カテゴリー : 社長だより
社長だより vol.35
【音・色・いろいろ】
♪雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る
雨は真珠か夜明の霧か それとも私の忍び泣き
舟は行く行く通り矢のはなを 濡れて帆あげた主の舟
ええ 舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨は降る降るひは薄曇る 舟は行く行く帆がかすむ
心のどこかに引っかかりのある『城が島の雨』。張りのあるテノールはもちろんだが繊細なソプラノもいい。目の前で聞くと、言葉の終わりに余韻が残る。歌詞・旋律、たまらない。私は新聞記者から転身した岡村喬生がひげの姿で朗々としたバスであの旋律を歌いあげるのが何とも心地よい。聞くたびにジーンと胸に沁みこんでくる。何度聞いても飽きることもない。
そして、この歌に出てくる「利休鼠(りきゅうねずみ)」の色も忘れられない色となった。以前から“きっとこんな感じの色だろうな”、という想いはあったものの、私が初めてこの色を目にしたのは確か昭和52、3年頃の6月の雨降りだったと思う。場所は東京駅。丸の内と八重洲の自由通路が工事改修の時。ちょうど通路の中間位、左右がコンパネ。カツカツと靴の音だけが響く雑踏の中に、一間四方位の色板6枚が丸の内に向かって左側に架けられていた。その中の一枚がこの「利休鼠」。仮名ふりがしてあった。“これが「利休鼠」か”、と目だけが追っていたことを思い出す。
「利休鼠」を“和の色辞典”(視覚デザイン研究所)で見ると、『緑みの灰。後世の人が、大茶人の千利休の名を勝手につけた色名、とある。利休の名がつく色名は、抹茶の連想から緑みがある。加茂川鼠・淀鼠(よどねず)・松葉鼠(まつばねず)と、緑みの灰色にバリエーションは多いが、利休鼠だけが突出して今日まで親しまれている。大茶人の効果か、役者色と並ぶいわばアイドル色といえる』とある。それ以来、文人の旧家や博物館でこの色を追っている。北原白秋にとっての「利休鼠」は、“侘びだとか寂だとかを通り越したきっとあの事件による失意のどん底の色”なんだろう。
この『城が島の雨』を“ラックス38FDでダイヤトーンモニターを鳴らす”、そんな夢のような組み合わせを1度だけ経験した。内視鏡メーカーの秋田の所長さん宅。白秋の三崎でのやるせない“失意の唸りの風景が”がみえたような気がした。昨今のノイズのない澄み渡る歯切れのいい音とは違う、いわゆる真空管(たま)の魅力。“本当の音(こころ)はこんなんだよー”と言っている。心がゆったりとした。
(「城が島の雨」は1913年、大正2年10月28日にできた、作曲は梁田貞)
平成29.11月
社長だより vol.34
【えっ!】
一面黄金色の田んぼの真ん中に我が家の菜園がある。風もなく豊饒な秋を迎えた夕方、畔の間に例の茶色の猫がいた。この畔が好きらしい。いつも目が合うとすぐ稲の中や草むらに姿を隠してしまうのだが、その日に限って逃げるそぶりも見せず黙ってこちらを見ていた。私も腰を下ろすことにした。
茶色と言ってもおなか半分上が薄茶で虎模様、おなかのあたりはずいぶんと痩せている、そして“小柄だが顔つきは大人だ”。近くの民家まではどちらを向いても1キロ以上はたっぷりある。会うたびに「家も遠く、野良猫だろうな、何喰っているんだろう、野ネズミか蛙あるいは雲雀ぐらいだろうな」、と気にはなっていた。ちぎれたザリガニの足を時々みるが、これはカラスだろう。
この日の茶色の猫、私の前でゆうゆうと毛づくろいを始めた。『吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ』という有名な小説の冒頭がある。“何してる?”知らんぷりで、足をなめたかと思えば、おなかをなめる。まるで飼い猫のようにのんびりとしている。というより私にしらんぷりだ。“邪魔をしないでくれよ“とでも言っているみたいだ。空を見ると童話にあるような綿のような雲が浮かんでいる。
今年も秋のお彼岸がやってきた。周りで稲刈りも始まった。秋の陽に雪が降ってきたようにトンボの羽がきらきら光っている。数を減らしたといわれるスズメもこんなにいたのかを思うほど群れている。ムクドリの群舞のように上下左右に隊列をなしてというのではない。いかにもいたずら小僧が悪戯をしているようなもので、人を見て“わー”と慌てて飛び立つようなものだ。だから、ずっと群舞を見ているということもない。
“名前もわからない茶色の猫。何を思っているのだろう・・・・・さてこの後なんと書こう。有名な小説では猫が三馬(さんま)を盗んだよな”とか、“見物している人間を描こうか”とか思いながらパソコンの手を止めた。その時だ。左に時計とかペン立があるのだが”えっ”と思わず声が出てしまった。黒豆が出てきたのだ。写真を見ていただこう。左は収穫には早いと思っていた黒豆だ。それが1週間もしないうちに右のように立派な黒豆になっているではないか。一体こんなことってあるのか。テーブルの向かいで切り絵をしている家内も、“小豆もそうなんじゃない、からっからにならなくてもいいんじゃない“と。
去年の小豆、黒豆同様今もおいしく食卓に出るが、収穫では二人は結構難儀をしていた。茎は細く自立は到底できず、雨が降るたびに鞘が地面につかないように起こして枯れた順に取っていた。地面に長くついていると虫が入るのだ。もし、少し枯れたぐらいで収穫できるのであれば被害は最小限で済む。私の“検査”も大いに簡略化されるというものだ。今度の土曜日試してみよう。
新米の半殺し、小ぶりな粒あんのおはぎ、とったばかりの小豆はやわらかい。楽しみだな~。『日本海』が現役のころ、関西からの帰り、京都へ一電車先乗りし、駅デパートで老舗の「ゴマ・きなこ・あんこ」のおはぎを買い求め、あのブルートレインをワクワクしながらお出迎えをしたものだ。先ごろ偶然東京のデパートでこのおはぎを見つけ美味しくいただいた。
“ところであの茶色の猫、どうなった?”
