの堀内敬三さん、どこか哀歓を帯びたメロディにぴったりの歌詞だ。この部分は木管パート群右側で柔らかく落ち着いたイングリッシュホルンがソロで奏でている。ラールゴとあり、スラーがかかっているので滑らかにゆったりと流れる。この部分になるといつも決まって思うことがある。

 それは指揮者がイングリッシュホルンをどうひかせようとしているのかだ。著名なオーケストラにはきら星のごとく凄腕のソリストたちがいる。指揮者の考えを無視して独り舞台とばかり演奏ということもあるのではないだろうか。協奏曲であれば、お互いの立ち位置ははっきりしているので、安心しているが、【新世界より】など独奏がある場合奏者がどう演奏するのか気になっている。
 写真CDの指揮者はハンガリー動乱で西側に亡命したイシュトヴァン・ケルテス。オーケストラはあのウインフィル。イングリッシュホルンが歌い始めると、いつも“身構える”のだがその違いが分かるはずもない。ただ、ケルテスの緩やかな棒が民族の秘めた思いを支えているのだろうと感じるだけだ。やはり、楽員の心をつかんでいる指揮者あってのオーケストラだと思う。東欧の心をもった天才ケルテス。40歳過ぎ、道半ばでの突然の他界。生存していれば90歳前後だろうか。さぞかし名盤が遺ったろう。残念だ。

平成30.4月

2018.03.01 | 社長だより

社長だより vol.39

【なごり雪に想う】

汽車

♪汽車を待つ君の横で ぼくは時計を気にしてる
 季節はずれの雪が降ってる
 東京で見る雪はこれが最後ねと
 さみしそうに 君がつぶやく
 なごり雪も 降る時を知り ふざけすぎた 季節のあとで
 今 春が来て 君はきれいになった

 作詞・作曲:伊勢正三

 まだ寒いが春めく気配を感ずると、「なごり雪」という歌が遠い記憶に染み込んでくる。小声で歌うと柄にもなくモノクロ映画の一こまに一瞬の残像を観てしまう。広辞苑では「なごり雪」にどんな解説をしているのかひいてみた。以外にも「なごり雪」は無く、「名残りの雪」として、「春になってから冬の名残りに降る雪」とある。万葉集あたりに使われていそうな感じなので、友人に聞いてみた。数日後に“わからない、4~5年前に気象台に登録されているようだから新しい言葉かもしれない”と「季節の言葉36選」としてメールがきた。
 確かに3月に「なごり雪」があった。他に雪の付く言葉は1月に「雪おろし」、4月に「花吹雪」がある。意外に少ない。選考対象として、11月に初冠雪・新雪・雪つり、12月に地吹雪・雪景色、3月あたりに淡雪・雪柳・雪虫・雪解け、4月は雪の回廊などが思いついた、しかし、豪雪の中で暮らす人々を考えれば「雪おろし」だけでも十分なのかもしれない。毎日の雪かき・除雪はこたえる。

はだれ雪

 私は、どことなく春めいたきざしを感ずる頃、舞って降る雪を「淡雪」、さらっと積った雪を「はだれ雪」と言っている。この「はだれ雪」という言葉をいつ覚えたのか全く記憶にない。
 例の広辞苑に「はだれ」がある。「まばら」という意味だそうだ。使用例として万葉集の『笹の葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ』が載っている。「はだれ雪」の説明は前後したが、“はらはらとまばらに降る雪。また、うっすらと降り積もった雪。まだらになった残雪”としている。これからは「はだれ雪」を“はらはらとまばらに降る雪”としよう。

 その後、友人から第二弾。『笹の葉に・・・』の意味は “うっすらした雪が解けてしまうように私を忘れてしまうという君が一層愛おしくなる”とメールは言う。と、すれば、本万葉集は現代意訳として、『東京で見る雪はこれが最後ねと さみしそうに君がつぶやく』がしっくりくる、と勝手に得心しているがどうだろう。もっと縮めれば、「私を忘れないで」でもいいのかな~。それにしても今時分の「なごり雪」という歌は静かなときめきをのこす詩(うた)だ。春が待ち遠しい。

平成30.3月

2018.02.01 | 社長だより

社長だより vol.38

【春はもう少し先・・・】

 第七版の広辞苑を買った。見た感じは「七」のところが違うだけで、あとは期待通り何の変わりもない。「新村出編」にも安心した。元国語教師の86歳になる従兄は、10年ぶりの改訂版をよほど待っていたらしく、秋田駅前の本屋に注文したとかで、発売日にナップサックを背負って買ってきたそうだ。第二版から毎回買い求めているとのこと。私は広辞苑専用の真っ黒なビニール袋に入れ、車まで運ぶのが“重かった”。
 この広辞苑、傍にあって、ただページをめくって言葉を眺めているのもいい。ネット検索では少々信憑性に欠けるが、その点辞典は安心だ。全く違う言葉にも出会えてついついみてしまう。

広辞苑

  紙質の違いやインクのにおいを感じながら、最初に探した言葉は「如月」。“(草木の更生することをいう。着物をさらに重ね着る意とするのはあやまり)陰暦2月の異称”とあった。その夜、偶然、布団の中で読んでいた「言葉の歳時記(新潮社、新潮文庫、金田一晴彦氏)」に、“「きさらぎ」というのは余寒が厳しくて衣類をさらに重ねて着なければならない、つまりは「衣更着」の意味だと古くから言われている”とある。広辞苑の初版は昭和30年5月。「言葉の歳時記」は、昭和48年8月の発行、同氏も目にしたと思うが、大寒のころ、「衣更着」はぴったりだと思う。

三菱重工カレンダー

  変わってほしくないものはいろいろあるが、「三菱重工のカレンダー」もその一つ。まだ駆け出しのころ、メーカー担当者から“コンクールで優勝したんだ”と言われたことがある。飾り気のない数字だけのこのカレンダー。今年、表紙(1月の前ページ)に小さくその由来が印刷されていた。『昭和26年以来の“玉”カレンダー。玉とは印刷用語で数字のことを指す。使用している数字は三菱重工でデザインしたオリジナルの字体であり、赤や黒の深みを出すために二度刷りを施す手法と併せ、そのこだわりは発行以来変えずに作成し続けている。この端正かつシンプルでありながら力強いデザインは文部大臣賞や通商産業省繊維局長賞などを受賞した実績もあり宮内省へ献上していたこともあります』、と。当時は和紙ではないかと思えるほどの厚手の真っ白な紙。今も指に感触がのこる。裏に図や表を書くと、妙に立派にみえ、捨てるのには惜しい気持ちが残ったものだ。今も他社で出会うとほっとする逸品だ。

積雪の様子

  節分が終われば翌日は立春。春が立つと書くが、雪解けが進み、「ばっけ」が出始め、ある日「まんさく」の花が“おーい”と声をかけてくれそうな気配も感ずる。 “「立つ」は今まで存在しなかったもの、一般的に神秘的なものが忽然と姿を現した言葉であり、「竜」をタツというのも常に隠れているものが現れる意味だろうと推定される(同、言葉の歳時記)”と金田一晴彦氏はいう。春が待ち遠しい。

平成30.2月

2017.12.29 | 社長だより

社長だより vol.37

【一富士二鷹三茄子】

 今年は年神様に何をお願いしようか、暮れの大掃除もせず、障子の張替えもしなかったが考えてみた。もしかしたら、両親の仏壇はきれいに掃除をしたのでそのおかげはあるかもしれない。
 初夢は何にしよう。家族の健康や子供の活躍は順当なところだろう。次は何だろう。あれこれと思いめぐらす。一方、昨年の目標は確か海坂藩の地図作成であったはず。今も枕元に短編集が10数冊はある。布団の上で読み終わるまでなんども顔に本を落とし、地図作りは到底先の話、いやできないだろう。しかし、灯りを消すと音を包んでしまう雪の中、ふっと視界に軒を寄せ合う町屋が見えてきたり、だらだら坂が見えたり、夜のとばりに人影がチラついたりと作成への意欲だけは消えていないようにも見える。

