カテゴリー : 社長だより
社長だより vol.59
【身に入む(みにしむ)】
台風15号・19号の爪痕はただただ凄まじい限りで、被害に遭われた方には心からお見舞いを申し上げます。自然の仕返しなどとは思いたくもないが、「災害は忘れたころにやってくる」というのは昔の言葉になったかもしれない。次から次と襲ってくる『過去に経験したことのない』という気象庁の表現に体が強ばる。自然は嘲笑っているのではないだろうが、どうしたものだろう。
あの暑い夏が去って、過ごしやすい天候になると夜も長くなる。灯火親しむ侯となるのだが、特別読み残している小説を読むでもなく、母親が古毛糸で編んでくれたチョッキを着て、定番の粗大ごみ、“ごろっ”とよこになってテレビのチャンネルを回している。
チョッキは3枚あり、1枚はUさん、そして私と家内に遺された。女性用は腰までの長いものだ。三枚共ボタンが左前で女性向けである。着るときはいつも勝手が違うので着にくい。この頃はボタンを外さず、かぶることにしている。大きめに“だぶっと”編まれて着心地もよく、今の時期手ばなされない。毛玉もだいぶ目に付くようになった。
Uさんの夫君は元国語教師。早期退職して読書(と散歩)三昧の生活だ。月に1~2回は老々介護というわけでもないがご高齢の二人暮らしの様子見を兼ねて遊びに行く。いつお邪魔をしても“はい、どうぞ”と嫌な顔もせず歓待していただく。何かを相談するというのでもなく、“ガッコ漬けた”とか“草むしりをした”とか、ただ毎日の生活を話している。最近、Uさんは“腰が痛い”などを繰り返すようになった。その度に夫君は“それが歳をとったということ、嘆く必要もないよ”とさらっと返している。今まで何度か言われても聞き流していたせいもあるが、この頃“嘆く必要もない”を聞くと素直に腑に落ちるようになった。
このご夫婦、日常生活、買い物、旅行など一切飾ることをしない。会話でもお互い気兼ねなく喋っているように見える。ただ、Uさんは夫君とすれ違いがあるときは、“私はわたし、お父さんはおとうさん”が口癖なのでその時を察知したときは家内と話を聞くことに徹している。Uさんは最近耳が遠くなったせいか大きな声で話す。すれ違いの時も、そしてよく笑う。誠に羨ましい自然体である。
最近、夫君から身につまされるような話があった。いわゆる『断捨離』に話が及んだ時のこと。“死んでから残された人への思いやりで、生前に身の回りを整理しておく必要はない”というのだ。そして、重ねて言う。“死んでから自分がどうされようと分かる訳もなく、家族がやりやすいようにしてくれればいい。最近の断捨離が当たり前のような風潮には辟易する”という。
私もそう思うが、遺族への思いやりというのではない。ただ単に、身の回りの整理がつかず、ものに囲まれているような生活なので、大事なものはきちんと残すことが必要だと思うだけだ。淡々としたU夫妻を見て羨ましく、中途半端な自分に嫌気がさすときもある。この期に及んでだ。きっと日々の生活に素直に感謝する心がないからだろう。秋風は身に入むばかりだ。
令和元年.11月
社長だより vol.58
【つれづれに】
この頃、盛岡への行き来は国道46号線(仙岩道路)を通ることがほとんどだ。入社してすぐの社員慰安旅行で、工事中の46号線を横に見てつづら折りの国見峠を数台の社有車でつなぎ温泉に向かったことがある。頂上付近は霧が濃くて5メートルも離れれば声でやっとわかるぐらいであった。ブロッケン現象が起こるのではないかと思うような天候だったと思う。山頂は茫々としており周りを見る余裕もなく固まって写真を撮った気がする。手もかじかみ、当時の山の上の「峠の茶屋」で甘いおでんをほおばったことを通るたびに思い出す。
峠の紅葉はまだまだ早いが、もう2~3週間もすればこの深緑が杉を残し全山黄色くなるなんて信じられないほど見事に葉の一枚一枚を変葉させる。トンネルを出るたびにそのあるはずもない紅葉がもしかしたらと心がせく。この峠の一番の見ごたえのある所に大きく膨らんだ路肩がある。窓を開けると山の冷気が肌にいよいよ秋を知らせる。
「肌寒(はださむ)」という季語があるが、秋だけでなく例えば真夏に鍾乳洞に入って冷たさを感じた時など「肌寒い」と使える“万能季語”とも言える。金田一晴彦氏の『言葉の歳時記(新潮文庫)』に「肌寒」は“日中は汗ばむほどだが朝や晩はぐっと冷え込んで上衣がもう一枚ほしくなるような寒さ”と表現している。更に「そぞろ寒」と言えば、“秋になってそろそろ寒さが感じられるころ”、そして、「漸寒」という言葉が出てきた。“ややさむ”とふり仮名がある。“秋も終わりに近づいていよいよ寒さが厳しくなるころ”だそうだ。
朝、寝室の出窓の障子を開けるとヒヤッとした透明な冷気が流れ、思わず、“ぶるっ”とする。こうした秋の寒さのことを昔から使ってきた言葉として、「朝寒(あささむ)・夜寒(よさむ)」があるとして、歳時記に載っていた。同氏が言われるように、折々に“日本人の肌はそれだけ季節の移行に敏感である”と言えるのかもしれない。
また、秋と言えば、意味も分からず、“もののあわれ”や“心にしみる”などの言葉も出てくる。この二つの言葉に秋めいた意味はないと思うのだが、なぜか、秋の感傷を感ずる。“あわれ”と言うと、徒然草の第十九段に『折節の移りかはるこそ、もののあはれなれ もののあわれは秋こそ勝れと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて・・』 (角川文庫、ビギナーズ・クラシック、徒然草)とある。意訳では「四季の移り変わるようすは、何につけても心にしみるものがある。心にしみる味わいは秋が一番深い、と誰もが認めているらしい。それはそれで一理はあるが・・」と訳されている。理由はともかくとして、遠い昔から日本人は移り行く季節に何かの哀歓を感じてきたのだろう。
今年のマイ畑。カラス・鼠、犬に荒らされたが、二人で食べるには充分であった。白菜・キャベツ・ささげ・きゅうり・ナス・カボチャ・みょうが等よく食べた。収穫量は少なかったが人参は格別歯ごたえもありうまかった。今年デビュー野菜で見逃せないのは椎茸だ。昨年購入したほだ木に自分で駒を打ったものだが、肌寒くなってからよく出てくる。見逃して手のひら大になるものもあるが、厚肉で形のいいものは当然酒蒸しだ。
又、毎年作付けする小豆は不ぞろいで売り物にはならないが、約3.2キロの収穫ができた。外で篩の下に扇風機を置き、鞘のカスを吹き飛ばすのだが意外と効率がいい。部屋に戻って、虫眼鏡で虫食いや固そうな皴のよったもの、さらに腐って固まったものをえり分ける。ボケ防止で、左手でつまむ。なかなか面倒だが癖になる作業だ。今年の冬はいよいよ念願の自家製“本格水ようかん”、限界まで甘みを抑え、小豆の味を楽しむつもりだ。
令和元年.10月
社長だより vol.57
【秋の気配】
9月の古い呼び方は、長月(ながつき)だが、菊月とも言うそうだ。9月は30日あるが、他の奇数月、もちろん例外もあるが1日少ない。なのに長月だ。何となく秋の夜長を連想させるがその由来はわからない。このまま思い続けていればそのうち何かの文章に出て、にんまりと秘かな満足を味わうことだろう。
母親から日にちの多い月、少ない月を覚えるのに、“左のこぶしを上にして、第三関節を右から1月、次のへこみ(凹)を2月と順々に数えてゆくと左端が7月となる。そして折り返し、その7月を8月として右に数えると、でっぱり(凸)が長い月(31日)、へっこみは少ない月と分かる”、と教えられた。小学校の1・2年だったろう、テストの時などいろんなことに母親が出がけに忘れないようにと小指か薬指に赤い糸を結んだことを思い出す。先月、父の十三回忌に合わせて母の分も引っ張り法要を営んだ。

秋雨 今年は西日本を中心に、大変な豪雨に見舞われたが、当地は雨が少なかった。秋田の水がめ、玉川ダムの貯水率が27パーセント以下になり、放流制限がかかるという。又、戦時中玉川毒水の影響を受け、魚の棲まない湖となった日本一深い田沢湖は最低水位を超え、遊覧船の発着がままならないそうだ。