平成29.10月
社長だより vol.33
【イチジクの思い出】
「あっ、イチジクがなった」。挿し木してから3年目で実がなった。苗木が届いたときは、ただの30センチぐらいの棒切れ、本当に実がなるのか半信半疑であった。冬を越して1年目、あのグローブのような5裂の葉が出てきた。実がなる?しかしダメ。翌年も葉が落ち、寒さで死んでしまったと思い、切ろうかと思った。しかし、せっかくだからこのままにしておこう、とほっぽらかした。そして今年、お盆過ぎて見つけた。実がなっている!雨の中、“ありがとう”、ずぶ濡れで周辺の草刈りをした。
イチジクには苦い思い出がある。小学校5年の時だったと思う。国鉄土崎工場近くにあった珠算教室に通ってた時のこと。前の組が遅くなり、後の組の生徒たちで教室の前庭にあったイチジクを食べたことがあった。仲間外れも嫌なので食べた。数日後、実行犯として連座したが主犯より厳しいおしかりを受けることとなり、父親に連れられ謝ることとあいなった。先生は、出口さんと言い、目の大きな方で秋田市役所の職員であった。特に読み上げ算の声はどんな会場でも隅々まで響き渡るような素晴らしいバリトンの持ち主であった。いろんな大会に出ても出口先生のような声に出会ったことはなく、誇らしい先生であった。イチジクを見るといつもほろ苦く、そして出口先生のことを思い出す。
私はあの事件以来生食は苦手となった。イチジクを植えたのは、家内ともども甘露煮が食べたくてだ。甘露煮は由利地方が有名だ。自分で買うことはないが、お隣のお土産的なお菓子で、いただくと思わず“わー、イチジク”、そんな主張がある甘露煮。さらりと気の置けない手土産だ。生食にはないあの酸味が甘みを引き締めるのだが、最近は洗練された感じだ。一昨年七回忌だった母の甘露煮はアルマイト鍋でぐつぐつ煮詰めていたが、「かすべ」煮と同じで、柔らかであったり、硬かったりで、今は何となく懐かしい。友人からいただくのもいいが、味は“うーん”だ。そんなこともあって、やはり自家製が一番。5年前、家庭菜園を購入して長年の夢を果たした?格好だ。
イチジクの伝来は江戸初期、原産地は6千年も前のバビロニア、中国を経て、長崎へ薬樹としてもたらされたという。不老長寿の果物とも呼ばれるが、便秘改善、肌荒れ、痔の出血止めなどに効能があるようだ。リンゴやナシなど多くの果物とは反対に実の中に花があるので何か不思議な効能があるのではないか。旧約聖書のエデンの楽園で食べてはならない禁断の実といわれたあのリンゴ。「南国でリンゴが育つものか、アダムとイブを見ろよ、イチジクだろう」、という人もいる。ま~、そんなことはどうでもいいじゃないか。それより、我が家の甘露煮、10個ぐらいできるだろうか。磐田からいただいたおいしい煎茶で楽しもう。
食べごろに少し早すぎた先月の小玉スイカ、栽は難しい。しかし、うまかった。
平成29.9月
社長だより vol.32
今年も土崎神明さん、曳山(やま、写真左)が終わった。ユネスコ無形文化遺産登録となった今年、ことのほか熱気でごったがえした。私は御幸曳山(みゆきやま)出発地、穀保町(こくぼちょう)の隣町、新城町(しんじょうまち)で産まれた。現住居は旧寺内6区(高清水)で神明さんとは関係ないが、7月20・21日は盆暮れ一緒に来たようなものだ。6月に入るとお囃子が聞こえ、新年を迎えるように気分が高揚してくる。そして21日の夜、戻り曳山(もどりやま)。つぶれた声の音頭上げ、引手の荒声、きしむ木の車、油の焼けるにおいで『やま』は最高潮に達する。
【夏の家庭菜園】
この時期、“食べたくなる”のが「うり」。うまいのに当たった時のあの感激、ハズレへのぼろくそ。今ではハズレのないメロン。美味しいのだが何かもの足りない。昭和30年代初頭、まだまだ果物も少なく、スイカは高くて1年に2回ぐらいしか食べられなかった。その点、「うり」は手軽な夏の人気もの。フンフンにおいをかぎ、指先でやわらかさを確かめたり、包丁を入れてもらった時の緊張、スプーンで食べる?そんなことはまずなかった。即、かぶりつきだった。果汁を垂らし、怒られながら食べた。
都では「瓜田に履を入れず、李下に冠をたださず」という中国のことわざが賑わっている。「ウリ」はなくても言葉はしっかり残したいものだ。
トマトもそうだ。畑の真っ赤に熟れた大きなトマト。ガブリ!青臭いというか、畝に腰を下ろして、日差しを遮り、青いへたのところまでモクモク食べた。子供のおなかはたちまち満足する。我が家の家庭菜園もこのトマトを食べたいがために始めたものだ。
先日、我が家のトマトをじっと見ていた顔見知りの専業農家の人が、「これさ肥料やったか?」、「もちろんやったすよ!」、「あのよ、トマトは肥料やらねくてもえなだや」、と言う。実は毎年夢に見た大きなトマト、実がつかない・ついても大きくならない。今年こそはと思って肥料もたっぷりやった・・。葉もちぢれ、幹ばかり太く、“病気ではないか?・いやいや石灰が足りないのでは”と家内と悩んでいた・・・
今年はもう一つ大きな失敗をやらかしてしまった。とうきびだ。野菜や果物はもぎたてが最高。毎年、向かいの家からもぎたて5本をいただくのだが、とにかくおいしい。真似をして植えてみた。肥料もたっぷりやった。順調に大きくなり、茎から“とうきび”が2~3本出てきた。ところが何を思ったか、少し抵抗はあったがことごとくトマトよろしく“芽かき”をしてしまった・・・。数日後、青森で助手席から何気なく沿道の畑を見ていたら、“あれ?うちのとうきびと何か違う?”。直ぐわかった。“うちのとうきび、裸だ!” “芽かき”をしたときは穂(花芽)にとうきびがなるんだと錯覚していた・・、子供が帰省したら食べさせてやろうと思って丹精込めていた。がっかりした。家内に言葉はなかった。
今年の畑、春先の低温で作況は全体的に不良だ。あとの望みは枝豆か。写真は雑草がいっぱいの豆畑。右からてんこ豆(後ろは赤大豆と紅虎豆)、ささぎ豆、黒豆、小豆、枝豆。東京の友人W氏はことのほか枝豆に目がないという。播種をずらした枝豆。うまくいったら朝採りで送ろう。
お盆過ぎればそろそろ秋野菜の準備だ。それまで休もう。しかし、そうもゆかない。強敵、日照りと雑草が待っている。
平成29.8月
社長だより vol.31
【つばめ】
田植えもとうに過ぎ、来週には夏至だというのに、未だつばめをみていない。秋田地方気象台の「平年つばめ初見」は4月18日とある。今年は4月16日が初見というから、2か月前には戻ってきていることになる。