 私の冬景色は秋田県立美術館にある「藤田嗣治の大壁画」。伽羅橋(きゃらばし)から左の四分の一ほどだが、お正月がしっくりとおさまる。何度見ても飽きずにこの壁画を見ていると懐かしい語らいがある。右のほうに目を移すと“三吉さんのぼんでん奉納”があるので左の雪景色は自然とお正月に見えてしまう。かまくらのそばには角巻を着た大人の女性が数人話し込んでいる後ろに馬(ば)そりが来ており、奥に雪囲いの板塀を配置してある。吹雪になれば”虎落笛(もがりぶえ)”も聞こえるのだろう。秋田にこの大壁画があることを誇りに思う。

「藤田嗣治の大壁画

  もう一つ、お正月というと、かどづけの万歳(まんざい)があった。正月といっても小正月だろう。将軍野にあった家の前の家、玄関から上がり框まで2間位土間があった時のこと。入ってくるとパパンパンと鼓の音が家中に響く。秋田万歳*(ねぶり流し館、民俗芸能・行事開設シート2)によれば、「明治25年ごろが秋田万歳の最盛期で、25組もの万歳師がいて組合を結成、地域を決めて活動」し、「訪問先の家をたたえ、人々の長寿を祝福する文言を掛け合いで唱えながら舞いを演じる」とある。
 挿絵は、平凡社の世界大百科にある「万歳」。二人とも烏帽子姿だが、我が家に二人で来ていた時は、大黒頭巾と烏帽子だったろう。右手で黒の角巻(マント風)を跳ね上げ、指のない軍手で鼓をもち、パパンパンと打っていた。頃合いを見て母親からおひねりを渡され、“はい”と手渡していたんだろう。
 中村 草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」どころか「昭和も遠くなりにけり」で、来年には元号も変わる。初夢に寂寥感への沈積だけは見るまい。歳月の流れには逆らえない。
*秋田県無形民俗文化財:民俗芸能伝承館(ねぶり流し館)

いただいたみかん

 年末、東京のW氏からみかんをいただいた。奥様の実家が湯河原のミカン農家と聞く。10㎏入りとあるが、持ったらずしりと重い。開けてびっくり、びっしりと整然と並んでいる。見たこともない箱詰め、感動した!ストーブの側で駿河湾を眺めながらごちそうになろう。

平成30.1月

2017.12.04 | 社長だより

社長だより vol.36

【“ごっこ”がつく】

  「朝から底冷えがして、暗い雲の下に町全体が静まり返っているような刻(とき)が過ぎたが、七つ(午後4時)過ぎになって雪が降り出した。師走に入ってから二度目の雪だった。雪は、夜になると急に勢いを増して、切れ目なく降り続いた。・・・下駄にすぐ雪がくっついて歩きにくい。菊四郎は立ち止まって足踏みをし、下駄の雪を落とした・・・・ご存知藤沢周平短編小説、「雪明り」の冒頭部分。

 “下駄にすぐ雪がくっついて”、とあるが、鶴岡出身の同氏ならではだ。確かに“ごっこ”がつくと歩きにくい。この“ごっこ”、特に気温が低い時についたと思う。子供のころ家にあった箱ぞり、立派にできていてうらやましがられた箱ぞりであったが、そりの部分に鉄板を打ち付けてあった。寒ければ寒いほど、そりにこの“ごっこ”が付いていたと思う。横倒しにして根こそぎ取らないと直ぐに“ごっこ”が大きくなり、真っすぐ進めなくなり、重く煩わしかった。周りの箱ぞりは鉄板の代わりに竹を割って先をあぶって曲げたものを張り付けており軽くてよく滑り、子供ながら羨ましく思ったものだ。

  “ごっこ”の語源を探したがわからない。こぶができて、歩く“とごっ・ごっ”との感触音があることから、この“ごっ”に秋田の語尾に“こ”を付ける癖がついて“ごっこ”になったのではないだろうか。ちなみに、こぶの語源も調べたが、“ごっこ”に近い呼び方はなかった。
 下駄箱に、母親から高校時代に買ってもらった新品の桐の下駄と爪皮(つまかわ)を掛けた足駄がある。しんしんと降る雪の中、音の消えた町を足袋をはき、雪道を歩いてみようか。

  雪が降ればなぜかふっと子供時代がよみがえる。ストーブにあたって切り餅の木口を煙突に当て、上から下へ引くと熱さと力加減もあるがとカンナ屑よろしく“しゅー”と「極薄の餅」ができた。失敗すると焦げたにおいで怒られる。郷土の偉人、アラビア太郎は「おかゆの鍋のふきこぼしが乾いて薄紙のようになっているのにヒントを得てオブラートの製法を発明したという*」。今思えば親の庇護のもと安心した生活があったのだろう。雪が降るとそんな郷愁がよぎる。今年は膝が痛く、窮屈な格好で十分な雪囲いもできなかった。父親は何と思っているだろう。
 *秋田経済11月 特別寄稿 田中玲子 私の尊敬する人より

 先月、【音・色・いろいろ】の拙文に対し、東京のW氏から『ウォークマンから聞こえる印象的な色の歌の一つ「夢一夜」の“紅をひく”がどうにもへばりついてしまった』とあり、2番の歌詞が添えられていました。

09_48②

  ♪恋するなんて 無駄なことだと 例えば人に 言ってはみても 貴方の誘い 拒めない
   最後の仕上げに 手鏡見れば明かりの下で 笑ったはずが 影を集める 泣きぼくろ
   貴方に逢う日の ときめきは 喜びよりも せつなさばかり
   ああ 夢一夜 一夜限りと言いきかせては 紅をひく
   貴方を愛した はかなさで 私はひとつ 大人になった ああ 夢一夜
   一夜限りで醒めてく夢に 身をまかす

     「夢一夜」 作詞 阿木燿子 作曲 南こうせつ 唄 南こうせつ

平成29.12月

2017.11.02 | 社長だより

社長だより vol.35

【音・色・いろいろ】

♪雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る
 雨は真珠か夜明の霧か それとも私の忍び泣き
 舟は行く行く通り矢のはなを 濡れて帆あげた主の舟
 ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
 雨は降る降るひは薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ

 心のどこかに引っかかりのある『城が島の雨』。張りのあるテノールはもちろんだが繊細なソプラノもいい。目の前で聞くと、言葉の終わりに余韻が残る。歌詞・旋律、たまらない。私は新聞記者から転身した岡村喬生がひげの姿で朗々としたバスであの旋律を歌いあげるのが何とも心地よい。聞くたびにジーンと胸に沁みこんでくる。何度聞いても飽きることもない。

 そして、この歌に出てくる「利休鼠(りきゅうねずみ)」の色も忘れられない色となった。以前から“きっとこんな感じの色だろうな”、という想いはあったものの、私が初めてこの色を目にしたのは確か昭和52、3年頃の6月の雨降りだったと思う。場所は東京駅。丸の内と八重洲の自由通路が工事改修の時。ちょうど通路の中間位、左右がコンパネ。カツカツと靴の音だけが響く雑踏の中に、一間四方位の色板6枚が丸の内に向かって左側に架けられていた。その中の一枚がこの「利休鼠」。仮名ふりがしてあった。“これが「利休鼠」か”、と目だけが追っていたことを思い出す。

 「利休鼠」を“和の色辞典”(視覚デザイン研究所)で見ると、『緑みの灰。後世の人が、大茶人の千利休の名を勝手につけた色名、とある。利休の名がつく色名は、抹茶の連想から緑みがある。加茂川鼠・淀鼠(よどねず)・松葉鼠(まつばねず)と、緑みの灰色にバリエーションは多いが、利休鼠だけが突出して今日まで親しまれている。大茶人の効果か、役者色と並ぶいわばアイドル色といえる』とある。それ以来、文人の旧家や博物館でこの色を追っている。北原白秋にとっての「利休鼠」は、“侘びだとか寂だとかを通り越したきっとあの事件による失意のどん底の色”なんだろう。