「篠突く雨(しのつくあめ)」という言葉がある。安藤広重の東海道53次『庄野』に傘をすぼめた浮世絵がある。見た感じ、驟雨(しゅうう)かなと思うが、「篠突く雨」は驟雨よりさらに猛烈な雨のようだ。春雨は、“濡れて帰ろう”、だが、秋雨はオホーツク海気団が控えているので濡れて帰る気にはならない。
かりのわたり 空も高くなると、「かりのわたり」がはじまる。シベリア・樺太・北海道・竜飛・十三湖・八郎潟・高清水の丘・新潟中越がわたりのコースの一つである。唱歌にある「さおになり かぎになり」が思わず口をついて出てくる。100羽ぐらいの大編隊もあれば、小ぶりの編隊もある。白鳥などもそうだがどうしてあんな形の編隊になるのだろう。時々先頭が交代しているように見える。声にならないが“頑張れよ”、と声をかける。しかし、夜中に飛来して鳴かれるのはなんともやるせない。布団の中で『雁風呂』を思い、目をつむる。
虫を聞く 朝起きて窓を開けるとひんやりした涼風が入ってくる。秋はそ知らぬふりして側に寄っていた。二度目の家には、よく、「すいっちょん」とか「コオロギ」が入りこんで気になって眠れないこともあった。子供時分、生け垣にろうそくを持ってキリギリスそっくりの「うまおい」とりに出かけ、腕によく擦り傷を作った。難儀をした割に直ぐに死んでしまい、かわいそうなことをした。やはり、虫の音は、秋草の根元ですだく声がいい。

萩 昨年、松島の瑞巌寺に参詣したおり、山門の奥まったところに小さな池があった。そのわきに萩が数株植えられていた。ふわっとまくようにしなだれている。朝の雨で露をしっとり包み、うら若き女性が涙をためているような風情にも見える。萩というと、「宮城野萩」、そして、あの『伊達騒動』が出てくる。秋の夜長に「樅木は残った」をもう一度読んでみようか。柄にもなく萩はそんな気にもさせる。
令和元年.9月
社長だより vol.56
【あるもんでね!】
秋田にはほぼ60歳後半以降の人が使う“あるもんでね”という言葉がある。例えば播種から、植え替え、追肥、水遣り・草とりと、丹精込め、あともう少しで、収穫というときに、何者かが根元から踏み倒しているような状況を見たとき、本人は声を失い、暫くして語気強く “ひでっ!あるもんでね!”と一気に吐き捨てる。その虚脱感は信頼した人との口論でやり場のなくなった焦燥感とも似通う。
昨年カラスの被害で全滅させられた「とうきび」。今年は対策に万全を尽くしていたつもりが右のような惨劇を繰り返してしまった。9本植えたので、2本ずつとして18本食べられると楽しみにしていた。同じ轍を踏まないように小屋風に柱を立て、天井も防鳥網で囲み、足りないところはテグスを張り巡らしていたのに、何故だ。家内の推測はこうだ。“防鳥網の下の部分を全部止めていなかったから、そこから侵入したのではないか”という。ということは、カラスは風が吹いてふわふわしたところを見つけ、片足で網をつまみ、頭から防鳥網をくぐり、“こんにちわ”と言って入ったということになる。はたしてそんな芸当がカラスにできるのだろうか。そして、出てくるときも“畑を荒らして、ごめんなさい。失礼します”と言って出てきたことになる。私は他に侵入した方法がないかと考えるのだが、推理小説大好き家内の言うことなので反論はかなり難しい。
これもマイ畑の本当に“あるもんでね”話。ことしは畑仲間から枝豆の生育が良くないと話が出る。私のところもなかなか芽が出ず、不揃いでおかしいなと思っていた。特に黒豆は全く音沙汰無し。こんなことはかつてない。そんな中で、家内は一畝だけ、一袋6百円もする枝豆を植えていた。背丈は高くはならないものの、実をびっしりつけて豆も太ってきていた。これはなんとかなるかもしれないと楽しみにしていたところ、数本残して全部なぎ倒されてしまった。家内は“ひどい”と絶句してしまった。これ、本当にカラスの仕業だろうか。大きそうな殻を引っ張ったために根元から倒されたのだと思う。よく見ると豆の殻が数個散らばっており、実に器用だと思うが、3つ豆が入った殻を脚でおさえ、端の豆の試し食いをしているのだ。一株試してダメだったら何も他の株まで倒したり、引き抜くようなことはしなくてもいいのではないかと思うのだが、それこそカラスの勝手でしょうか。本当に“あるもんでね”。大慌てで、土盛りをしてぐるっとネットで囲み水をたっぷりかけたが果たしてどうだろう。「とうきび」の倒し方を見ていると枝豆倒しはより簡単だったろう。
今年は、少雨のせいか鼠の被害も大きかった。カボチャは大半かじられ、慌てて収穫したがわかかった。もう少しだった。ジャガイモは掘り起こしていると、二十日鼠のような大きさの鼠が4匹も出てきた。足元を走ったので追いかけたがよたよた足で逃がしてしまった。結局のところかじられたのはレジ袋2枚分となった。“鼠、お前もか!あるもんでね” 今年は農家出身の父の13回忌。報告しておこう。
しかし、“あるもんでね”は、それなりにこれからの対応もできるが、過去にこの海域に活動の歴史があるから「自国の領土だ」と宣言している某国がある。これは“あるもんでね”に問答無用の理不尽さと嫌悪感が伴う。先人は「過ちて改めざる 是を過ちと謂う」といっているではないか。かの国も、自国ファーストという。あっちこっち突っついている。カラスに悪いではないか。更にかつて七つの海を制したポケットに手を突っ込んだ新手のカラスも出現した。これら新種のカラスは突然変異なのか遺伝子操作でできたのか、現代科学は解明できるだろうか。「今後の対応については予断をもって答えることは差し控えたい」と繰り返すカラスよ、周りは手強いぞ、頑張れ。
令和元年.8月
社長だより vol.55
【みょうが】

暑くなると食べたくなるのがそうめん。そして薬味にかかせないのがみょうが。マイ畑の両端っこに少しだけ、早生と真夏過ぎに食べるものを2種類植えている。今頃になると店頭にも並び、うちも早く出てこないかと待ち遠しくなる。しかし、今年は例年にないほどの少雨。水っけを好むみょうが、きっとマイ畑は遅いだろう。
4月末、草とりで、誤ってみょうがの芽を相当切ってしまった。あとで気づき、今年は食べられないかもしれないとがっかりしたが、その後、当たり前だが私の切ってしまったのは葉の部分とわかりほっとした。なにせ一昨年、とうもろこしの花の部分が実になるのだろうと思って本来実のなる脇芽を全部とってしまった私である。
みょうがは芽を食べると知っているが、ほかの野菜の姿とは全く違う。葉物でもない、実がなるものでもない、ましてや根菜でもない。この赤紫の芽は何とも言えぬ独特な形だ。“みょうが風”という固有のカテゴリーになるのだろうか。地べたから我もわれもとあちこちから出てくるが、他の目を意識せず、地べたで孤高を誇っている感がある。タイミングを逃すと花が咲いてしまう。嗅ぐと気抜けがしてガサガサするので頃合いを見はからって花の咲かないうちに摘む。酢漬けとか味噌漬けも悪くはないが、手を掛けずさっとゆがいておひたしかきざんで香味を楽しむ薬味が好きだ。
子供の頃、父にみょうがをあまり食べたら“バカ”になると教えられた。苦みとも言えない香味が子どもの脳に何か作用するのかと本当に思っていた時がある。また、ほかの野菜と比べたら屈託もなくただ出てきました的な姿が“バカ”にみえるせいなのか理由はわからないが父の言葉は今も心に残っている。
この“バカ”について、たまたま読んだ「水上勉の土を喰う日々」(新潮文庫)の7月の項に載っていた。少し長いが引用する。『昔、釈尊の弟子に周梨槃特(しゅりはんどく)という聖者があって、生まれつき物覚えが悪く、しかも物忘れする癖があった。自分の名前すら忘れることがあるので、首から名札をかけていたそうである。悟りを開くまで人一倍の苦行を摘んで世を去ったが、この聖者の墓地に生えた植物がみょうがであった』という。父はこのことを知らなかったろうが、さしずめ、独特の香味で何となく物覚えの悪い私がこれ以上悪くならないようにと思っていたのかもしれない。しかし、世の中、天才はほんの一握り、大器晩成とか遅咲きなどという苦労人は多くおり、その人たちを“バカ”という人はどこにもいない。ましてや流れに身を任せる私はなおさらだ。みょうがは世の中を知っている唯一の野菜だ。