60年も前の話だが、父の生家(秋田市高野)につばめが巣をかけていた。太い角の取れた敷居をまたぐと黒光りしたでこぼこの広い土間があり、つばめの巣は右奥の鴨居にあった。“つぱっ、つぱっ”、とせわしない子つばめの口にせっせと餌を詰め込んでいた。「つばめが巣をかけると縁起がよい」とか「つばめが低く飛ぶと雨が降る」とかはその頃覚えたのだろう。
藤沢周平の「玄鳥(げんちょう)」の書き出しに、『「つばめが巣作りをはじめたと、杢平(もくへい)が申しております。いかがいたしましょうか」。路は夫の背に回って裃を着せかけながら、努めて軽い調子で話しかけた。「つばめ?」夫は前を向いたままで問い返した。長身だが肉のうすい背である。「あれは追い払ったはずではないか」「また、戻ってきたそうです」。「場所は同じところか」。「はい、門の軒下です」。「巣はこわせ」・・・わかりましたと路は言った。予想していた返事だったのでさほど落胆はしなかったが、それでも路は、このとき二羽のつばめが嬉嬉として鳴きかわす声が、鋭く頭の中にひびきわたったような気がした』(*1)とある。
この「玄鳥」は、出奔した藩士を上意討ちの藩命を受けた3人が不意を突かれ失敗。生き残った曾根兵六は嘲笑されることになるが、実はこの兵六が冷淡・傲慢とも言える夫、人を見下す末次忠次郎の妻、路の淡い恋心の相手であった。兵六は下級武士だがやがてその責任を取らされることになると路は知った。路の父親は無外流の使い手。路は父の極意を兵六につたえ、生き伸びることを願う。「玄鳥」最後に『「杢平、来年つばめはこないでしょうね」「へい」今度は来ますまい」。曾根兵六も、だしぬけに巣を取り上げられたつばめのようだと路は思った。生死いずれにしてももはや二度と会うことができないだろうと思った』。(*1)もう戻ることのないつばめに路の恋心を託したのであろう。作品に生活感という現実味があり、どっぷりと遠い昔に引きずり込まれてしまう。
また、同氏の『夜消える』(文春文庫)に「初つばめ」がある。女として言い知れぬ辛酸をなめ、弟を育てた“なみ”。その弟が表店の太物屋(D)に婿入りすると姉を訪ねてきたときの“なみ”の激情にいろを失う。羨望、諦め、つい“なみ”に共感してしまう。両者対面の直前、“なみ”の心はつばめの俊敏な飛翔にやすらいでいたのだが・・・
私にとって“つばめ”というと、「スマートな渡り鳥」「国鉄スワローズ”(現ヤクルトスワローズ)」そして“特急つばめ”だ。現在、「国鉄スワローズ」は超低空飛行で首位から15ゲーム差。土砂降りだ。“特急つばめ”は最新鋭のEF58型電気機関車にひかれ、最後尾に展望車がついた憧れの列車。2015年に廃止された「トワライトエクスプレス」にその面影が遺っていた。最近デビューした「トワイライトエクスプレス瑞風」も最後尾に展望車を持ち、昔の“特急つばめ”を彷彿させる。EF58型の車体色は「淡緑5号」というらしいが、今も鮮烈に記憶にある。この「淡緑5号」、和の色辞典で色合わせをしてみると感覚的には「草色(くさいろ)」に見え、“くすんでいるので他の色とのバランスがとりやすい”とある。また、時期は過ぎたが春の味、“草餅は邪気を払うという意味が込められている(*2)”との事。1956年、東海道線全線電化で既に戦後が終わり、“特急つばめ“が新たな日本を切り開こうとしたのだろうか。
*1玄鳥 藤沢周平 文春文庫
2和の色辞典 視覚デザイン研究所
3 日本奥地紀行 イザベラ・バード 訳 高梨健吉
平凡社ライブラリー 平凡社
写真
A 鳥類の図鑑 小学館の学習百科事典4
B 玄鳥カバー 藤沢周平 文春文庫
C 鉄道 機関車と電車 小学館の学習百科事典11
D 川崎呉服店の看板 「太物屋」
E 「交流サロンぽすと」の裏庭
明治11年、山形県金山町にイザベラ・バードが投宿し、『日本奥地紀行』(*3)に“険しい峰を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った”と紹介している。金山三峰が印象的で、100年かけてつくるという街並、白壁と切妻屋根に考え方の“ロマンチックさ”がある。「川崎呉服店」もその中の一角だ。私が特に時間をゆっくり過ごしたいところが「交流サロンぽすと」の裏庭。旧羽州街道沿いにそのたたづまいが待っている。
平成29.7月
社長だより vol.30
【続々、小さなこだわり】
「キ」へんに春と書いて「椿」、同様に夏は「榎(えのき)」、そしてヒイラギを冬の木とみて「柊」(*1)、ここまでは出てくる。しかし、秋がでてこない。一瞬、「柿!」とひらめいた・・。漢和辞典で探したら「楸」がある。読みは“ひさぎ”で落葉高木の「あかめがしわ」のようだ。
ついでに、東・西・南・北はどうだろうか。楠(くすのき)はわかる。その他書いてみると、 樹木ではないが棟(とう)、佐賀県の鳥栖の“栖(す)”までは出てくるが、北は皆目思いつかない。目を凝らして探したが無い。また、「キ」へんに上・下・左・右も探してみたがこちらは全滅だった。
中国では読みは“ちん”で、「長く久しい」という意味に使い、花は日本でいう“センダン”を指しているとのこと。(*2)
椿は昔から春の さきがけの花とさ れている。
秋田では4月から 5月半ばにかけて 咲く。
日当たりのいい藪椿は3月中頃には咲き始める。見た目は華やかだが、どことなくそそとした感じだ。その分、散るときは、山茶花などと違い花そのものが“ぼとっ”と落ちたり、茶色に色褪せて主張するところに好き嫌いがあるようだ。
飯田蛇笏(いいだだこつ)に「花びらの 肉やはらかに 落ち椿」というのがある。意味は、“ぽたりと地に落ちたまま鮮やかな色を失っていないのが美しいのだ”(*3)という。そのような種類もあるが概して散り際に抒情は感じない・・。
花をかたずけると決まって蟻がいる。ムクドリも来る。自分でも花を“ぷつっ”と引っ張ってなめると“おんこ”の実ほどではないがほのかな甘さはある。生前の父には、自宅を椿屋敷にしたいという夢があった。従妹は“おじさん、よその家から変わり種の枝をもらっては藪椿に接ぎ木をしていた”と言う。今晩はツバキ餅でも食べようか(*4)