どれかな~

この『城が島の雨』を“ラックス38FDでダイヤトーンモニターを鳴らす”、そんな夢のような組み合わせを1度だけ経験した。内視鏡メーカーの秋田の所長さん宅。白秋の三崎でのやるせない“失意の唸りの風景が”がみえたような気がした。昨今のノイズのない澄み渡る歯切れのいい音とは違う、いわゆる真空管(たま)の魅力。“本当の音(こころ)はこんなんだよー”と言っている。心がゆったりとした。
(「城が島の雨」は1913年、大正2年10月28日にできた、作曲は梁田貞)

平成29.11月

2017.10.02 | 社長だより

社長だより vol.34

【えっ!】

 一面黄金色の田んぼの真ん中に我が家の菜園がある。風もなく豊饒な秋を迎えた夕方、畔の間に例の茶色の猫がいた。この畔が好きらしい。いつも目が合うとすぐ稲の中や草むらに姿を隠してしまうのだが、その日に限って逃げるそぶりも見せず黙ってこちらを見ていた。私も腰を下ろすことにした。

 茶色と言ってもおなか半分上が薄茶で虎模様、おなかのあたりはずいぶんと痩せている、そして“小柄だが顔つきは大人だ”。近くの民家まではどちらを向いても1キロ以上はたっぷりある。会うたびに「家も遠く、野良猫だろうな、何喰っているんだろう、野ネズミか蛙あるいは雲雀ぐらいだろうな」、と気にはなっていた。ちぎれたザリガニの足を時々みるが、これはカラスだろう。

 この日の茶色の猫、私の前でゆうゆうと毛づくろいを始めた。『吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ』という有名な小説の冒頭がある。“何してる?”知らんぷりで、足をなめたかと思えば、おなかをなめる。まるで飼い猫のようにのんびりとしている。というより私にしらんぷりだ。“邪魔をしないでくれよ“とでも言っているみたいだ。空を見ると童話にあるような綿のような雲が浮かんでいる。

 今年も秋のお彼岸がやってきた。周りで稲刈りも始まった。秋の陽に雪が降ってきたようにトンボの羽がきらきら光っている。数を減らしたといわれるスズメもこんなにいたのかを思うほど群れている。ムクドリの群舞のように上下左右に隊列をなしてというのではない。いかにもいたずら小僧が悪戯をしているようなもので、人を見て“わー”と慌てて飛び立つようなものだ。だから、ずっと群舞を見ているということもない。

 “名前もわからない茶色の猫。何を思っているのだろう・・・・・さてこの後なんと書こう。有名な小説では猫が三馬(さんま)を盗んだよな”とか、“見物している人間を描こうか”とか思いながらパソコンの手を止めた。その時だ。左に時計とかペン立があるのだが”えっ”と思わず声が出てしまった。黒豆が出てきたのだ。写真を見ていただこう。左は収穫には早いと思っていた黒豆だ。それが1週間もしないうちに右のように立派な黒豆になっているではないか。一体こんなことってあるのか。テーブルの向かいで切り絵をしている家内も、“小豆もそうなんじゃない、からっからにならなくてもいいんじゃない“と。

 去年の小豆、黒豆同様今もおいしく食卓に出るが、収穫では二人は結構難儀をしていた。茎は細く自立は到底できず、雨が降るたびに鞘が地面につかないように起こして枯れた順に取っていた。地面に長くついていると虫が入るのだ。もし、少し枯れたぐらいで収穫できるのであれば被害は最小限で済む。私の“検査”も大いに簡略化されるというものだ。今度の土曜日試してみよう。
 新米の半殺し、小ぶりな粒あんのおはぎ、とったばかりの小豆はやわらかい。楽しみだな~。『日本海』が現役のころ、関西からの帰り、京都へ一電車先乗りし、駅デパートで老舗の「ゴマ・きなこ・あんこ」のおはぎを買い求め、あのブルートレインをワクワクしながらお出迎えをしたものだ。先ごろ偶然東京のデパートでこのおはぎを見つけ美味しくいただいた。

“ところであの茶色の猫、どうなった?”

平成29.10月

2017.09.05 | 社長だより

社長だより vol.33

【イチジクの思い出】

イチジク

 「あっ、イチジクがなった」。挿し木してから3年目で実がなった。苗木が届いたときは、ただの30センチぐらいの棒切れ、本当に実がなるのか半信半疑であった。冬を越して1年目、あのグローブのような5裂の葉が出てきた。実がなる?しかしダメ。翌年も葉が落ち、寒さで死んでしまったと思い、切ろうかと思った。しかし、せっかくだからこのままにしておこう、とほっぽらかした。そして今年、お盆過ぎて見つけた。実がなっている!雨の中、“ありがとう”、ずぶ濡れで周辺の草刈りをした。

甘露煮

 イチジクには苦い思い出がある。小学校5年の時だったと思う。国鉄土崎工場近くにあった珠算教室に通ってた時のこと。前の組が遅くなり、後の組の生徒たちで教室の前庭にあったイチジクを食べたことがあった。仲間外れも嫌なので食べた。数日後、実行犯として連座したが主犯より厳しいおしかりを受けることとなり、父親に連れられ謝ることとあいなった。先生は、出口さんと言い、目の大きな方で秋田市役所の職員であった。特に読み上げ算の声はどんな会場でも隅々まで響き渡るような素晴らしいバリトンの持ち主であった。いろんな大会に出ても出口先生のような声に出会ったことはなく、誇らしい先生であった。イチジクを見るといつもほろ苦く、そして出口先生のことを思い出す。
  
 私はあの事件以来生食は苦手となった。イチジクを植えたのは、家内ともども甘露煮が食べたくてだ。甘露煮は由利地方が有名だ。自分で買うことはないが、お隣のお土産的なお菓子で、いただくと思わず“わー、イチジク”、そんな主張がある甘露煮。さらりと気の置けない手土産だ。生食にはないあの酸味が甘みを引き締めるのだが、最近は洗練された感じだ。一昨年七回忌だった母の甘露煮はアルマイト鍋でぐつぐつ煮詰めていたが、「かすべ」煮と同じで、柔らかであったり、硬かったりで、今は何となく懐かしい。友人からいただくのもいいが、味は“うーん”だ。そんなこともあって、やはり自家製が一番。5年前、家庭菜園を購入して長年の夢を果たした?格好だ。

 イチジクの伝来は江戸初期、原産地は6千年も前のバビロニア、中国を経て、長崎へ薬樹としてもたらされたという。不老長寿の果物とも呼ばれるが、便秘改善、肌荒れ、痔の出血止めなどに効能があるようだ。リンゴやナシなど多くの果物とは反対に実の中に花があるので何か不思議な効能があるのではないか。旧約聖書のエデンの楽園で食べてはならない禁断の実といわれたあのリンゴ。「南国でリンゴが育つものか、アダムとイブを見ろよ、イチジクだろう」、という人もいる。ま~、そんなことはどうでもいいじゃないか。それより、我が家の甘露煮、10個ぐらいできるだろうか。磐田からいただいたおいしい煎茶で楽しもう。

小玉スイカ
空
アサガオの切り絵


食べごろに少し早すぎた先月の小玉スイカ、栽は難しい。しかし、うまかった。

平成29.9月

2017.08.03 | 社長だより

社長だより vol.32

今年も土崎神明さん、曳山(やま、写真左)が終わった。ユネスコ無形文化遺産登録となった今年、ことのほか熱気でごったがえした。私は御幸曳山(みゆきやま)出発地、穀保町(こくぼちょう)の隣町、新城町(しんじょうまち)で産まれた。現住居は旧寺内6区(高清水)で神明さんとは関係ないが、7月20・21日は盆暮れ一緒に来たようなものだ。6月に入るとお囃子が聞こえ、新年を迎えるように気分が高揚してくる。そして21日の夜、戻り曳山(もどりやま)。つぶれた声の音頭上げ、引手の荒声、きしむ木の車、油の焼けるにおいで『やま』は最高潮に達する。