今年は水掛が大変だったが、なす・きゅうり・かぶ・ほうれん草・きぬさやが一斉に食卓に並び始めた。特にかぶの千枚漬けや寒麹でつけたかぶときゅうりはほとんど私専用のようなもので小皿一杯ほとんど朝晩食べている。それにもまして食べたのが、白菜に千切りをした昆布とするめを入れ込みとろっとした漬物にはお世話になった。かぶは間もなく終わる。最後の白菜を収穫しよう。これでしばらく白菜の漬物にありつける。
さあー、今度はみょうがの番だ。そうめんのたれは単純に昆布のみをベースに、干しシイタケの味が前にでているものに限る。箸も持った。食べる準備はじゅうぶんにできている。太ることには目をつむろう。
令和元年.7月
社長だより vol.54
【障子張り替え】
田植えも終わったようだ。しかし、蛙の鳴き声がほとんど聞こえない。田圃はただ静かで、区画整理されて鈍く光るだけの風景になってしまった。定番の彼らの鳴き声は欠かせない。どうして彼らは数を減らしたのだろう。あれほどいたのに。田おこしを見ていると確かにトラクターの後をアオサギやらゴイサギが追いかける。カラスもいっきになって何かをついばんでいる。私が管理機で畑をおこす時も途端にカラスがついてくる。この時、蛙はまだ冬眠中、無理やりおこされるので、カラスにつかまらないよう土に埋めてやる。ほんの数年前まで代かきともなればゆりかもめみたいのが大挙して押し寄せていたが、この頃はほとんど見ることがない。
小学校5年の旅行は奥の細道で有名な象潟の蚶満寺であった。どこかの高い部屋から障子を開いて田植え後の九十九島を見たかすかな記憶があるが、ただの思いかもしれない。今も通り掛け、立ち寄るのだがあの部屋に上がって部屋からその風景を確かめたことはない。よく、雑誌の写真で、左右両側が真っ黒で半開きをした障子や襖に挟まれたのが庭という、あのお馴染みの風景よりはもっと開放感のある風景だったと思う。子供ながらここが入江の側にあった説明を受け信じられなかったことだろう。
これもはっきりした記憶でないが、修学旅行で桂離宮を見学したとき、どこかの書院の2階部分が障子でなかったかと思う。重厚さをいとも簡単に紙で軽快に見せる日本人の感覚のすばらしさ。そして明り取りや外気の遮断もできる優れものであり、直接風雨にもあたる和紙に我慢強い日本人を感じてしまう。
時代劇を見ていると畳もそうだが、障子や襖・欄間・書院が気になる。殺陣のシーンでは荒組障子だとしっくりくるが、殿様の書院での切り合いは外でやってほしい。また、100年200年の旧家の放送があると、もっと気になる。ただ間仕切りだけの障子でなく、贅を尽くした組子障子や縦繁障子・腰付障子が出てくるとそれこそ目が点になる。当時の家人がどんな暮らしでどんな作法で出入りしているのか想像するだけでもワクワクしてくる。
我が家は築40年だが、五城目の大工さんから建ててもらった。自分の間取りで何のとりえもないが、天井が一尺高いことと結構障子が多いことが特徴と言えるかもしれない。しかし、このことが仇となり、障子張り替えは後へ後へと先送り。今回は妻からとうとうダメ出しが出て職人に張替を依頼することとなった。それもそのはず、居間の障子はもう3年、冬のまきストーブのいぶりで煤けて明り取りどころではなかったのだ。
障子張りはどうゆうわけか私の仕事であった。小学校低学年から自然と私が張替をしていた。最初は弟とげんこつで思いっきり穴をあけたり、指を突っ込んだりしていたが、これは後で紙をはがす時きれいにはがせないことを知ってやめた。しかし、今、たまには指を突っ込んで昔を思い出している。
障子張りで難しいことは、古い紙をきれいにはがすことでもなく、糊の調合でもない。紙の幅をきちんとそろえて切ることにある。私は一枚ごとの裁断が面倒なのでつい10枚とかまとめて折ってカッターなどで切る。わかっているのだが長いのと短いのが出てきて紙を張った後の見栄えが悪くなる。カッターで揃えようとするがこれまた面倒で結局そのままになる。ともあれ、張替の後、霧吹きをかけて翌日、皴がなく、紙を指ではじいて、“ビーン”となれば少々のことは目をつむることにしている。しかし、折角の猫間障子は本来外の景色をみるためにあるのだが、廊下に物が散乱しているので4枚共開けたためしがない。
令和元年.6月
社長だより vol.53
【うれしいいただきもの】
3月初めに鶯の初鳴きを聞いた。立派な「ホー、ホケキョ」であった。そして4月7日につばめを見た。いつもだと田植えの時と思うが、今年は何かいいことがあるのかもしれない。つがいがよくぶつからいものだと思うほど急旋回急上昇を繰り返している。時折視界から消えるがきっと巣の点検でもしているのだろう。
巣というと、しばらくぶりでマイ畑に出掛けたら、カラスが去年と同じ場所に大きな巣を作っているではないか。ほぼ完成している。あわてて壊したのだが、1週間後また作り始めている。諦めさせるために近くの巣作り材料を集めて焼いた。というのも、昨年は相当に被害を被ったので今年こそはの思いをカラスに伝えたかったのだが彼らは分かっただろうか。それとも毎日見回りするわけでもないので今年も返り討ちか。
嬉しいことや悪いことはよく重なると言われるが、先日1日のうちでこんな嬉しいことが続いた。
その1
午後、プラントメーカーさんが来社されたのだが、この方はいつも東京の木村屋のあんパンをお土産に持参される。小ぶりだが酒種生地、しっとりやさしい味だ。今はやりのバターで胸焼けするだけのパンとは違う。今年150周年だそうだ。この歴史が味といってもいい。安達巌*が「餡餅の皮をパン生地に変え、これに小豆餡を包んで焼いたもの・・日本酒のもとを発酵源としているので日本酒の香りがありこれなら日本人社会に抵抗なく受け入れられること間違いなし」と書いている。また、来社される方のメール文章は和む言葉遣いをされる。私には一生かかっても真似できない。この方、まだ40歳そこそこ。どこでそのような心を身につけられたのだろうか。こうゆう方に社長になっていただきたいものだ。
その2
夕方早めに帰宅したら、家内が、向かいの奥さんが、“シイタケがとれた”と言って両手に余るほど持ってきてくれたと言う。当然、夕食にホイル焼きのシイタケが並んだ。私も昨年秋にほだぎを13本買って駒を打った。3本はなめこだ。今春はなると思って期待していたのだが、今のところその気配がない。暗いところにただおけばいい、なんてよこしまなところにはきっと出てこないのだろう。家内に“もっと榾木を買う”と言ったら、一蹴されてしまった。やはり向かいのご主人のような手入れができなければ了解は得られない。
その3
夕方、湯河原から冷蔵宅急便で筍が着いた。私の駄文にいつもさりげなくご批評をいただく方だ。ヒヤッとしている。大きいほうを縦に割り従姉へ、小さいほうは義兄に即配達することにした。家内は折角新鮮なのだから直ぐに煮るという。私はてっきりコメのとぎ汁かと思っていたら、以前から米ぬかを使っているとのこと。煮立っている匂いを嗅いでみたらあっさり作った豆乳とかホワイトソースのようだ。竹串が通れば後は一晩水にさらせばいいとのこと。翌日の味噌汁に早速出てきた。本当にサクサク感がある。家内が好きなのもわかる。
その4
筍と一緒に母がたの従姉から仙台の笹かまぼこと仙臺駄菓子も届いた。駄菓子も私の好物の一つ。同じような袋菓子もあるがありがたみが違う。機械でつくれば形も味も一緒。金太郎飴だ。しかし、手作り駄菓子には歴史や職人の息遣いを感じ、思わず見とれてしまう。駄菓子と言えばなんかレトロのイメージもあるが、いただくと懐かしさで美味しさがこってり倍増する。私は特に『ねじり』が好きだが、これは家内と意見が一致する。
*文芸春秋編 巻頭随筆 『明治天皇とあんパン』
令和元年.5月
社長だより vol.52
【待ち遠しい】
起きたら「はだれの雪」だった。“雪だよ”、“まだ降るんだね”と、短い会話。いつも通り新聞を読みながら二人の朝食。“4月の食べ物ってなんだっけ?”と聞いたら、 “筍”という。“まだ先でない?”と言ったら“もうすぐ店頭に並ぶよ”と明るい声。筍は確かに季節物だ。それも旬がかなり限られている。いくら今年は季節が早いと言っても早過ぎるのではないか、と思ったが、黙っていた。もし今店頭に出るとしたら、伊豆あたりの南向きの斜面にある孟宗竹だろう。家内は筍が大好きだ。米のとぎ汁でごぼごぼゆでているあの“ぷーん” という匂いが待ち遠しいようだ。