男鹿駅(旧船川駅)から車で約10分ぐらいだろうか。日本の渚100選「鵜の崎海岸」を左に見ながらほどなく、男鹿半島(*5)南西北端、海が目の前に迫るわずかな海岸にこんもりとした能登山が見えてくる。男鹿市「椿」集落だ。男鹿市教育委員会の案内板に「ヤブツバキが自生する北限地帯として、青森県の夏泊半島とともに国の天然記念物に指定されています。(告示 大正11年10月12日)」とある。対馬暖流に椿の実が流されてきたものだろうか。柳田翁は「青森の椿は“イタコ”が持ち込んだ」(*6)との説。対馬暖流は大間のマグロと同じで津軽海峡にも分岐しているので暖流説に軍配が上がるのでは・・。しかし、“イタコ”が雪に椿の花を見て人の復活を感じ椿の実を持ってきたことも容易に想像できる。
高校の頃、この集落で夏合宿があり、能登山まで朝、片道20分の散歩をさせられた。また、能登山には「若い男女の椿伝説(*7)」がある。1804年、8月25日に菅江真澄も椿の浦を訪れている。その時も椿伝説があったのだろうか。周辺海岸にははっきりとした隆起の断層があり化石探しに夢中になったこともあった。今となれば懐かしい。
*1・2・6 ことばの歳時記 金田一晴彦 「3月4日」 新潮文庫 新潮社
*3 ことばの歳時記 山本健吉 「椿」 文芸春秋
*4 椿餅 横手市K店 真っ白なもちっとした道明寺に光沢のある濃緑の葉。文句なく、うまい。平野庫太郎氏の漆黒の小ぶりな天目茶碗に入れて撮ってみた。“贅沢”だ。
*5 ジオパーク 男鹿市教育委員会 能登山案内板
半島全体が国定公園に指定されているが、「男鹿半島・大潟ジオパーク」にも指定されている。西海岸は目もくらむような絶壁の連続で、クロダイ釣のメッカと言われる。また、北限のトラフグがとれるのでも有名だ。もちろん、“いけす”で下関に運ばれる。「男鹿半島・大潟ジオパーク」の成りたちは今から数万年も前のことらしい。能代の米代川と秋田の雄物川の砂が八郎潟を形づくり、今の形になったのは平安時代のようだ。男鹿半島北西には、噴火口に満々と水をためた国内では珍しいマール、一ノ目潟・二の目潟・三の目潟がある。あたりには静けさしかない。
*7 椿伝説(男鹿市教育委員会 能登山案内板)
・その昔、毎年男鹿の椿港から南の国に木材をはこんでいた若い船乗りが、村の娘と恋に落ちました
・必ず戻ると約束して別れてから3年が過ぎ、若者が死んでしまったと思いこんだ娘は、悲しみのあまり能登山から海に身を投げた
・4年目に村に帰ることができた若者は、娘の死を嘆き、お土産で持ってきたツバキの実を能登山にある娘の墓の周りに植えました。能登山は毎年春に花を咲かせ一面がツバキの花で覆われるようになりました
平成29.6月
社長だより vol.29
【続、小さなこだわり】
それは思いがけない出会いであった。仙台の百貨店で諦め半分・冗談半分で聞いてみた。受付嬢の交代時間であったらしく年配の指導員らしい女性が “確認しますのでお待ちください”、と丁寧に応対してくれる。電話口で“酒種?・・・”と聞こえた。 “それそれ!”と思わず声を出してしまった。地下2階のエスカレーター左わきの棚を案内された。小走りにむかうと、そこに5個入れの見覚えのある小ぶりな「酒種5色あんパン」と「桜 酒種あんパン」の2袋が残っていた。雑踏のなかで親を待つふうであり、なんか場違いのようなスチール棚だ。しかも柱の陰にある。どう見てもメイン置き場ではない。意外な扱いだ。帰りの汽車の中で食べたかったが、大事に潰さないように持ち帰った。
「あんパン」の由来は安達巌の「明治天皇とあんパン*2」に詳しい。「パン」という言葉は種子島漂着で伝わったポルトガル語、K店のあんパンが有名ぐらいでそれ以上の知識はまったくなかった。同随筆には次のようにある
『・・復活のキッカケとなったのは安政の開国であるが、その強大な推進力となったのは、明治維新の合言葉である文明開化理念だった。しかし、西洋人の常食であるパンと肉乳卵食を日本人の生活に取り入れるためには、殺生禁断・肉食禁忌の仏教文化から、手直しをしてかからねばならなかった。・・妙なことからパン食の功徳が日本人社会に広がっていった。それはパンが江戸患いといわれた脚気の妙薬だということが分かったからである。しかし、この考え方が固定すれば、パンは病人食に限定されてしまう。そこでこの点を打開するために工夫されたのが、日本独特の酒種生地製のあんパンだったのである』と、由緒正しい。ぞんざいに“あんパンでも食うか”とも言えなくなった。さらに安達氏は、当時巷に流布していた『バカの番付表で、米穀くわずしてパンを好む日本人』などと守旧派の反撃があったこと、創業者の製造・販売苦労話、京都老舗の和菓子切り崩し、明治天皇侍従・山岡鉄舟のあんぱん献上策(明治8年4月4日献上)、など興味深く逸話を記している。
念願かなってのほぼ20年ぶりの桜あんパン。その生地の豊饒な香りとかみごたえ。“やっと会えたな~!”しかし、帰宅してから面食らうことがあった。シールに「元祖酒種ぱん」とある。私は、パンは外来語なのでパンと書くべきとして、「あんぱんやアンパン」などの商品名は、いくら人だかりでも買わないことにしていた。このシールをみて、「正統あんパン派」としての自覚に揺るぎを感じてしまった。はて、どうつじつまをあわせたらいいものか・・。
K店に聞けばすむことだが、思うに創業者として従来の饅頭の生地をパンに変え、日本にはなかったものを創ったとして、日本語で「あんぱん」と命名したのではないか。今の商標登録と考えると納得がゆく。ちなみに東京の友人にK店を調べてもらったら、“「酒種ぱん」以外は「菓子パン」となっているようだ”とのこと。とすれば、やはりK店以外は「あんパン」と書くのが「正当」ではないだろうか。
*1 写真上、左がスーパーなどでの市販のあんパン、右が今回求めたK店の桜あんパン(重さ50g、直径6.5センチ、高さ3センチ)、下はK店の桜あんぱん断面。塩漬けした桜を中心に埋め込んだ桜あんぱん。餡は“昔風”でびりっとくるような甘さではない。優しい餡だ。
*2 安達巌(いわお)の「明治天皇とあんパン」、文春文庫 巻頭随筆Ⅰ、文芸春秋社
*3 山形新聞4月2日、「暦の余白に」重松清。
『あんパンの旬はいつの季節なのか。むろん四期を問わずに美味(うま)いのは大前提だが、本命は春ではないか。なにしろ、あんパンには桜の花の塩漬けのトッピングが定番なのだ。作家・吉行淳之介も同様の理由であんパンの「季」は春だとエッセイに書いていた・・・・』
春組集合!