【夏の家庭菜園】

  この時期、“食べたくなる”のが「うり」。うまいのに当たった時のあの感激、ハズレへのぼろくそ。今ではハズレのないメロン。美味しいのだが何かもの足りない。昭和30年代初頭、まだまだ果物も少なく、スイカは高くて1年に2回ぐらいしか食べられなかった。その点、「うり」は手軽な夏の人気もの。フンフンにおいをかぎ、指先でやわらかさを確かめたり、包丁を入れてもらった時の緊張、スプーンで食べる?そんなことはまずなかった。即、かぶりつきだった。果汁を垂らし、怒られながら食べた。
 都では「瓜田に履を入れず、李下に冠をたださず」という中国のことわざが賑わっている。「ウリ」はなくても言葉はしっかり残したいものだ。

 トマトもそうだ。畑の真っ赤に熟れた大きなトマト。ガブリ!青臭いというか、畝に腰を下ろして、日差しを遮り、青いへたのところまでモクモク食べた。子供のおなかはたちまち満足する。我が家の家庭菜園もこのトマトを食べたいがために始めたものだ。
 先日、我が家のトマトをじっと見ていた顔見知りの専業農家の人が、「これさ肥料やったか?」、「もちろんやったすよ!」、「あのよ、トマトは肥料やらねくてもえなだや」、と言う。実は毎年夢に見た大きなトマト、実がつかない・ついても大きくならない。今年こそはと思って肥料もたっぷりやった・・。葉もちぢれ、幹ばかり太く、“病気ではないか?・いやいや石灰が足りないのでは”と家内と悩んでいた・・・

 今年はもう一つ大きな失敗をやらかしてしまった。とうきびだ。野菜や果物はもぎたてが最高。毎年、向かいの家からもぎたて5本をいただくのだが、とにかくおいしい。真似をして植えてみた。肥料もたっぷりやった。順調に大きくなり、茎から“とうきび”が2~3本出てきた。ところが何を思ったか、少し抵抗はあったがことごとくトマトよろしく“芽かき”をしてしまった・・・。数日後、青森で助手席から何気なく沿道の畑を見ていたら、“あれ?うちのとうきびと何か違う?”。直ぐわかった。“うちのとうきび、裸だ!” “芽かき”をしたときは穂(花芽)にとうきびがなるんだと錯覚していた・・、子供が帰省したら食べさせてやろうと思って丹精込めていた。がっかりした。家内に言葉はなかった。

 今年の畑、春先の低温で作況は全体的に不良だ。あとの望みは枝豆か。写真は雑草がいっぱいの豆畑。右からてんこ豆(後ろは赤大豆と紅虎豆)、ささぎ豆、黒豆、小豆、枝豆。東京の友人W氏はことのほか枝豆に目がないという。播種をずらした枝豆。うまくいったら朝採りで送ろう。
 お盆過ぎればそろそろ秋野菜の準備だ。それまで休もう。しかし、そうもゆかない。強敵、日照りと雑草が待っている。

平成29.8月

2017.07.03 | 社長だより

社長だより vol.31

【つばめ】

09_43①

 田植えもとうに過ぎ、来週には夏至だというのに、未だつばめをみていない。秋田地方気象台の「平年つばめ初見」は4月18日とある。今年は4月16日が初見というから、2か月前には戻ってきていることになる。
 60年も前の話だが、父の生家(秋田市高野)につばめが巣をかけていた。太い角の取れた敷居をまたぐと黒光りしたでこぼこの広い土間があり、つばめの巣は右奥の鴨居にあった。“つぱっ、つぱっ”、とせわしない子つばめの口にせっせと餌を詰め込んでいた。「つばめが巣をかけると縁起がよい」とか「つばめが低く飛ぶと雨が降る」とかはその頃覚えたのだろう。

09_43②

  藤沢周平の「玄鳥(げんちょう)」の書き出しに、『「つばめが巣作りをはじめたと、杢平(もくへい)が申しております。いかがいたしましょうか」。路は夫の背に回って裃を着せかけながら、努めて軽い調子で話しかけた。「つばめ?」夫は前を向いたままで問い返した。長身だが肉のうすい背である。「あれは追い払ったはずではないか」「また、戻ってきたそうです」。「場所は同じところか」。「はい、門の軒下です」。「巣はこわせ」・・・わかりましたと路は言った。予想していた返事だったのでさほど落胆はしなかったが、それでも路は、このとき二羽のつばめが嬉嬉として鳴きかわす声が、鋭く頭の中にひびきわたったような気がした』(*1)とある。

  この「玄鳥」は、出奔した藩士を上意討ちの藩命を受けた3人が不意を突かれ失敗。生き残った曾根兵六は嘲笑されることになるが、実はこの兵六が冷淡・傲慢とも言える夫、人を見下す末次忠次郎の妻、路の淡い恋心の相手であった。兵六は下級武士だがやがてその責任を取らされることになると路は知った。路の父親は無外流の使い手。路は父の極意を兵六につたえ、生き伸びることを願う。「玄鳥」最後に『「杢平、来年つばめはこないでしょうね」「へい」今度は来ますまい」。曾根兵六も、だしぬけに巣を取り上げられたつばめのようだと路は思った。生死いずれにしてももはや二度と会うことができないだろうと思った』。(*1)もう戻ることのないつばめに路の恋心を託したのであろう。作品に生活感という現実味があり、どっぷりと遠い昔に引きずり込まれてしまう。

  また、同氏の『夜消える』(文春文庫)に「初つばめ」がある。女として言い知れぬ辛酸をなめ、弟を育てた“なみ”。その弟が表店の太物屋(D)に婿入りすると姉を訪ねてきたときの“なみ”の激情にいろを失う。羨望、諦め、つい“なみ”に共感してしまう。両者対面の直前、“なみ”の心はつばめの俊敏な飛翔にやすらいでいたのだが・・・

09_43③

 私にとって“つばめ”というと、「スマートな渡り鳥」「国鉄スワローズ”(現ヤクルトスワローズ)」そして“特急つばめ”だ。現在、「国鉄スワローズ」は超低空飛行で首位から15ゲーム差。土砂降りだ。“特急つばめ”は最新鋭のEF58型電気機関車にひかれ、最後尾に展望車がついた憧れの列車。2015年に廃止された「トワライトエクスプレス」にその面影が遺っていた。最近デビューした「トワイライトエクスプレス瑞風」も最後尾に展望車を持ち、昔の“特急つばめ”を彷彿させる。EF58型の車体色は「淡緑5号」というらしいが、今も鮮烈に記憶にある。この「淡緑5号」、和の色辞典で色合わせをしてみると感覚的には「草色(くさいろ)」に見え、“くすんでいるので他の色とのバランスがとりやすい”とある。また、時期は過ぎたが春の味、“草餅は邪気を払うという意味が込められている(*2)”との事。1956年、東海道線全線電化で既に戦後が終わり、“特急つばめ“が新たな日本を切り開こうとしたのだろうか。

 *1玄鳥   藤沢周平 文春文庫
  2和の色辞典 視覚デザイン研究所
  3 日本奥地紀行 イザベラ・バード 訳 高梨健吉
         平凡社ライブラリー 平凡社

写真
 A 鳥類の図鑑      小学館の学習百科事典4
 B 玄鳥カバー  藤沢周平 文春文庫
 C 鉄道 機関車と電車 小学館の学習百科事典11
 D 川崎呉服店の看板 「太物屋」
 E 「交流サロンぽすと」の裏庭
  明治11年、山形県金山町にイザベラ・バードが投宿し、『日本奥地紀行』(*3)に“険しい峰を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った”と紹介している。金山三峰が印象的で、100年かけてつくるという街並、白壁と切妻屋根に考え方の“ロマンチックさ”がある。「川崎呉服店」もその中の一角だ。私が特に時間をゆっくり過ごしたいところが「交流サロンぽすと」の裏庭。旧羽州街道沿いにそのたたづまいが待っている。