私はたいして筍が好きというほどでもないが筍料理は色々食べさせてもらっている。中でも短冊切りの筍と豆腐を3センチ角・厚さが1センチぐらいのものを油で揚げ、豚肉を入れて味噌あえしたものは大好きだ。子供たちもその味を記憶しているらしく、時期になれば送っているようだ。筍はしなっとしているがカリッとする歯触りを感ずるから妙だ。
子供のころ親に連れられ、汽車で東北線を上ると車窓によく竹林が見えた。秋田ではなかなか竹林というものを見ることがないのでその地域性というものをずっと感じていた。特に孟宗竹林はなかなか見当たらない。2か月に1~2回、二人で由利本荘市にある塩化物強温泉に浸かりに行く。その浴場は南向きだが、孟宗竹林の小山の斜面が間近かに迫っている。たまに差し込む光が竹林の揺れで湯船にキラキラ影を作っている。 湯船を独り占めにした時は日本画家になったり、時代劇の主役になったりゆっくり想いにひたっている。
入社して2~3年頃だったと思う。勤務後の楽しみ、二組で麻雀をしていた時、誰かが“明日筍狩りに行こう”と言った。回りも“行こう・行こう”となった。親戚に営林署の人がいたことを思い出し、電話をすると“案内するよ”と快諾。翌土曜日、3台の車に分乗し旧比内町にあった分署に向かった。全員にヘルメットを渡してくれ、いざ十和田のネマガリダケがり。専門家?の後ろをついて行くだけでいくらでも採れた。一応クマよけで鈴を渡されたが、昨今のようなクマ被害の心配もなかった。昼食でそのネマガリダケでの味噌汁。出汁も出て四十年たった今もこの舌にその旨さがしっかりと記憶されている。袋一杯の収穫で意気揚々全員帰途に就いた。
ところが、社長から大目玉を受けることとなった。前日の金曜日に鹿角から合流したS君が比内の直線道路でスピード違反の取締りにひかかってしまったのだ。出発時、大館に全員が集まることにしていた。しかし最後のS君が来ない、来ない。誰か迎えに行くか、そんな話をしているところにやっと来た。S君から説明を受けて、みんな“馬鹿だなー”と笑ったのだが、社長から“なぜ違反をするような運転をするのだ”と、全員が懇々と諭されたのだ。今でも筍というとこの一連の出来事が思い出される。S君は元気だろうか。
我家は、今白梅が満開。山菜にはまだ早いがゼンマイ・こごみ・たらの芽・わらび・山うど・あざみ等、土の声の合唱が聞こえてくる。今ではわらびを採るくらいしかできないが、深い雪の後出てくるのでいじらしい気持ちになる。家内はたらの芽を食べたいという。私は“ふーん”と相槌を打つが今ではなかなか手に入らない。たいしてうまいとは思わないが、秋に業者が枝を切り取り、促成栽培をしたものを買うことになる。なんかばからしくなる。私は“あざみ”の味噌汁が好きだ。待ち遠しい。
平成31.4月
社長だより vol.51
【芸術家と職人】
もうすぐ三月というのにまだ底冷えが残る昼前に、秋田県文化功労者、故平野庫太郎さんの回顧展にむかった。きっと2階ロビーの中央に展示されているのだろう。しばらくぶりの再会に心ときめかせて階段を上がった。しかし、どこにも回顧展の雰囲気もなく“開催日を間違えたか”と不安になりながらも進んでゆくと、その“回顧展があった“。まるで人目を避けるように、目立たないようひっそりと“展示”をしていた。派手なことを嫌う平野さんらしさともいえるが、友人と指導を受けた二人から「展示の配慮へ残念がる」意見があった。
展示品の中に、個人所蔵品として「油滴天目釉盃」があった。同種の杯は私の手元にもある。偶然の妙なのかわからないが、今まで見たこともないことのほか上品な“模様”なのでいつも小さな茶箪笥の中に見えるように置いてある。
案内パネルに解説があった。『鉄を多く含んだ黒色の釉薬を天目釉と言います。その中で表面の丸い形がまるで水に浮く油のように見えるものを油滴天目釉と言います。酸化焼成すると銀色になります。丸い斑点が出るようにするためには焼成温度が大事です。平野はこの油滴天目釉のことを『光の当たり具合で多彩な表情を見せてくれる』と話していました』とある。(パネル原文の通り)今改めて杯を手に取ると、作務衣で釉薬をかけたり窯を見ながら “どんな表情で出てくるかの一瞬が面白いんだよ”と彼一流のおしゃれさが呼び掛けてくるようだ。
作陶を依頼していた小ぶりの天目茶碗の約束はかなわなかったが、一度彼に聞いてみたかったことがあった。以前から“芸術家と職人の違いはどこにあるのか”というものであった。今となれば聞く由もないが、きっと“それを俺に聞くのか”と、いぶかしく思ったろう。私はその違いをずっと「鍛冶・大工など日常生活に密着したものを作るのが職人」ぐらいにしか感じていなかった。しかし、同じ職人でも秋田特産の銀線細工・川連漆器・組子細工などの一流品は繊細で心和ませる美術品だと思う。一方、音楽・絵画・陶芸などは芸術と言われる。生活のための仕事としてできればいいが、本来は自分自身のために何かをしなければ生きていられないという原点があると思う。“平野さん、芸術家は創造性・独創性で思いを巡らせる何かを表現することを目指し、職人は習熟された技術で最高の調度品を作る。その評価が美術品にもなりうると思いますが、どうでしょうか。ただ、創造性や独創性の評価基準は人により相当な差もあるでしょう。芸術家は生活ができればいいのですが、頼りはその人の信念というところでしょうか”。私は精々美術館巡りをし、彼らの思いや技を楽しむことにしよう。
秋田市の北に隣接する南秋田郡に五城目町がある。この町は古くから職人の町として知られている。建具とか鍛冶で有名だった。特に組子細工の衝立て・欄間、そして箪笥など指物に目を見張るものがある。一度五城目町役場で心惹かれる衝立に出会ったことがある。組子細工をよく見ると切子と切子の組み合わせ部分が斜めであっても寸分の違いもない。現代の名工、秋田県文化功労者 故小高重光(こたかしげのぶ)の『木を織る』という冊子に、 『光を通してみる組子細工の模様は見る角度によってさまざまに表情が変わる』とあった。
(写真は小高の組子4枚引き戸の一部、ニューヨークの展覧会に出品された花模様創作建具、昭和58年)
平成31.3月
社長だより vol.50
【Aさん】
先日、長野県のあるメーカーさんから、『「スノーモンキー」目当てでオーストラリアからバスツアーが来ています』とお話があった。バスを降り、わざわざ雪道を数キロも歩いての見学だそうだ。テレビでよく見るが雪がはらはらと降りしきる中、行儀よくみんな前を向き気持ちよさそうにじっと温泉につかっている。金時芋のような顔を一層赤くし、目をつむりうっとりしている姿に思わず顔もほころぶ。彼らは何分ぐらい入っているのだろう。出るときは毛が“ペタッ”としている。湯冷めをしないのだろうか。
私も結構温泉に行く。といっても数か所の町中スーパー銭湯の回数券を買っての入浴がほとんどだ。その中の一つを軸に土日・祭日を利用して畑仕事がなければ家内との気楽な温泉巡りをしている。ねらい目の温泉は、自動車道を利用してほぼ1時間圏内の「混まない」温泉だ。目下三か所ある。北に向かって概ね50分。かつて秋田の奥座敷と言われたところで、大きな湯船は湯量豊富かけ流し、肌つるつる強塩泉の湯。二か所目は日本海を右に見ながら南下して、小一時間。建て替えをした料金高めの温泉旅館。塩化物強温泉で切り傷に良いそうだ。露天風呂もきれいでほとんどいつも独り占めだ。三か所目は秋田から東へ1時間ちょっとの無色透明な湯を持つ小さな温泉宿。一昨年大水害に見舞われ、廃業かと思われたが、ボランティアの支えで立ち直った。無色透明な優しい温泉もいいのだが、特に玄関の戸棚に展示してある古い楢岡焼や佐竹さんからくだされた調度品が目を癒す。内蔵(うちぐら)には見逃せない陶器など多数あるようだ。何とか見せていただきたいものだ。
ところで、私が一番多く利用している町中温泉にかなり変わった人がいる。Aさん、としよう。歳は68・9ぐらいだろうか。五分刈りで色黒、中肉中背で切れ長の目。この浴場でのマナー指導係を自任しているようで、“使用した腰掛や桶を片づけ、足元の汚れをながすように周辺の人に熱心にご指導”をされている。