まんさく・ろうばい君早退、桜3姉妹:吉野さん・しだれさん少し遅れる、八重さん来月登校、福寿草さん転校。えびね君入院、お~いモクレンさん集合時間だよ!(切り絵)
平成29.5月
社長だより vol.28
【小さなこだわり】
身体に違和感があると“すわっ!重大な前兆か?”と、もじもじ病院に行くと、“加齢ですよ”と言われて“むくれる”ことが多くなった。自分には関係ないと思っていた“人生の終わりが近づいているんですよ”、と告げられる加齢がやっと何者かわかりかけてきた。何かの拍子に“ふっと懐かしのラジオ番組を聞きたいな”と思うことも多くなった。これも加齢だろう。身辺整理をしなくてはと思いながら何も手につかないのも加齢、華麗なる変身まだできる!と思うのも加齢に間違いない。さらに、テレビに“ぶつぶつ文句”など加齢シンドロームはきりがない。
就寝前、ふとんの中で文芸春秋巻頭随筆Ⅱを拾い読みしていたら、「啄木が仲人をした話*1」があった。金田一京助のお見合い話だ。盛岡でNHK「私の秘密」の公開放送があった時の話だそうだ。読む気になったのはあの渡辺紳一郎(*2)の名前にある。
設定はこんな具合だ。取材先は金田一京助先生80歳、弟子:渡辺紳一郎60歳。お見合いの場所:若竹という寄席。時は十二月の寒い日。仲人は石川啄木。「先生がすらすらと語ったのではなく、巧みな私(弟子)の合いの手につられて、ポツリポツリをつなぎあわせたもの*3」
「青年文学士金田一京助さんは東大の助手、女性恐怖症ともいうべき仁であったらしい・・。啄木がしきりに結婚を進める・・寄席で見合いということに決まる。・・入口に近いところに陣取り火鉢を囲んで待った・・来た来たと啄木が言う・・金田一文学士は恥ずかしくて、火鉢をいじって下ばかり見ていた。啄木が見なさいというので金田一さん顔をあげて指さすほう、かぶり付きをみるとそれは後姿しか見えない。金田一さん、それも恥ずかしくて灰ばかりいじくる、しばらくして、啄木が—帰る帰る。早く見なさい—とささやく。金田一さん清水の舞台を飛び下りる覚悟で顔をあげると—(ここで渡辺さん笑わないで、と金田一さん赤くなる)・・それがなんと何十ぺん、何百ぺんも見たお嬢さんだったんですよ*4」、かくして、ほどなく婚姻となり長男晴彦氏が誕生することとなったようだ。
もしかしたら、関係者の随筆がまだあるのでは?と早朝の出張を気にしながら読んだ。やはりなかった。翌日帰宅後本棚の巻頭随筆Ⅰをみた。なんと目次に「金田一晴彦氏」の名があるではないか。題名は『恋文のお返し』。ときめきを感じた。しかし、こちらは残念ながら旧制中学時代の秘められた一途な恋のようだ。(お相手は懐かしの童謡歌手、安西愛子さんとか)父は初恋成就、長男春彦氏、失恋か?と言っても、“文四郎とおふく”のような忍苦に翻弄された恋ではない。言語学者が噂に反論し、出征するまでの真相を述べたもので、同氏の生真面目さが伝わってくる。
この「巻頭随筆Ⅰ」編の他の随筆を読んでちょっと気になることがあった。ある方の「金田一温泉*5」に入浴の話が載っている。当然文章ではない。「金田一」へのルビだ。“きんだいち”、とある。家内と(座敷童の宿が焼失して間もなく)金田一温泉に向った時のこと。町に入って「第一村人(五十歳前ぐらいのショートカットの女性)」に“きんだいち温泉にはどうゆけばいいですか?と聞いたら、“きんたいち”と呼び直される心地よい出来事があった。それ以来私は“きんたいち”と、妙に気取っている。秋田でも昔、同じようなことがあった。日本海側の山形県境に「にかほ市」(旧、仁賀保町)がある。私が三十歳代の時二回り年上の方が、「にかぼ」と呼んでいた。私もそれ以来真似をして「にかぼ」と呼んできた“実績”がある。いちいちルビに目くじらを立てることもないだろう。
*1・3・4 「啄木が仲人をした話」 渡辺紳一郎、文春文庫 巻頭随筆Ⅱ 編者 文芸春秋 文芸春秋社
2 渡辺紳一郎 『NHK私の秘密』 のレギュラー回答者。出演者は渡辺紳一郎・徳川夢声・藤浦洸・高橋桂三アナウンサー他。
視聴者からの難問・奇問に応えるというラジオ番組だった。渡辺紳一郎は藤浦洸とは正反対でモソモソ話すのだが、何とも言えない穏やかな話しぶりで子供ながら“心許せる”おじちゃん、藤浦洸は隣の元気な兄ちゃん、徳川夢声は当代きっての朗読家、時代物が最高だったが、オーソン・ウエルズもの、火星人来襲!もよかった。高橋恵三の「事実は小説より奇なりともうしまして・・・」の決めぜりふも忘れられない。
どの回答者の個性も目に見え、話し声もはっきりと残る忘れられない番組だった
5 金田一温泉(IGRいわて銀河鉄道 金田一温泉駅と観光案内図)
平成29.4月
社長だより vol.27
【小野のふるさと その3】
“「百人一首」は藤原定家という一世の歌の大家が、百人の歌人の歌を一つずつ集めたものだが、この言い方はおかしいようだ・・百人の歌人が一堂に集まり、「僧正遍照、お前は初めの五句を考えろ、おれ、業平が次を作るから。字は小野小町に書かせろ」、というぐあいにして一つの歌を作りだした、という意味になりそうだ・・「百人一首」は「百人百首」といった方が、理屈にあった言い方ではないか?*1”、と、金田一晴彦氏。そういわれればその通りだな~。
小野小町の伝説は全国に実に多い。“花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に”と百人一首にあるが、三十六歌仙に数えられた知性と美貌を兼ね備えた平安の美人(小町絵*2)。その出生は秋田が担っていることを改めて菅江真澄遊覧記で得心した。真澄にとって小野小町の旧跡を訪ねることはかねてからの望みであったようで、日記に一人の人・一つの地名も含め今まで読んできた中では随一のボリュウムで記されている。