平成29.7月

2017.06.01 | 社長だより

社長だより vol.30

【続々、小さなこだわり】

 「キ」へんに春と書いて「椿」、同様に夏は「榎(えのき)」、そしてヒイラギを冬の木とみて「柊」(*1)、ここまでは出てくる。しかし、秋がでてこない。一瞬、「柿!」とひらめいた・・。漢和辞典で探したら「楸」がある。読みは“ひさぎ”で落葉高木の「あかめがしわ」のようだ。
 ついでに、東・西・南・北はどうだろうか。楠(くすのき)はわかる。その他書いてみると、 樹木ではないが棟(とう)、佐賀県の鳥栖の“栖(す)”までは出てくるが、北は皆目思いつかない。目を凝らして探したが無い。また、「キ」へんに上・下・左・右も探してみたがこちらは全滅だった。
 中国では読みは“ちん”で、「長く久しい」という意味に使い、花は日本でいう“センダン”を指しているとのこと。(*2)

椿

 椿は昔から春の さきがけの花とさ れている。
秋田では4月から 5月半ばにかけて 咲く。
 日当たりのいい藪椿は3月中頃には咲き始める。見た目は華やかだが、どことなくそそとした感じだ。その分、散るときは、山茶花などと違い花そのものが“ぼとっ”と落ちたり、茶色に色褪せて主張するところに好き嫌いがあるようだ。

 飯田蛇笏(いいだだこつ)に「花びらの 肉やはらかに 落ち椿」というのがある。意味は、“ぽたりと地に落ちたまま鮮やかな色を失っていないのが美しいのだ”(*3)という。そのような種類もあるが概して散り際に抒情は感じない・・。
 花をかたずけると決まって蟻がいる。ムクドリも来る。自分でも花を“ぷつっ”と引っ張ってなめると“おんこ”の実ほどではないがほのかな甘さはある。生前の父には、自宅を椿屋敷にしたいという夢があった。従妹は“おじさん、よその家から変わり種の枝をもらっては藪椿に接ぎ木をしていた”と言う。今晩はツバキ餅でも食べようか(*4)

能登山

 男鹿駅(旧船川駅)から車で約10分ぐらいだろうか。日本の渚100選「鵜の崎海岸」を左に見ながらほどなく、男鹿半島(*5)南西北端、海が目の前に迫るわずかな海岸にこんもりとした能登山が見えてくる。男鹿市「椿」集落だ。男鹿市教育委員会の案内板に「ヤブツバキが自生する北限地帯として、青森県の夏泊半島とともに国の天然記念物に指定されています。(告示  大正11年10月12日)」とある。対馬暖流に椿の実が流されてきたものだろうか。柳田翁は「青森の椿は“イタコ”が持ち込んだ」(*6)との説。対馬暖流は大間のマグロと同じで津軽海峡にも分岐しているので暖流説に軍配が上がるのでは・・。しかし、“イタコ”が雪に椿の花を見て人の復活を感じ椿の実を持ってきたことも容易に想像できる。
 高校の頃、この集落で夏合宿があり、能登山まで朝、片道20分の散歩をさせられた。また、能登山には「若い男女の椿伝説(*7)」がある。1804年、8月25日に菅江真澄も椿の浦を訪れている。その時も椿伝説があったのだろうか。周辺海岸にははっきりとした隆起の断層があり化石探しに夢中になったこともあった。今となれば懐かしい。

椿餅

*1・2・6 ことばの歳時記 金田一晴彦 「3月4日」 新潮文庫 新潮社
*3 ことばの歳時記 山本健吉 「椿」 文芸春秋
*4 椿餅 横手市K店 真っ白なもちっとした道明寺に光沢のある濃緑の葉。文句なく、うまい。平野庫太郎氏の漆黒の小ぶりな天目茶碗に入れて撮ってみた。“贅沢”だ。
*5 ジオパーク 男鹿市教育委員会 能登山案内板

男鹿半島・大潟ジオパーク

 半島全体が国定公園に指定されているが、「男鹿半島・大潟ジオパーク」にも指定されている。西海岸は目もくらむような絶壁の連続で、クロダイ釣のメッカと言われる。また、北限のトラフグがとれるのでも有名だ。もちろん、“いけす”で下関に運ばれる。「男鹿半島・大潟ジオパーク」の成りたちは今から数万年も前のことらしい。能代の米代川と秋田の雄物川の砂が八郎潟を形づくり、今の形になったのは平安時代のようだ。男鹿半島北西には、噴火口に満々と水をためた国内では珍しいマール、一ノ目潟・二の目潟・三の目潟がある。あたりには静けさしかない。
*7 椿伝説(男鹿市教育委員会 能登山案内板)
  ・その昔、毎年男鹿の椿港から南の国に木材をはこんでいた若い船乗りが、村の娘と恋に落ちました
  ・必ず戻ると約束して別れてから3年が過ぎ、若者が死んでしまったと思いこんだ娘は、悲しみのあまり能登山から海に身を投げた
  ・4年目に村に帰ることができた若者は、娘の死を嘆き、お土産で持ってきたツバキの実を能登山にある娘の墓の周りに植えました。能登山は毎年春に花を咲かせ一面がツバキの花で覆われるようになりました

平成29.6月

2017.05.01 | 社長だより

社長だより vol.29

【続、小さなこだわり】

あんぱん比較

 それは思いがけない出会いであった。仙台の百貨店で諦め半分・冗談半分で聞いてみた。受付嬢の交代時間であったらしく年配の指導員らしい女性が “確認しますのでお待ちください”、と丁寧に応対してくれる。電話口で“酒種?・・・”と聞こえた。 “それそれ!”と思わず声を出してしまった。地下2階のエスカレーター左わきの棚を案内された。小走りにむかうと、そこに5個入れの見覚えのある小ぶりな「酒種5色あんパン」と「桜 酒種あんパン」の2袋が残っていた。雑踏のなかで親を待つふうであり、なんか場違いのようなスチール棚だ。しかも柱の陰にある。どう見てもメイン置き場ではない。意外な扱いだ。帰りの汽車の中で食べたかったが、大事に潰さないように持ち帰った。

「あんパン」の由来は安達巌の「明治天皇とあんパン*2」に詳しい。「パン」という言葉は種子島漂着で伝わったポルトガル語、K店のあんパンが有名ぐらいでそれ以上の知識はまったくなかった。同随筆には次のようにある

09_41②

 『・・復活のキッカケとなったのは安政の開国であるが、その強大な推進力となったのは、明治維新の合言葉である文明開化理念だった。しかし、西洋人の常食であるパンと肉乳卵食を日本人の生活に取り入れるためには、殺生禁断・肉食禁忌の仏教文化から、手直しをしてかからねばならなかった。・・妙なことからパン食の功徳が日本人社会に広がっていった。それはパンが江戸患いといわれた脚気の妙薬だということが分かったからである。しかし、この考え方が固定すれば、パンは病人食に限定されてしまう。そこでこの点を打開するために工夫されたのが、日本独特の酒種生地製のあんパンだったのである』と、由緒正しい。ぞんざいに“あんパンでも食うか”とも言えなくなった。さらに安達氏は、当時巷に流布していた『バカの番付表で、米穀くわずしてパンを好む日本人』などと守旧派の反撃があったこと、創業者の製造・販売苦労話、京都老舗の和菓子切り崩し、明治天皇侍従・山岡鉄舟のあんぱん献上策(明治844日献上)、など興味深く逸話を記している。