このAさん、風呂から上がって脱衣場に上がる足ふきマットのはじっこに、『3点セット』を必ず置く。最初に置くのがシェービングクリーム、次に頭マッサージイボイボ、最後がカミソリ。しかもマッサージイボイボ、剃刀の刃、どれもマットに直接触れるように置く。最初に見たときは“えっ”となったが、最近はこのルーチンにも慣れてしまった。しかし、先日初めて脱衣場での一部始終を見て“新たな発見”をした。湯上り時と同じあの足ふきマットに『3点セット』を並べ、さらにタオルも置いてから服を脱ぐのだ。さしもの私も驚いた。というのも、このAさん、洗い場に入ると腰掛と桶の表裏を徹底的に磨き上げてから使う人なのでなおさらだ。
しかし、ここまでは“変わった人だ”、で済むのだがムッとするルーチンもある。このAさん、湯船に入る時、湯口に真っすぐ向かい、混んでいようといまいと流れ出る湯で足腰・腕を入念にマッサージ、そのあと湯船を3往復するのだ。 「スノーモンキー」は静かに入っているのに、だいたい丸見えではないか。
という、私は“あの足の悪い白髪(しらが)男”、「もう少し丁寧に体を洗えないのだろうかとか、入ればすぐ上がる鳥こ(とりこ)男、前頭級出腹男」などと言われているだろうな~。お~、くわばらくわばら。
こんな話の後、なんですが、2月13日~3月31日、平成9年度秋田県芸術祭選奨を受賞した、故平野庫太郎さんの回顧展があります。場所は金足の秋田県立博物館です。お近くによられたらどうぞご覧ください。彼の深いしっとりした色調に心が遊びます。平成30年8月、その人柄を惜しまれながらまだまだ早い鬼籍入りでした。
*受賞作品解説より: 釣窯釉面取壷(きんようゆめんとりつぼ)
高度な芸術的表現を可能にした陶芸技術が繊細な優美で品格の高い世界を創出した。独特な釉調を端正な形に定着させるとともに、釉の効果を十分に発揮させた作品として高く評価された。
平成31.2月
社長だより vol.49
【守れない一年の計】
以前、友人から何かのはずみで、“お正月の色は?”と聞かれたことがあり、「真っ白な湯気の色」と言ったことがある。物心がついた時(昭和25年頃)、生家は土間で餅つきをしていた。当時、まだかまどがあり、年末はせいろで米を蒸かし、母親や叔母が、時折つまんでは、“まだだ!”とか、“もう、えべ!”などと忙しく立ち回っていた。せいろはよくテレビなどでみる丸型ではなく、がっしりした四角の木枠でできたもち米専用のせいろだった。石臼に目の粗い丈夫な蒸かし布ごと“どん”と入れると、もうもうとした湯気で土間が真っ白になる。父親が半殺しまで、“ふうふう”とこねる。子供ながら蒸かしたての米の匂いを思いっきり吸い込み幸せを感じていた。その頃から、湯気の色がお正月の色、というよりも、新年を迎える色になった。いつか、餅つきを再開したいと感傷に浸ってきたが、もう到底できる歳でもなくなった。我が家の餅つき行事は昭和38年ごろに途絶えた。
もう一つ忘れられない色に、『東雲色(しののめいろ)』がある。私にとって上京は“あけぼの”(ブルートレイン)が当たり前。大宮を通過する頃、東の空がしらばみ、やがて東雲色がどんどん濃くなる。この色も忘れられない。今、秋田港にブルートレインたちが集結している。皆でどこに向かおうとしているのだろう。
ところで、お正月、と聞けば「初日の出・年始・初詣・おとそ・おせち料理・書き初め・初夢」などいろんなしきたりみたいなものが格別な意味を持ったような面持ちになる。特段に変わる道理もないが、季節の移り変わりを大事にした祖先が節目節目に自然へ感謝してきたものが我々の生活に息づいてきたのであろう。その変わり種に「一年の計は元旦にあり」と言われるものがある。
昨年は『海坂藩の地図を作る』というものであったが、いつものことながら全然できなかった。まだ、時間もあると構えたが、この歳になれば時間も異様に速く進み、「2月頃に、『立花登 青春手控え』にはまったせいがあるかもしれない」などと、できない理由も食えなくなる。何せ布団での勉強。15分と持たず、頭では、“あの辻を曲がれば旅籠、番屋はあそこで、太物屋はここ”などと毎晩同じように下書きをしていた。NHK放映(12月21日)の「立花登 青春手控え」最終回、登とちえは言葉でない約束をした・・・。
今年は長年の夢、認知症予防を兼ねて、ピアノを習おうと秘かに思っている。子供が習っているのを聴いて、自分もやりたかったことを思い出す。しかし、節くれだった指をじっと見つめ、左右の指を一本おきに交互に動かしてみるがなんともぎこちない。鍵盤に指の番号を書いてもどうにもならないだろう。絡まるのも容易に想像がつき、数日後の挫折がみえる。トルコ行進曲?馬鹿なことを言うな!
これまで、運よく家内ともども若年性アルツハイマーにはならなかったようだ。できるならぽっくりと逝くまで認知症にならないのが目下の願い、そして私が先に待っている、これが理想だ。
長い間、主のいないピアノに向かう準備、調律はいいのか、などと心配をせず、いつもの通り緩やかに心構えを問い、先ずやってみるか!
“そうだ、ピアノにお供えをしていなかった・・・”
平成31.1月
社長だより vol.48
【確率】
“えっ、当たってる?まさか?”。早鐘のように心臓がドキドキする。“本当?”、息を詰めて『1等宝くじの番号』に紙を当て、新聞に照らし合わせ、左から一つづつずらして数字を確認してゆく。思わず“わー”と叫び、めまいがし、卒倒しそうになる。数日後、気持ちを落ち着かせ、もう一度確認して銀行へ乗り込む・・・
大暮(おおぐれ)は何かと気忙しいが、お正月をひかえ、何となくウキウキもする。その高揚させる一つに宝くじがある。雑踏の中で宝くじ売り場に出会うと、“これは神様の引きあわせだ。当たるかもしれない”と、かすかな幸運へ心が躍り、家内から白い目で見られながらもついつい連番20枚、バラ10枚などと買ってしまう。典型的な衝動買いだ。もちろん今まで300円以上のくじに当たったことはない。しかし、買ったその夜だけは、もし当たったら、『純数寄屋で建て直すか、しかし、この歳だ。好きな温泉場に引っ越ししようか』などと一瞬膨らんだ夢を見る。しかし直ぐに、『いやいや、まずは自宅で終末を迎えるために、訪問医師・看護師・介護士と相談しよう』などと、一気に現実に押し戻され、夢見ることさえ虚しくさせられる。
よく、高額当選くじが出ると噂がある売り場は、購買者が引きも切らない。果たして高額当選が多く出る売り場があるのだろうか。あるとすれば勿論その売り場に並ぶ。しかし、常識的に考えても1ユニット1000万枚に1等が1本、2等が5本とか言われているようだが、 特定の売り場に当たりくじが出るということはないはず。ただ、発売枚数が多い売り場であれば当選の確立が高くなるのは当然だろう。
滅多にテレビで抽選会をみることもないが、0から9までの数字が等間隔で割り付けられている円盤風車に音楽が終わると同時に“ビシッ・ビシッ“と矢が放たれ、“組番号、100の位、10の位、1の位、・・・”と左から順に発表されてゆく。かすったためしもない。冷静に考えると、当たる確率は一桁ごとに10分の1の確率であり、組番号も入れると9倍となる。1等1本だけでみれば実に1億分の1の確率?本当かな?車の登録ナンバーは自分で選べるが、宝くじのあたりは全くの人任せ。一喜一憂することもないほどの冷酷な確率であり、結果、否応なく「当りと外れ」しかないことに気づかされる。
帰宅した私に、家内が“テレビで聞いた”と明るい響き。“過去高額当選者の星座は、ふたご座、さそり座、みずがめ座、おとめ座だそうよ”、と。なんと、我が家の長男・長女・妻・私でどんぴしゃりだ!こんな偶然があったのだ。1等当選確率は複雑な確率計算になるが、なんだか高確率にみえてきた。しかし、冷や水も待っていた。“当選者の年代は60台、50代、そして40代の順”とのこと。「富久(とみきゅう)」や「芝浜」のようにうまくゆくはずもない。“いや、この際膨らんだ確率だ。信じてあの噂の売り場へ、大安の日を忘れずに買いに行こう!