天明五年(1785)“4月2日、天気はよいが風が冷ややかので、重い冬の衣をいくつも重ねて着た。いつになったらこの衣が脱げるのだろう。まだ花が咲かないで花の香りにそまない袂なので、まして春のなごりをおもえないのも当然である*3。”4月14日、真澄は小野小町の古跡を尋ねようと湯沢をたち、小野村で三十八代続く金庭山覚厳院(のちに熊谷神社を再建をする)の住職などから濃密に残るその出生などを聴いている。“取材”は憧れの人への想いだろうか。そんなことを思い浮かべ、古跡巡りをすると頭巾をかぶった真澄の後姿がみえてくる。
小野地区には、古戸(小町の母の墓)、走明神(小町の父良実の氏神)、桐ノ木田(小町誕生の地)、小町清水(小町姿見の地)、熊野神社(良実の建立で小町の詠んだ歌を奉じ和歌堂とも言われる)、平城跡(深草少将居城)、御返事橋(少将が恋文を送りその返事を待っていた場所)、桐善寺(良実の菩提寺)岩屋洞(小町臨終の場所:自作の自像が現存)など数々の遺跡が残る。
「出生」は出羽の郡司小野良実と郷士松田治朗左衛門の娘大町子とのあいだに生まれたという。“はっきりしないことであるが、小町姫は鹿のうんだ子であるという。そのわけは、良実に、この世にないほどの美しい女が通ってきていたが、その女ははらんで産み落としたのち、鹿の形を現わしたとも言い伝える*4”
「雨乞い小町」“小町姫は九つの年(十三歳とも言われる)に都に上り、また年頃になってからこの国に来て植えられた芍薬というのが田の中の小高い所にあります・・これは九十九本あって花の色はうす紅で、他の芍薬とはいささか異なるという・・枝葉をほんのわずか折っても、たちまち空がかきくもりやがて雨が降ります。まことに雨乞い小町でしょうと語った*5”と、ある。
「二ッ森」は“小町が在世のとき、深草少将の塚を築かせ、自らの塚も前もってこの塚に並べて作らせて、わたくしが世を去ったなら、必ずここに埋めるようにと言い残して亡くなった*6”という(見ずらいが写真手前が二ッ森の遠景、左が女森・右男森)
「岩屋洞」“岩屋というところに老いてから小町がしばらく住んでいたと語り、また、聞き伝えられる歌として「有無の身やちらで根に入る八十島の霜のふすまのおもくとぢぬる」、これは小野小町が詠んだものである*7”、と。(この付近雄物川が流れ氾濫して多くの小島があったという)
「小野のふるさと」の終盤に“小町の締めくくり”と言えるような印象的な記述がある。
4月26日、“はなだ色(うすいあい色)の布を厚くさして着た、たいそう清らかな女が老女にともなわれて行くのは、小野(雄勝町)の人である。ああ美しい女だと人々は見守っていた。小町姫のゆかりが残って、むかしから今に至るまで、小野村にはよい女がでてくるとは聞いていたが、これほどの美女は世にあるまいと・・*8”
この後、29日に真澄は北へ旅立ち、秋田へは享和元年(1801)に再訪することとなる。小野村のすぐ北にあるブランドの“三関のせり*9”、真澄は鍋物で舌ずつみをうって出立しただろうか。
1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(1772~1781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。隠れた名品そのものだ。
平成29.3月
社長だより vol.26
【小野のふるさと その2】
菅江真澄遊覧記には西行法師がたびたび登場するが、『小野のふるさと(1785,1月1日~4月29日)』では1回だけ2月15日にその名がある。“釈迦入滅の日なので、(柳田村周辺の)御寺という御寺に門も狭いほど人々が詣でた。「花のもとにて春しなん」と、西行法師が誦したのもこの日ごろである*1”、と。この2月15日が西行忌である。入寂したのは文治六年(1190)といわれているから今から8百年以上も前のこと。当然だが、真澄はこのことを知っていたことになる。また、西行は遊覧記にあるように“「願わくは花の下にて春しなんその如月の望月(もちづき)のころ」と詠んでおり、ピタリとその日に往生してみせた*2”、と言われている。ちなみに兼好忌も2月15日。徒然草に“40歳に達しないうちに死ぬのがいい”とあるが、六十九歳で生涯を終えている。う~ん難しい・・。
日記の順序とは逆になるが、天正五年、4月15日、「銀を掘る山をみに出掛けようと、院内というところに泊った。流れる川を桂川という。水上は雄勝峠で、最上郡に下って行く陰から落ちてくるのだという*3」。実は雄物川源流の案内図など本拙稿へ写真を撮ってきたのだが、誤ってほとんど削除してしまった。銀山に関する写真はこの一枚しか残っていない。
「まだふもとまで雪が積もっていたので歩いていると肌寒かった。この山の由来を尋ねると、関ヶ原の戦に敗れ、・・小野の縁者を訪ねてきた村山宗兵衛という人の夢に、神が金鉱のありかを告げられたことを手掛かりとして、長倉山を越えて谷深くたずねいると見た夢と少しも違わなかった。これは恐れ多い神示であったと人々にも語り、工夫を大勢連れてきて慶長十年(1605)に開けた銀山である、・・石を打ち砕いて銀をとる金槌の音がこだまし、山に響いていた*4」、と。慶長十七年に佐竹藩領となるが、写真は最盛期の十分一御番所跡(じゅうぶんのいちごばんしょあと*5)で、往時の活況がうかがい知れる。