 念願かなってのほぼ20年ぶりの桜あんパン。その生地の豊饒な香りとかみごたえ。“やっと会えたな~!”しかし、帰宅してから面食らうことがあった。シールに「元祖酒種ぱん」とある。私は、パンは外来語なのでパンと書くべきとして、「あんぱんやアンパン」などの商品名は、いくら人だかりでも買わないことにしていた。このシールをみて、「正統あんパン派」としての自覚に揺るぎを感じてしまった。はて、どうつじつまをあわせたらいいものか・・。
 K店に聞けばすむことだが、思うに創業者として従来の饅頭の生地をパンに変え、日本にはなかったものを創ったとして、日本語で「あんぱん」と命名したのではないか。今の商標登録と考えると納得がゆく。ちなみに東京の友人にK店を調べてもらったら、“「酒種ぱん」以外は「菓子パン」となっているようだ”とのこと。とすれば、やはりK店以外は「あんパン」と書くのが「正当」ではないだろうか。

*1 写真上、左がスーパーなどでの市販のあんパン、右が今回求めたK店の桜あんパン(重さ50g、直径6.5センチ、高さ3センチ)、下はK店の桜あんぱん断面。塩漬けした桜を中心に埋め込んだ桜あんぱん。餡は“昔風”でびりっとくるような甘さではない。優しい餡だ。
*2 安達巌(いわお)の「明治天皇とあんパン」、文春文庫 巻頭随筆Ⅰ、文芸春秋社
*3 山形新聞4月2日、「暦の余白に」重松清。
    『あんパンの旬はいつの季節なのか。むろん四期を問わずに美味(うま)いのは大前提だが、本命は春ではないか。なにしろ、あんパンには桜の花の塩漬けのトッピングが定番なのだ。作家・吉行淳之介も同様の理由であんパンの「季」は春だとエッセイ書いていた・・・・』

春組集合!
   まんさく・ろうばい君早退、桜3姉妹:吉野さん・しだれさん少し遅れる、八重さん来月登校、福寿草さん転校。えびね君入院、お~いモクレンさん集合時間だよ!(切り絵)

09_41④

平成29.5月

2017.04.03 | 社長だより

社長だより vol.28

【小さなこだわり】 

 身体に違和感があると“すわっ!重大な前兆か?”と、もじもじ病院に行くと、“加齢ですよ”と言われて“むくれる”ことが多くなった。自分には関係ないと思っていた“人生の終わりが近づいているんですよ”、と告げられる加齢がやっと何者かわかりかけてきた。何かの拍子に“ふっと懐かしのラジオ番組を聞きたいな”と思うことも多くなった。これも加齢だろう。身辺整理をしなくてはと思いながら何も手につかないのも加齢、華麗なる変身まだできる!と思うのも加齢に間違いない。さらに、テレビに“ぶつぶつ文句”など加齢シンドロームはきりがない。

 就寝前、ふとんの中で文芸春秋巻頭随筆Ⅱを拾い読みしていたら、「啄木が仲人をした話*1」があった。金田一京助のお見合い話だ。盛岡でNHK「私の秘密」の公開放送があった時の話だそうだ。読む気になったのはあの渡辺紳一郎(*2)の名前にある。
 設定はこんな具合だ。取材先は金田一京助先生80歳、弟子:渡辺紳一郎60歳。お見合いの場所:若竹という寄席。時は十二月の寒い日。仲人は石川啄木。「先生がすらすらと語ったのではなく、巧みな私(弟子)の合いの手につられて、ポツリポツリをつなぎあわせたもの*3」

 「青年文学士金田一京助さんは東大の助手、女性恐怖症ともいうべき仁であったらしい・・。啄木がしきりに結婚を進める・・寄席で見合いということに決まる。・・入口に近いところに陣取り火鉢を囲んで待った・・来た来たと啄木が言う・・金田一文学士は恥ずかしくて、火鉢をいじって下ばかり見ていた。啄木が見なさいというので金田一さん顔をあげて指さすほう、かぶり付きをみるとそれは後姿しか見えない。金田一さん、それも恥ずかしくて灰ばかりいじくる、しばらくして、啄木が帰る帰る。早く見なさいとささやく。金田一さん清水の舞台を飛び下りる覚悟で顔をあげると(ここで渡辺さん笑わないで、と金田一さん赤くなる)・・それがなんと何十ぺん、何百ぺんも見たお嬢さんだったんですよ*4」、かくして、ほどなく婚姻となり長男晴彦氏が誕生することとなったようだ。

 もしかしたら、関係者の随筆がまだあるのでは?と早朝の出張を気にしながら読んだ。やはりなかった。翌日帰宅後本棚の巻頭随筆Ⅰをみた。なんと目次に「金田一晴彦氏」の名があるではないか。題名は『恋文のお返し』。ときめきを感じた。しかし、こちらは残念ながら旧制中学時代の秘められた一途な恋のようだ。(お相手は懐かしの童謡歌手、安西愛子さんとか)父は初恋成就、長男春彦氏、失恋か?と言っても、“文四郎とおふく”のような忍苦に翻弄された恋ではない。言語学者が噂に反論し、出征するまでの真相を述べたもので、同氏の生真面目さが伝わってくる。

再建された緑風荘

 この「巻頭随筆Ⅰ」編の他の随筆を読んでちょっと気になることがあった。ある方の「金田一温泉*5」に入浴の話が載っている。当然文章ではない。「金田一」へのルビだ。“きんだいち”、とある。家内と(座敷童の宿が焼失して間もなく)金田一温泉に向った時のこと。町に入って「第一村人(五十歳前ぐらいのショートカットの女性)」に“きんだいち温泉にはどうゆけばいいですか?と聞いたら、“きんたいち”と呼び直される心地よい出来事があった。それ以来私は“きんたいち”と、妙に気取っている。秋田でも昔、同じようなことがあった。日本海側の山形県境に「にかほ市」(旧、仁賀保町)がある。私が三十歳代の時二回り年上の方が、「にかぼ」と呼んでいた。私もそれ以来真似をして「にかぼ」と呼んできた“実績”がある。いちいちルビに目くじらを立てることもないだろう。

*1・3・4 「啄木が仲人をした話」 渡辺紳一郎、文春文庫 巻頭随筆Ⅱ 編者 文芸春秋 文芸春秋社
  2 渡辺紳一郎 『NHK私の秘密』 のレギュラー回答者。出演者は渡辺紳一郎・徳川夢声・藤浦洸・高橋桂三アナウンサー他。
視聴者からの難問・奇問に応えるというラジオ番組だった。渡辺紳一郎は藤浦洸とは正反対でモソモソ話すのだが、何とも言えない穏やかな話しぶりで子供ながら“心許せる”おじちゃん、藤浦洸は隣の元気な兄ちゃん、徳川夢声は当代きっての朗読家、時代物が最高だったが、オーソン・ウエルズもの、火星人来襲!もよかった。高橋恵三の「事実は小説より奇なりともうしまして・・・」の決めぜりふも忘れられない。
どの回答者の個性も目に見え、話し声もはっきりと残る忘れられない番組だった
  5 金田一温泉(IGRいわて銀河鉄道 金田一温泉駅と観光案内図)

金田一温泉駅と観光案内図

平成29.4月

2017.03.01 | 社長だより

社長だより vol.27

【小野のふるさと その3】

  “「百人一首」は藤原定家という一世の歌の大家が、百人の歌人の歌を一つずつ集めたものだが、この言い方はおかしいようだ・・百人の歌人が一堂に集まり、「僧正遍照、お前は初めの五句を考えろ、おれ、業平が次を作るから。字は小野小町に書かせろ」、というぐあいにして一つの歌を作りだした、という意味になりそうだ・・「百人一首」は「百人百首」といった方が、理屈にあった言い方ではないか?*1”、と、金田一晴彦氏。そういわれればその通りだな~。

小町絵

 小野小町の伝説は全国に実に多い。“花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に”と百人一首にあるが、三十六歌仙に数えられた知性と美貌を兼ね備えた平安の美人(小町絵*2)。その出生は秋田が担っていることを改めて菅江真澄遊覧記で得心した。真澄にとって小野小町の旧跡を訪ねることはかねてからの望みであったようで、日記に一人の人・一つの地名も含め今まで読んできた中では随一のボリュウムで記されている。