平成30.12月
社長だより vol.47
【反省】
朝ごはんに昨日摘んだ菊のおひたしが出てきた。薄口醤油を少したらし、初物を味わった。酢を入れてさっと湯がくだけとのことだがサクサク感がたまらない。また、いつからかセリとも違う苦みにも虜になってしまった。間もなく“もってのほか(右写真の赤紫)”も咲きそうだ。当分楽しめる。
味噌汁は、里芋と豆腐と油揚げ。“ずずっ”と飲めば、とろみがなんともやさしく喉をくだる。じわっと染み込んでゆくような快感がそこにある。箸でつまむと、“さあ、食べてくれ、食べてくれ”と言わんばかりだ。芋だけでなく茎も入れてある。これは特に“とろとろ”で、逃げる茎をつまむのも楽しく、噛めば少しだけ歯にさわるが「生産者」が食べられる一品だ。これに茗荷(みょうが)を刻んで入れればよりすっきりした味に引き立ち、どこに出しても恥ずかしくない汁物になる。ついでだが、おひたしの脇に焼きニンニクもひとかけ添えてある。これは麹味噌(東由利の親戚から毎年いただく)をつけて食べるのだが、ほかほかご飯に少しのせて口に運ぶと舌が小躍りする。加えて定番の噛み応えのある黒豆やサンマの自家製佃煮で朝から食は進む。あとは今や遅しと『かぶの“がっこ”』を待っている。
子供時分、母親は年配の来客にお茶うけとしてよく菊とエゴのやまかけを出していたことを思い出す。エゴは夕食にも並ぶがあっさりした食感が大好きだ。今は高級品かな?父はその頃、種苗交換会につがいの「白色レグホン」を毎年出展していた。数週間前から羽をお湯で拭いたり、尾羽を「こて」で伸ばしたりと忙しかった。特に雄の口の下にあるトサカと同じ赤い、なんというのか垂れている周辺が黄ばんでいて一生懸命拭いていたことを思い出す。くちばしの周りが汚れるのは仕方ないのではと思うのだが、今となれば懐かしい。
秋田県種苗交換会は今年第141回めを迎える。農家の救済や農業振興に一生を捧げた石川理紀之助翁が34歳の時に創設したもの。県内の各市が持ち回りで開催する長い歴史と伝統を持つ農業祭典は全国でも珍しいのではないだろうか。稲作・野菜・花卉・果物と農作物全般の総合展示審査会だが、担い手不足・TPP協定など農業を取り巻く環境は様変わりをしている。今は鶏など家畜の展示はしていない。
理紀之助翁の実家は今年の甲子園を沸かせた金足農業高校のすぐそばにある、旧奈良家の別家。勝つたびに全身をうしろに反らす校歌の歌いだしが『♪可美しき郷(うましきさと) 我が金足・・・』。そして教育方針は理紀之助翁の「寝て居て人を起こすこと勿れ」で、その教訓が今も脈々と受け継がれていると聞く。
手入れを怠った“わが農園”、今年はさんざんであった。特にカラスに悩まされた。網はかけていたが、5センチぐらいになったきゅうりを引っ張り出し、私の腰かけまで持ってゆき、皮を残して食うとか、カボチャやメロンをくりぬくように食うとかは当たり前。特に悲惨だったのがトウモロコシ。明日、もぐかという時、人よりも丁寧に皮をむき実を一つ残さず全部やられた。20本ほぼ全滅。あるもんでない!枝豆もがっかりした。高級な品種の発芽は遅いと勝手に思い、一生懸命水遣りをしていた。しかし、とっくに芽をやられたことを知らずに水遣りをしていたのだ。アホウ・アホウ。鼠もひどかった。サツマ芋の半数は写真のような被害に遭った。来年はしっかりと対策をとるぞ!
平成30.11月
社長だより vol.46
【人違い】
先日、市内の総合病院でのこと。二階の廊下にある診察待合の長椅子に腰を下ろして間もなく、“コンドウヨシユキさん”と看護師が呼ぶ。“随分と早いな”と思いながら、「ハイ!」と腰を上げたところ、筋向かいの男性がすっと立ち上がり診察室に入ってゆく。“へえ、同姓同名か本当かな、ヨシユキはどう書くんだろう。こんなところで偶然があるんだなあ”と、コンドウヨシユキサンが座っていたところを見ながら目を閉じた。
『コンドウヨシユキさんは大柄で180センチはあるだろう、がっちりした体形だ。上下黒のジャージーに黄色のストライプ、白黒模様のNメーカーのスニーカー、歳は42・3位か、眼鏡はなく、顔は四角で眉毛は太く、髪は短い。パーマはかかっていない。何やら書類のようなものを持っていた。沈んだ感じで、話しかけにくい雰囲気もあり、その筋の人か、今日は非番なんだろうか』などと思いながらうとうとしてしまった。
先月、この総合病院の採血センターで聞き覚えのある名前が耳に入った。「〇〇キヨカツ」さん、“キヨさんだ”。私がまだまだ駆け出しのころ業界でお世話になった方だ。偶然同じ診療科のようで、同じ名前をまた聞いた。2回こんなことが続いた。2回目に悟られないようじっくりと“観察”した。七十半ば過ぎと見える。体つきも当時に似ており、何よりはにかむような表情に懐かしさを感じた。
私は当時この方から、『ナショナルのげんこつ』、2はつを入れた自作のスピーカを2台譲り受けていた。箱は20ミリのパーチクルボードで黄色い断熱材をぎっしり入れてあった。見てくれはともかく、音割れもせず、奥行きのある高音から重低音まで幅広く音色が伸びる優れもの。全体として柔らかい音色であり、感覚としてはダイヤトーンモニターの厚みにも劣らない20センチスピーカであった。
キヨさんの消息は当時の関係者に尋ねてもようとして知れなかった。“これは偶然のチャンスだ「キヨさん!」、そう呼びかければピンとくるはず”と思って声をかけてみた。「失礼ですが、キヨさんですか?」、キヨさんは何か怪訝な面持ちで「この前も来てだすな!」と私の顔を覗き込む。私も見られていたのだ。“キヨさんだ!”しかし、返答は意外。少し笑みを含んで「いや、違うよ」という。仕方なく、「ああそうですか、失礼しました」と謝り、じっと看護師の呼び出しを待った。“過去を聞かれたくないかもしれない”とそれっきりにした。ただ、そんなに間の悪そうな表情にも見えなかったので、あの時の“キヨさん”に間違いない。
2回も会えば単なる偶然とは思えない気もするが、長い人生から見ればそれほど低い確率ではないように思う。普段街で気づかずにすれ違っているのかもしれない。
そして昨日、同病院で嘘みたいなことに出会った。あの『コンドウヨシユキ』さんを会計で見つけた。服装も同じだ。これも偶然か。呼び名をじっと耳を凝らして聞いていたら “◇◇ドウヨシユキさん”と呼ぶではないか。“えっ”、「今の人、◇◇ドウヨシユキさん?」、思わず、窓口に確かめようとしたがやめた。これは同姓同名でなく、単に聞き違いのようだ。帰って電話帳で調べたら本名字はなく私も初めて出会う名字だった。
平成30.10月
社長だより vol.45
【うかつだった】
今年 4月20日過ぎにKHさんから葉書がきた。“あー、頑張っているんだな”と妙な安心感がかえって不安を募らせた。家内に“こんな葉書が届いたよ”とみせたら、“大丈夫かしら”と言う。彼の病状のことは以前から話してあるのできっと私と同じ思いだったのだろう。
葉書にある作陶二人展開催の当日、まだ準備中の彼を訪ねた。ガラス越しだがいっそう痩せたように見える。やがて外にいる私を見つけ、あの人なつこい目で恥ずかしそうに“来たか”と見ている。外に出てきた彼は黒のハットをかぶっていた。“今回はギャラリー個展をやめ、普段興味のない人にも気軽に見てもらいたくてウインドーショップ的なミニ展覧会にした”と言う。しかし、声に張りもなくいつものあの開催意欲を伝えられないもどかしさを感じた。
二人で店の前のベンチに座り、作品を見ながら彼は病状のことやら展示作品のことを話し始めた。私が制作依頼している「小ぶりの天目茶碗」に話が及んだ時、私の手を握り、“わかってる、わかっているよ、頑張る”、という。私は励ますつもりだったが、つい “今回の展示作品は華やかさがないな”と、うっかり言葉に出してしまった。彼から一瞬“そんなことはない”と、声にならない強い語気を感じた。私も慌てて、“深みが凄みに見える”と口ごもったが彼に届いたろうか。独特な釉調を端正な形に現す芸術家に対し、たとえ本音であったとしても、まして今使えるはずもない言葉であった。それにしてもうかつだった。
6月27日の朝にKHさんから『今日〇病院を退院です。次回から外来診療です。元気に頑張ります。ご心配をお掛けしております。ありがとうございました』とのメール。発信時間からして病院での朝食前、ベッドの上で書いたものだろう。私から、『おはようございます。いま千葉のホテルです。メールにKHさんの発信名、正直一瞬緊張しました。しかし、よかったですね。安心しました。そのうちに』、と返信した。