高校同期会、「39会報*5」最新号に秋田市在住のS氏が院内銀山をパワースポットの一つとして同好会で出かけたことを記してあった。その時は“工夫の命・廃坑?”程度であったが、実際に銀山跡地で背筋がぞっとした。国道13号線院内新バイパスをやり過ごし、ほどなく108号線に折れ、道路右側に銀山跡地入口案内がある。車1台がやっと走れるうっそうとした杉林を登って間もなく、右側の急峻な山肌を切り取ったような、間口50m×奥行き30mぐらいのところに数知れない墓標。その日はたまたま大雪が降った後だったので、帽子をかぶって“全員”がこちらをじっとみつめる妖気漂いS氏の記事がピントきた。通り過ぎてバックミラーも見ることができなかった。
最盛期の天保十三年(1842)には谷という谷は人家で埋まり、戸数4,000、人口15,000人まで膨れ上がり、久保田をしのぐ繁栄ぶりと言われた。銀の算出は月産375キロを連続11年、日本一の記録を保持した。小生が目にした墓標はごく一部の番所役人等であろう。過酷な重労働でたおれたり逃亡で極刑をうけた工夫の生きたあかしはない。大正10年に採鉱停止となり315年の歴史は彼らだけが知っている。日記で数多くのしき(坑道)が掘られ、鉱石を精製する過程や、工夫の作業歌など事細かに聴き取りをしていることがわかる。真澄は5月に横手に向い、角館・西木を通り阿仁銅山もみている。ここにも詳細にその選鉱のようすが記されている。
1 ことばの歳時記(1月3日) 金田一晴彦 新潮社
2 我が国最古の歌仙絵巻と言われる佐竹本三十六歌仙複写絵巻(秋田県立図書館蔵:湯沢市ガイドマップより)。同期の生家に作者は不明だが「三十六歌仙の六曲一双」があったものの、さる処に寄進された由。後日、屏風を拝見した。なぜ寄進されたか切なさで胸がいっぱいになり時々目に浮かぶ
3・4・5・6・7・8 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」 内田武志編訳 東洋文庫
4 母親が鹿であったという話は和泉式部にも光明皇后にもある。美しい特別の才能を持った女性は常人と違った宿命的なものを背負っているというのがモチーフになったものといわれる(内田武志氏の解説より)
5 小町は少将に芍薬を毎日1本づつ100本植えたら会うことにしていた。あと1本で亡くなったといわれる
9 安永年間(1772~1781)から栽培されている香りのよい、シャキシャキ感のある全国ブランドの“三関のせり”。きりたんぽには欠かせない。長い根の歯ごたえ・香は病み付きになる。特産のさくらんぼも雄物川の川霧で色のりもよくことのほかおいしい。
平成29.2月
社長だより vol.25
【小野のふるさと その1】
菅江真澄遊覧記『小野のふるさと』の書き出しに、「出羽の国雄勝郡柳田村(湯沢市)で新年を迎えた。天明五年(1785)正月一日、初日のキラキラとさしのぼる光が雪の山に映えて美しくみわたされ・・家ごとに訪れて新年を祝い、挨拶をかわしていく人のことばも晴れやかである*1」と。菅江真澄が初めて経験するみちのくのお正月・七草粥・小正月などの習俗を日記に詳細に書いている。今も230年前とあまり変わらない感覚だ。
前年9月29日に象潟を出発し、酒田街道(現国道7号線)を北上。翌日何故か秋田に向わず本荘から国道108号線、子吉川沿いを前郷・矢島を経て伏見から八塩山周辺そして七曲峠(と思う)をたどりながら湯沢を目指していたが、大雪の柳田村で年を越す。途中、西馬音内へは10月ながら既に大雪となった七曲峠に難渋しやっとの思いでたどり着く。(地図*2)写真上は七曲峠の五合目から見た西馬音内。冬準備もない足元。雪をこぎながら目に飛び込んだ突然の集落の煙には随分ほっとしただろう。
この七曲峠では、1月最終土曜日に新婚カップルが馬そりに揺られる嫁入り道中が開催されている。また、西馬音内と言えば“盆踊り”。たき火の周りを端縫い(はぬい)衣装・半月型の編み笠で顔を隠した女性、彦三頭巾(ひこさずきん)の男性が地口(秋田音頭に似た即興のかけ歌)に合わせ、日本三大盆踊りの一つと言われる妖艶な踊りを夜が更けるまで繰りひろげる。庄内や象潟で手布(たんの)であごから頭上にかけて結び、眼だけだして歩くのをみて驚いていた真澄。彦三頭巾をみて何と書いていただろう。未発見の資料がどこかの肝いりの家に埋もれていないだろうか。
(写真右上:嫁入り道中、羽後町パンフレット、中下:昭和40年代の盆踊り、端縫い衣装と彦三頭巾、共に11年盆踊り公式ガイドブックより)
『小野のふるさと』での期待は、なんといっても“小野小町と院内銀山”だ。不安もあるが、遠い昔から地元でどんな伝承があったのか、目だけがどんどん先に進む。しかし、天明の大飢饉で食糧難もあったはず。小野・院内へは雪も深く、約3か月柳田村に逗留。その中で聞き覚えのある岩崎(湯沢市)の石川氏に投宿したことを二回書いている。1月10日と3月6日だ。もしかしたら私の存じ上げている石川さんなのだろうか。黒塀の雪がとけ始めるころ、真澄も目にしたまんさくの花を見ながらお邪魔してみよう。歴史のあるご自宅だから何か遺墨・痕跡が残されているかもしれない。新たな発見へ俄然夢が膨らむ。
*1・2・3 菅江真澄遊覧記1、「小野のふるさと」内田武志編訳 東洋文庫
お正月:“・・鏡餅はどこにもあるが、栗、柿、干しわらび、ニシン、こぶ、五葉の松の枝を添えて先祖を祀るために、このようななまくさい魚もいとわず霊前、仏前にすえているのは上代からのしきたりがなお続いているものとして結構なことと思えた・・”
七草粥:“・・六日の夕べ、・・声をあげて菜切り包丁でたたく声が、家ごとにどよめいていた。・・七草の粥は大体故郷のものと同じである・・”