09_39②

  天明五年(1785)“42日、天気はよいが風が冷ややかので、重い冬の衣をいくつも重ねて着た。いつになったらこの衣が脱げるのだろう。まだ花が咲かないで花の香りにそまない袂なので、まして春のなごりをおもえないのも当然である*3。”414日、真澄は小野小町の古跡を尋ねようと湯沢をたち、小野村で三十八代続く金庭山覚厳院(のちに熊谷神社を再建をする)の住職などから濃密に残るその出生などを聴いている。“取材”は憧れの人への想いだろうか。そんなことを思い浮かべ、古跡巡りをすると頭巾をかぶった真澄の後姿がみえてくる。   
  小野地区には、古戸(小町の母の墓)、走明神(小町の父良実の氏神)、桐ノ木田(小町誕生の地)、小町清水(小町姿見の地)、熊野神社(良実の建立で小町の詠んだ歌を奉じ和歌堂とも言われる)、平城跡(深草少将居城)、御返事橋(少将が恋文を送りその返事を待っていた場所)、桐善寺(良実の菩提寺)岩屋洞(小町臨終の場所:自作の自像が現存)など数々の遺跡が残る。

「出生」は出羽の郡司小野良実と郷士松田治朗左衛門の娘大町子とのあいだに生まれたという。“はっきりしないことであるが、小町姫は鹿のうんだ子であるという。そのわけは、良実に、この世にないほどの美しい女が通ってきていたが、その女ははらんで産み落としたのち、鹿の形を現わしたとも言い伝える*4”
「雨乞い小町」“小町姫は九つの年(十三歳とも言われる)に都に上り、また年頃になってからこの国に来て植えられた芍薬というのが田の中の小高い所にあります・・これは九十九本あって花の色はうす紅で、他の芍薬とはいささか異なるという・・枝葉をほんのわずか折っても、たちまち空がかきくもりやがて雨が降ります。まことに雨乞い小町でしょうと語った*5”と、ある。

09_39③


「二ッ森」は“小町が在世のとき、深草少将の塚を築かせ、自らの塚も前もってこの塚に並べて作らせて、わたくしが世を去ったなら、必ずここに埋めるようにと言い残して亡くなった*6”という(見ずらいが写真手前が二ッ森の遠景、左が女森・右男森)
「岩屋洞」“岩屋というところに老いてから小町がしばらく住んでいたと語り、また、聞き伝えられる歌として「有無の身やちらで根に入る八十島の霜のふすまのおもくとぢぬる」、これは小野小町が詠んだものである*7”、と。(この付近雄物川が流れ氾濫して多くの小島があったという)

  「小野のふるさと」の終盤に“小町の締めくくり”と言えるような印象的な記述がある。
426日、“はなだ色(うすいあい色)の布を厚くさして着た、たいそう清らかな女が老女にともなわれて行くのは、小野(雄勝町)の人である。ああ美しい女だと人々は見守っていた。小町姫のゆかりが残って、むかしから今に至るまで、小野村にはよい女がでてくるとは聞いていたが、これほどの美女は世にあるまいと・・*8”
この後、29日に真澄は北へ旅立ち、秋田へは享和元年(1801)に再訪することとなる。小野村のすぐ北にあるブランドの“三関のせり*9”、真澄は鍋物で舌ずつみをうって出立しただろうか。

1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(17721781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。隠れた名品そのものだ。

平成29.3月

2017.02.01 | 社長だより

社長だより vol.26

【小野のふるさと その2】

09_38①

 菅江真澄遊覧記には西行法師がたびたび登場するが、『小野のふるさと(178511日~429日)』では1回だけ215日にその名がある。“釈迦入滅の日なので、(柳田村周辺の)御寺という御寺に門も狭いほど人々が詣でた。「花のもとにて春しなん」と、西行法師が誦したのもこの日ごろである*1”、と。この215日が西行忌である。入寂したのは文治六年(1190)といわれているから今から8百年以上も前のこと。当然だが、真澄はこのことを知っていたことになる。また、西行は遊覧記にあるように“「願わくは花の下にて春しなんその如月の望月(もちづき)のころ」と詠んでおり、ピタリとその日に往生してみせた*2”、と言われている。ちなみに兼好忌も215日。徒然草に“40歳に達しないうちに死ぬのがいい”とあるが、六十九歳で生涯を終えている。う~ん難しい・・。

十分一御番所跡写真


 日記の順序とは逆になるが、天正五年、415日、「銀を掘る山をみに出掛けようと、院内というところに泊った。流れる川を桂川という。水上は雄勝峠で、最上郡に下って行く陰から落ちてくるのだという*3」。実は雄物川源流の案内図など本拙稿へ写真を撮ってきたのだが、誤ってほとんど削除してしまった。銀山に関する写真はこの一枚しか残っていない。
 「まだふもとまで雪が積もっていたので歩いていると肌寒かった。この山の由来を尋ねると、関ヶ原の戦に敗れ、・・小野の縁者を訪ねてきた村山宗兵衛という人の夢に、神が金鉱のありかを告げられたことを手掛かりとして、長倉山を越えて谷深くたずねいると見た夢と少しも違わなかった。これは恐れ多い神示であったと人々にも語り、工夫を大勢連れてきて慶長十年(1605)に開けた銀山である、・・石を打ち砕いて銀をとる金槌の音がこだまし、山に響いていた*4」、と。慶長十七年に佐竹藩領となるが、写真は最盛期の十分一御番所跡(じゅうぶんのいちごばんしょあと*5)で、往時の活況がうかがい知れる。

 高校同期会、「39会報*5」最新号に秋田市在住のS氏が院内銀山をパワースポットの一つとして同好会で出かけたことを記してあった。その時は“工夫の命・廃坑?”程度であったが、実際に銀山跡地で背筋がぞっとした。国道13号線院内新バイパスをやり過ごし、ほどなく108号線に折れ、道路右側に銀山跡地入口案内がある。車1台がやっと走れるうっそうとした杉林を登って間もなく、右側の急峻な山肌を切り取ったような、間口50m×奥行き30mぐらいのところに数知れない墓標。その日はたまたま大雪が降った後だったので、帽子をかぶって“全員”がこちらをじっとみつめる妖気漂いS氏の記事がピントきた。通り過ぎてバックミラーも見ることができなかった。

 最盛期の天保十三年(1842)には谷という谷は人家で埋まり、戸数4,000、人口15,000人まで膨れ上がり、久保田をしのぐ繁栄ぶりと言われた。銀の算出は月産375キロを連続11年、日本一の記録を保持した。小生が目にした墓標はごく一部の番所役人等であろう。過酷な重労働でたおれたり逃亡で極刑をうけた工夫の生きたあかしはない。大正10年に採鉱停止となり315年の歴史は彼らだけが知っている。日記で数多くのしき(坑道)が掘られ、鉱石を精製する過程や、工夫の作業歌など事細かに聴き取りをしていることがわかる。真澄は5月に横手に向い、角館・西木を通り阿仁銅山もみている。ここにも詳細にその選鉱のようすが記されている。

1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5 小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(1772~1781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。

平成29.2月

2017.01.06 | 社長だより

社長だより vol.25

【小野のふるさと その1】

地図

 菅江真澄遊覧記『小野のふるさと』の書き出しに、「出羽の国雄勝郡柳田村(湯沢市)で新年を迎えた。天明五年(1785)正月一日、初日のキラキラとさしのぼる光が雪の山に映えて美しくみわたされ・・家ごとに訪れて新年を祝い、挨拶をかわしていく人のことばも晴れやかである*1」と。菅江真澄が初めて経験するみちのくのお正月・七草粥・小正月などの習俗を日記に詳細に書いている。今も230年前とあまり変わらない感覚だ。