この「緊張」の言葉を使うのにはためらいがあった。正直、危ないのかと感じたからだ。というのは、5年前に四日市在住の二年先輩のWさんから携帯に、絞り出すような声で、“近藤さん、俺、今回はだめかもしれない”と言われ、翌日慌ててお見舞いに伺ったことがある。水も喉を通らない状態であったが意思そのものはしっかりしていた。帰秋して1週間、私の携帯にWさん名表示で電話があった。“えっ”、もしかしてと緊張しながら携帯を耳に当てた。やはりWさんではなかった。“父が亡くなりました。生前の秋田での暮らしが分かりませんので教えてくれませんか”という問い合わせであった。
8月8日、地方紙のお悔やみ欄でKHさんの訃報を知った。翌9日、顔写真入りでその業績が2段組みで大きく紹介された。そして、11日、同紙一面のコラムに “理想の街づくりを目指し、芸術文化を熱く語る真剣な表情が今も目に浮かぶ”と生前の活動が称えられた。葬儀には同期を始め、陶芸家・元教授を慕う多くの参列者が道半ばの終いを悼んだ。
時間がないと覚悟する人の気持ちを知悉(ちしつ)することはできない。メッセージを遺されたものにとっては当惑しかないが、責任を解かれるかもしれないことを悟れば強さになるのかもしれない。私にその覚悟ができるだろうか。近況を知りながら言葉を交わすことなく、メールでのやりとりが最後になってしまったことをただただ申し訳なく思う。
平成30.9月
社長だより vol.44
【父の書付け】
今年も“のうぜんかずら(凌霄花)”が咲いた。例年、『土崎の港まつり』が終わって7月下旬なのだが今年は1週間以上早い。来年十三回忌の父はこの花が好きで、秘かに孫の長女へ「桂子」と名づけたかったらしい。私もこの花は、嫌いではないが、花の落ち方にしっくりこず、父には悪いなと思いながら別の名をつけた。もっとも、父は“のうぜんかずら”の“かずら”を「桂(かつら)」と思い込んでいたふしがあるので、もし「桂子」と命名して後で長女に説明がつかず困ったことになったかもしれない。
父は几帳面な人だった。私からは想像もつかない性格だ。庭の草とりなどを見ていてもよくわかる。炎天下、年季の入った麦わら帽子をかぶり、座り込んで1センチにもならないような雑草を端から端まで根気よく抜いていた。よくそんなに丁寧に草とりができるもんだと呆れてもいた。だからと言って“手伝ったわけでもなかったし、自分の仕事あとを見ては真似できないな~”と、今朝、庭の草取りをしながらそんなことを思っていた。
庭の掃除や草取りに欠かせないものに「蚊取り線香」がある。父から昔「蚊やり線香」と聞いていたが、いつしか「蚊取り線香」になったとも聞いたことがある。昔の白黒映画にはよく登場する「蚊取り線香」。子供時分、窓という窓を開け放ち、畳の匂いを嗅ぎながらの昼寝。風上から流れてくる煙を見て頼りなさを感じたものだが、庭掃除には実にいい仕事ぶりだ。
先日、断捨離ではないが、父の身の回り品を整理していたところ、三回忌後の整理で処分したはずの“書付け”が目に入った。私への最後の申し送りだったのかもしれないこの書付け。また目にしてしまった。父が死んでからの身の回品などの処分、読んで用が済んだらすぐに捨てるか、灰にするのが本当なのかはわからないが、私には捨てられないものとして遺してあったのだろう。
親父が指に力を入れて書いたであろう書付け。私にこんな書付を遺せるだろうか。言われたことを実行し、まだ墓碑銘には両親の戒名しかないが、おっつけ親父に会って、“来たよ”ということになるだろう。まじめな父は“まだまだはやかったろう!”とたしなめるに違いない。父は全部整理をしてもらうことが希望であったかもしれないが、海軍時代の写真など簡単に灰にもできない。しかし、子供に後を託してもまごつくだけだろう。私が両親へ最後のおつとめをすることに越したことはないが、もしかしたら古いことに興味のある長女が後を継いでくれるかもしれない。
私は父に不満はなかったが、あまり話したことはなかった。それは母に対しても同じだ。日常の漠然とした事柄について話し合うという習慣がなかったせいかもしれない。ただ県外に出ていた時、数度、国鉄の安月給家庭に無心の葉書を送ったとき、近況を添え書きしたことがある。おそらくこんなことを書いていただろうことは容易に想像できる。いまとなれば赤面するが、三回忌後の整理ではその葉書はなかったのできちんと子供の恥は残さないようにしてくれたんであろう。今、凌霄花の朱色の花が咲くと決まって父のことを思い出す。お盆ももうすぐ、仏壇もきれいにして迎えよう。
平成30.8月
社長だより vol.43
【大いなる積み重ね】
午後11時半は過ぎていただろう。私は「一富士・二鷹・三茄子」 の語源を読みながら、珍しく燈りの付いた寝室で眠ってしまった。家内はまだ小説を読んでいた。ふと目が空き、手探りで枕もとの携帯を見たら午前1時23分。“へー、1・2・3並びか、こんな偶然もあるんだ”、と一瞬思ったがまた寝入ってしまった。
私は中学生になって両親から腕時計を贈られたが、2年ぐらいで机の中にしまいこんでしまった。それ以来、60年もの間腕時計をすることがなかった。といっても近年は携帯を肌身離さず持っているので腕時計と同じことか。時間に追われず仕事をしているなどと気取っているのも滑稽だ。今年になって、思い出したように1か月ほど還暦で亡くなった従兄の形見の音波時計をつけたが、やはり何か大事なものをなくすのではないかと気になり、今は食卓の上に飾っている。
高校・大学入試・入札など極めて大事な時間も腕時計なしで過ごしてきた。そのせいか、腹時計は意外と当たる。先日、早朝からマイ畑での“農作業”。携帯をなくせばと思い、車に置いているのだが、雑草取り、1時間も経つと疲れる。お日様もあがってくる。一服しながら、家内が“今、何時?”、私は即座に”7時40分ぐらいだよ”と言った。ほどなく車の時計を見た家内は、なにか不思議そうに一言、“当たってる”。それはそうだ。当たる理由は手品と同じで種がある。
汽笛だ。秋田港に苫小牧からフェリーの到着が午前7時半頃、新潟への出港が1時間後。7時、8時の時間さえ間違えなければ、海風にのって聞こえる汽笛に腹時計を合わせればいいだけのことなのである。偶然でもなく多少腹時計を考える程度だ。6時に出港する船もある。また、近くの秋田陸上自衛隊駐屯地の“起床ラッパ” も聞こえることがある。午後は学校のチャイムも聞こえるので時計代わりに事欠かない。勿論、これらの種は家内にバラしてはいない。
ただ、この頃時計を持たないことによって相当に無駄な時間を過ごしてきたのではと思うようになってきた。父親は旧海軍、連合艦隊旗艦『高雄』などに乗船していたと言う。出港時間には大変厳しいものがあったと、子供のころからよく聞かされていた。曰く、“集合には何があっても10分前には現地に到着していること”。これがトラウマというかごく当たり前のことなのだが、時間の約束だけは人にも冷たく当たってきたと思う。それだけに、概ね20~30分前の余裕現地到着が私のセオリーである。
しかし、仮に週2回の約束などがあれば、月8回で240分。年間では2,880分の待ち時間となり、丸々2日が無駄となる勘定だ。60年とすれば実に120日、4か月分である。実際はもっとあったろう。この時間をただ“ぼ~”と生きてきたわけではなく、もの思いのゆとりの時間と見ればいいのだろうが、この歳になると“もったいなかったな~”と感じる。
平成30.7月
社長だより vol.42
【ふたたび小さな疑問】
尺貫法は中学生の時廃止されたと思うが、今もってメートル法でしっくりこないものがいろいろある。特に面積や量的なものに多い。100 m2といっても3.3で割って、“ふーん30坪か”、100ℓは1升が1.8ℓだから、“50本ちょっとか”、となる。また、田畑での一反歩のイメージはあるが「アール」などが出てくると固まってしまう。換算は認知症防止にはいいのだろうが、いやはやピンと響く頭には程遠い。
拙宅近くの高清水小学校も今年140年、校歌に「山きよらかな 太平の そびえる姿 映しつつ・・・」とあり、作詞は秋田高校と同じく土井晩翠さんです。
秋田市のほぼ全域から見られるピラミッド型の『太平山』。深田久弥氏の名著「日本百名山」にはないが、山の深さや信仰の対象として山岳関係者は「日本三百名山」の一つにあげている。春夏秋冬異なる趣きをはっきりとみせる。高清水からも稜線がくっきりとよく見える。また、“マイ畑”からもピークが見える毎日の暮らしに欠かせない風景だ。
私はこの歳まで自分にずっと太平山は前岳・中岳・奥岳の総称だと思わせてきた。そっとしておきたかったが、“念のために調査”してみると手前から、前岳・中岳・鶴ケ岳・剣岳・宝蔵岳・弟子還り岳・太平山・旭岳とある。山連なりは当然知っているが、太平山への呼称、「3岳で太平山」はここに60年の思い込みの歴史が途切れることとなった。

しかし、私の本来の疑問は依然として未解決だ。その標高差にある。太平山の標高は1,171m、前岳は774m、どこから見てもこの標高差を感じられないのである。みた感じ、前岳は9合目、よく見て8合目ぐらいにしか見えない。写真上は秋田市外旭川から撮ったもの。前岳と太平山の標高差は約400m。写真下はもっと近づいて秋田市仁別からみたもの。(両方とも8時前後方向から見ているので中岳は見えない)いつも太平山を見るとこの標高差に悩まされている。400mの差といえば、優に男鹿半島の寒風山(377m)を凌ぐ。距離や見る位置(角度)からその差を感じさせないのだろうが、足も不自由になり、走破してこの疑問を解決・納得することは永遠にできなくなった。今となれば中学2年の夏、クラスの数人で前岳から奥岳まで縦走する計画があったが参加しなかった。なぜ参加しなかったのかがそもそもの疑問だ。
1812年7月16日、菅江真澄は「太平山(おろちのたけ)にのぼって、“居待ちの月(十七夜の月)を見ましょう。16日は月蝕があって月見にはふさわしくないので・・・”*」と、出発し19日に登頂している。翌年、晩春に再度秋田市仁別を訪れ、次の和歌を残している。
『花はいつ 桜のこずゑ 梅の苑(その) また夕凝(ゆうこ)りの 霜のおく山』。
一昨年まで仁別から『ザブーン』へのT字路角にこの和歌を記した「菅江真澄の道」の標柱があった。
(*菅江真澄遊覧記5、月のおろちね、内田武志:東洋文庫、平凡社)
平成30.6月
社長だより vol.41
【小さな疑問】
新青森駅発12時48分の「つがる4号」、進行方向左側の窓から春の陽光。うとうとしながら幾度となく通ったあの7号線(旧羽州街道)。飛ばしている自分を左右に見て秋田へ向かって南下する。右側にお岩木山の真っ白な三つのこぶもはっきり見える。広大なりんご畑、ところどころに剪定した枝を焼く薄い煙も見え、匂いも漂ってくるようだ。弘前では乗降客で結構ざわめく。
“つがる”は大鰐・碇ヶ関を過ぎ浅緑の山中をはしる。県境青森県側山あいの奥まったところに「湯の沢温泉」がある。どうやら混浴であったあの温泉、いま開いているのだろうか。この一帯はことのほか温泉の宝庫だ。赤い湯・白い湯・あったまる湯、私は特に「日影温泉」の優しい白い湯(陣場)が好きだ。長くつかって上気した顔に玄関前の沢風が硫黄の匂いとともに心地よい。
“つがる”は大館(早口)・鷹巣・二ツ井と天然秋田杉集積地の面影を残した駅構内を通り、やがて、東能代駅に到着する。“秋田駅からリゾート列車は必ず一旦東能代駅についてから、向きを逆にして絶景の日本海沿いを走るんだよな…。スイッチバックだよな~、東能代を通らずに五能線に入る線路はないよな~。明治?の木材運搬業者が鉄道に反対しなければ、方向転換はなかったはず”などと思い巡らして、またまどろむ。男性車掌は主要駅を通るたびにカチカチと乗客数を確かめている様だ。
三種町に入れば日本一の“じゅんさい”産地の沼があちこちに光っている。八竜メロンの定植は終わったろう。車内放送で間もなく森岳との案内。今は寂れているが能代の奥座敷的社交場・湯治場でもあった森岳温泉。M館の湯は無色透明でかけ流し、湯口から溢れる様に出てくるしょっぱい湯が自慢だ。秋田北ICから自動車道で約30分、特に入浴客に会わないラッキーな日は温泉独占で家内もニンマリご機嫌だ。
森岳を出てほどなく、一瞬オレンジと赤の流れる色とすれ違う。“あっ、クマゲラだ、クマゲラも五能線に入るには必ず東能代を通るはずだよな~”と、また、勾配のないスイッチバックを思い出してしまった。次に停車する駅は八郎潟。よそでは見られない「願人踊り(がんにんおどり)」がある。もう間もなく始まる。何とも愉快というか軽快な踊り、決して見逃すまい。この八郎潟駅から東側に車で約10分、朝市・鍛冶・建具職人の五城目町がある。 “奥羽本線が通らないのは能代と同じで木材運搬業者が鉄道に反対したためだよな~、今となれば鉄道が欲しいだろうな~”。五城目には薬効が高いといわれる「湯の越」の湯があるが、私は混雑を避け、もっと手前の高台にあるぬるっとした「小倉温泉」に入る。ここも独り占めのチャンスがある。
ここから秋田までは一飛び。到着は15時28分。杖をついてゆっくり出たら、カチカチ車掌にバッタり。意外に若く、眼鏡をかけた生真面目そうな感じ。思わず、“リゾート列車は東能代でスイッチバックですよね?”、“・・・のために最後尾を先頭にして五能線に入ります”と、丁寧な説明が返ってきた。間違いなかった。安心した。所要時間2時間40分、今度時間があったら五能線で帰ろう。

切絵の枝垂れ桜

我が家の菜園に作られたカラスの巣。
(壊さずに下におろした。直径約60センチ)
平成30.5月
社長だより vol.40
【ミソソ ミレド レミソミレ・・・】
日曜の朝、8時5分、NHK第一放送、『音楽の泉』はシューベルトの「楽興の時」で始まる。おなじみの声で、主題の旋律や演奏者の紹介。どこかで聞き覚えのある旋律が出てくると、途端に思い出への呼び水というのか、遠い人生へスイッチが入ってしまう。 よく知っている曲ともなれば気持ちが高揚する。そして深みのある解説はつとに心地よい。今の解説者は皆川達夫氏だが、いつになっても子供のころの「堀内敬三」さんのイメージが強い。
4月になり桜前線の等高線もずいぶんと上がってきた。もう少しで秋田にも届く。陽光に、つい、がらにもなく“春のうららの隅田川(花)、春の小川”がふっと口をつく。早春の卒業式では「仰げば尊し、蛍の光」などはとうになくなったろう。川沿いの桜並木に子供たちの歓声もモノクロ映画でしか見られなくなった。
春の付く、春を彷彿させる楽曲は数多くある。早春賦・おぼろ月・メンデルスゾーンの「春の歌」・ヴィヴァルディの「四季/春」・くるみ割り人形の「花のワルツ」、自然の中にゆったりと遊ばせる「田園」もその一つだろう。確か“春を愛する人は心清き人…”という歌もあったな~。
春はのどかな情景を思い出させるだけでなく、新天地に向かう役割も演じる。ドヴォルザークもその一人。50歳のころ、ボへミヤからアメリカに渡り、交響曲第九番【新世界より】を作曲している。全編にわたって、どこか懐かしい旋律の【新世界より】。特に広く知られている第2楽章の冒頭序奏後の「家路とか遠き山に日は落ちて」は教科書にも載っていた。 “♪ミソソ ミレド レミソミレ ミソソミレド レミレドド・・・”、遠き山に 日は落ちて 星は空をちりばめぬ・・”。作詞はあの堀内敬三さん、どこか哀歓を帯びたメロディにぴったりの歌詞だ。この部分は木管パート群右側で柔らかく落ち着いたイングリッシュホルンがソロで奏でている。ラールゴとあり、スラーがかかっているので滑らかにゆったりと流れる。この部分になるといつも決まって思うことがある。
それは指揮者がイングリッシュホルンをどうひかせようとしているのかだ。著名なオーケストラにはきら星のごとく凄腕のソリストたちがいる。指揮者の考えを無視して独り舞台とばかり演奏ということもあるのではないだろうか。協奏曲であれば、お互いの立ち位置ははっきりしているので、安心しているが、【新世界より】など独奏がある場合奏者がどう演奏するのか気になっている。
写真CDの指揮者はハンガリー動乱で西側に亡命したイシュトヴァン・ケルテス。オーケストラはあのウインフィル。イングリッシュホルンが歌い始めると、いつも“身構える”のだがその違いが分かるはずもない。ただ、ケルテスの緩やかな棒が民族の秘めた思いを支えているのだろうと感じるだけだ。やはり、楽員の心をつかんでいる指揮者あってのオーケストラだと思う。東欧の心をもった天才ケルテス。40歳過ぎ、道半ばでの突然の他界。生存していれば90歳前後だろうか。さぞかし名盤が遺ったろう。残念だ。
平成30.4月