嫁入り道中、盆踊り

 前年929日に象潟を出発し、酒田街道(現国道7号線)を北上。翌日何故か秋田に向わず本荘から国道108号線、子吉川沿いを前郷・矢島を経て伏見から八塩山周辺そして七曲峠(と思う)をたどりながら湯沢を目指していたが、大雪の柳田村で年を越す。途中、西馬音内へは10月ながら既に大雪となった七曲峠に難渋しやっとの思いでたどり着く。(地図*2)写真上は七曲峠の五合目から見た西馬音内。冬準備もない足元。雪をこぎながら目に飛び込んだ突然の集落の煙には随分ほっとしただろう。
 この七曲峠では、1月最終土曜日に新婚カップルが馬そりに揺られる嫁入り道中が開催されている。また、西馬音内と言えば“盆踊り”。たき火の周りを端縫い(はぬい)衣装・半月型の編み笠で顔を隠した女性、彦三頭巾(ひこさずきん)の男性が地口(秋田音頭に似た即興のかけ歌)に合わせ、日本三大盆踊りの一つと言われる妖艶な踊りを夜が更けるまで繰りひろげる。庄内や象潟で手布(たんの)であごから頭上にかけて結び、眼だけだして歩くのをみて驚いていた真澄。彦三頭巾をみて何と書いていただろう。未発見の資料がどこかの肝いりの家に埋もれていないだろうか。
(写真右上:嫁入り道中、羽後町パンフレット、中下:昭和40年代の盆踊り、端縫い衣装と彦三頭巾、共に11年盆踊り公式ガイドブックより)

 『小野のふるさと』での期待は、なんといっても“小野小町と院内銀山”だ。不安もあるが、遠い昔から地元でどんな伝承があったのか、目だけがどんどん先に進む。しかし、天明の大飢饉で食糧難もあったはず。小野・院内へは雪も深く、約3か月柳田村に逗留。その中で聞き覚えのある岩崎(湯沢市)の石川氏に投宿したことを二回書いている。110日と36日だ。もしかしたら私の存じ上げている石川さんなのだろうか。黒塀の雪がとけ始めるころ、真澄も目にしたまんさくの花を見ながらお邪魔してみよう。歴史のあるご自宅だから何か遺墨・痕跡が残されているかもしれない。新たな発見へ俄然夢が膨らむ。

09_37④

*1・2・3 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」内田武志編訳 東洋文庫
   お正月:“・・鏡餅はどこにもあるが、栗、柿、干しわらび、ニシン、こぶ、五葉の松の枝を添えて先祖を祀るために、このようななまくさい魚もいとわず霊前、仏前にすえているのは上代からのしきたりがなお続いているものとして結構なことと思えた・・”
   七草粥:“・・六日の夕べ、・・声をあげて菜切り包丁でたたく声が、家ごとにどよめいていた。・・七草の粥は大体故郷のものと同じである・・”
   小正月:“・・またの年越しである。なにやかにやと小正月のよういをし、家の内外をはらいきよめる。・・門ごとに柳を指してあるのはこの土地の習わしであろう。今日は鳥追いだといって、しら粥に餅を入れて食べる。犬、猫、花、紅葉などいろいろな形にいろどった餅をつくり、わりこに入れて、子供たちが家ごとに配ってあるいていた・・”
    写真は切り絵による「福の字」のいろいろ。
 
家庭菜園の去年今年(こぞことし)
 例年通り見よう見まねで30種類以上の作付をした。
『人参・なす・さつまいも・じゃがいも・かぼちゃ・ピーマン・ゴーヤ・大根・菊』は不良。蕎麦は完敗だった。『玉ねぎ・にんにく・小玉スイカ・おくら・きぬさや・アスパラ・ささぎ・きゅうり・かぶ』は良、『ほうれん草・小松菜・トマト・キャベツ・白菜』はやや良。枝豆はよく食べた。毎年収穫後に来年こそは指導を受け作付けと気勢をあげるのだが家内とも一度も専門家の指導を受けたことはない。

 平成29.1月

2016.12.01 | 社長だより

社長だより vol.24

【象潟へ向かう その3 人それぞれ】

東京の知人から「変貌した象潟をもしも芭蕉が目の当たりにしたらどんな涙を流すのでしょうか」、さらに続けて「歴史は大きな単位で総括すべきなのでしょうが、ヒトのなせる技は弱者を泣かせてばかりのような気がします。軽挙妄動にはしらず、絶景に立ち止まる心のゆとりがあれば・・・」とご意見がありました。悠久な歴史の積み重ねは人々に何を託すのだろうか?(写真は蚶満寺境内の芭蕉と西施の石像)

蚶満寺境内の西施石像
蚶満寺境内の西施石像

西湖(中国浙江省杭州市)という名湖がある。「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」として、松島の冒頭に登場する。象潟は松島に相対させるように「江山水陸の風光数尽して」 と秋田県民にとって実に鼻が高い修辞な書き出しだ。また、東京の知人は上海駐在時代に西湖に足を運ぶたびに「西施」 に出会う揺らぎでときめいていたようです。「西施」は救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女として、芭蕉は松島に比べて『恨むがごとし』と象潟の風景に似通うものとして「象潟や 雨に西施がねぶの花」の句を遺している。(蚶満寺境内の「西施」説明を参照。また、句碑には「きさかたの雨や西施かねふの花」とあるが、曾良の旅日記もこの形でその後芭蕉が推敲して今の形に直したといわれる*1)

「西施」をおもう芭蕉を司馬遼太郎はこう書いている。「・・・花は羽毛に似、白に淡く紅をふくんで、薄明の美女をおもわせる。つかのまの合歓がかえって薄明を予感させるために、花はおぼろなほどに美しいのである。芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、西施の壮絶なうつくしさと憂いを思い、それをねぶの色に託しつつ合歓という漢語を使い、歴史を動かしたエロティシズムを表現した。・・・*2」
歴史を丹念に調べ上げ、足で確認しての考察には心がひらく。描き出された秋田県散歩を遺してもらってよかった。

象潟の景色
菅江真澄遊覧記の「秋田のかりね」にある芭蕉の名は、『冬枯れたねむの木のかたわらに「象かたの雨やせいしかねぶの花」と記しているのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。・・・』くらいだ。歌枕を巡った能因・西行への思いは感づるものの、「西施」や特に芭蕉を意識した風はみえない。象潟も各地と同じく九十九島の情景や住民の暮らしぶりを克明ともいえるように丹念な筆致とスケッチで残している。「行きかう人はアツシ(アイヌの着物)という蝦夷の島人が木の皮でおり、縫って作った短い衣を着て、小さい蝦夷刀(まきりという小刀である。蝦夷人はこれをエヒラという)を腰につけ、火うち袋をそなえていた。釣する漁師は、たぬの(手布である)に顔をつつみ、毛笠をかぶって、男女のけじめもわからず、あちこちに船を漕ぎめぐっていた*3」とある。9代藩主、佐竹義和(よしまさ)から藩命を受けて地誌編纂はわかるが、それ以前は何のため各地を巡り、その風俗・習慣を書き残したのか不思議だ。しかし、その多くの著作は重要文化財として秋田の宝物になっている。真澄が見たものと同じものに出会う静かな動悸はなんとも心地よい。この後、真澄は秋田に北上せず、本荘から西馬内を経て湯沢で冬籠りをしている。詳細な記述と相まってその行脚は謎が深まるばかりだ。

秋田の料理菓子

今年の会社発表会に秋田の料理菓子をお土産につかった。左から、雲平の丸鯛・餅の鶴・餡の亀。子供の頃、姿鯛であればどこをもらうかで一喜一憂したものだ。このほかのお祝い菓子に焼き菓子もあった。形は1種類で鯛だ。かじると歯が折れるような硬さに閉口したが、今は作る職人がいないそうだ・・・。

*1 おくのほそ道をたどる(下)井本農一 角川文庫
*2 街道をゆく二十九 司馬遼太郎 朝日新聞
*3 菅江真澄遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