小正月:“・・またの年越しである。なにやかにやと小正月のよういをし、家の内外をはらいきよめる。・・門ごとに柳を指してあるのはこの土地の習わしであろう。今日は鳥追いだといって、しら粥に餅を入れて食べる。犬、猫、花、紅葉などいろいろな形にいろどった餅をつくり、わりこに入れて、子供たちが家ごとに配ってあるいていた・・”
*写真は切り絵による「福の字」のいろいろ。
家庭菜園の去年今年(こぞことし)
例年通り見よう見まねで30種類以上の作付をした。
『人参・なす・さつまいも・じゃがいも・かぼちゃ・ピーマン・ゴーヤ・大根・菊』は不良。蕎麦は完敗だった。『玉ねぎ・にんにく・小玉スイカ・おくら・きぬさや・アスパラ・ささぎ・きゅうり・かぶ』は良、『ほうれん草・小松菜・トマト・キャベツ・白菜』はやや良。枝豆はよく食べた。毎年収穫後に来年こそは指導を受け作付けと気勢をあげるのだが家内とも一度も専門家の指導を受けたことはない。
平成29.1月
社長だより vol.24
【象潟へ向かう その3 人それぞれ】
東京の知人から「変貌した象潟をもしも芭蕉が目の当たりにしたらどんな涙を流すのでしょうか」、さらに続けて「歴史は大きな単位で総括すべきなのでしょうが、ヒトのなせる技は弱者を泣かせてばかりのような気がします。軽挙妄動にはしらず、絶景に立ち止まる心のゆとりがあれば・・・」とご意見がありました。悠久な歴史の積み重ねは人々に何を託すのだろうか?(写真は蚶満寺境内の芭蕉と西施の石像)
西湖(中国浙江省杭州市)という名湖がある。「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」として、松島の冒頭に登場する。象潟は松島に相対させるように「江山水陸の風光数尽して」 と秋田県民にとって実に鼻が高い修辞な書き出しだ。また、東京の知人は上海駐在時代に西湖に足を運ぶたびに「西施」 に出会う揺らぎでときめいていたようです。「西施」は救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女として、芭蕉は松島に比べて『恨むがごとし』と象潟の風景に似通うものとして「象潟や 雨に西施がねぶの花」の句を遺している。(蚶満寺境内の「西施」説明を参照。また、句碑には「きさかたの雨や西施かねふの花」とあるが、曾良の旅日記もこの形でその後芭蕉が推敲して今の形に直したといわれる*1)
「西施」をおもう芭蕉を司馬遼太郎はこう書いている。「・・・花は羽毛に似、白に淡く紅をふくんで、薄明の美女をおもわせる。つかのまの合歓がかえって薄明を予感させるために、花はおぼろなほどに美しいのである。芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、西施の壮絶なうつくしさと憂いを思い、それをねぶの色に託しつつ合歓という漢語を使い、歴史を動かしたエロティシズムを表現した。・・・*2」
歴史を丹念に調べ上げ、足で確認しての考察には心がひらく。描き出された秋田県散歩を遺してもらってよかった。
菅江真澄遊覧記の「秋田のかりね」にある芭蕉の名は、『冬枯れたねむの木のかたわらに「象かたの雨やせいしかねぶの花」と記しているのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。・・・』くらいだ。歌枕を巡った能因・西行への思いは感づるものの、「西施」や特に芭蕉を意識した風はみえない。象潟も各地と同じく九十九島の情景や住民の暮らしぶりを克明ともいえるように丹念な筆致とスケッチで残している。「行きかう人はアツシ(アイヌの着物)という蝦夷の島人が木の皮でおり、縫って作った短い衣を着て、小さい蝦夷刀(まきりという小刀である。蝦夷人はこれをエヒラという)を腰につけ、火うち袋をそなえていた。釣する漁師は、たぬの(手布である)に顔をつつみ、毛笠をかぶって、男女のけじめもわからず、あちこちに船を漕ぎめぐっていた*3」とある。9代藩主、佐竹義和(よしまさ)から藩命を受けて地誌編纂はわかるが、それ以前は何のため各地を巡り、その風俗・習慣を書き残したのか不思議だ。しかし、その多くの著作は重要文化財として秋田の宝物になっている。真澄が見たものと同じものに出会う静かな動悸はなんとも心地よい。この後、真澄は秋田に北上せず、本荘から西馬内を経て湯沢で冬籠りをしている。詳細な記述と相まってその行脚は謎が深まるばかりだ。
今年の会社発表会に秋田の料理菓子をお土産につかった。左から、雲平の丸鯛・餅の鶴・餡の亀。子供の頃、姿鯛であればどこをもらうかで一喜一憂したものだ。このほかのお祝い菓子に焼き菓子もあった。形は1種類で鯛だ。かじると歯が折れるような硬さに閉口したが、今は作る職人がいないそうだ・・・。
*1 おくのほそ道をたどる(下)井本農一 角川文庫
*2 街道をゆく二十九 司馬遼太郎 朝日新聞
*3 菅江真澄遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫
社長だより vol.23
【象潟へ向かう その2 人それぞれ】
「曾良旅日記」によれば、芭蕉たちは酒田を出て吹浦につくころ雨が激しく、そのまま吹浦に泊った。翌日(元禄2年:1689、6月17日陽暦8月2日)も雨が強く船小屋に入って休んだりしながらお昼頃、汐越(しおこし:象潟のある村)に着いている。吹浦から三崎まで一里半、さらに汐越まで三里、この間、馬足不通の難所を雨の中午前中歩いている。4㎞を徒歩約1時間と考えれば難所越えもあり計算はほぼ合う。その日は「佐々木孫左衛門方で濡れた着物を乾かし、うどんを喰い*1」、「象潟橋迄行って雨暮気色をみる*2」とある。おくのほそ道では『・・雨朦朧として鳥海の山かくる。暗中に模索して雨もまた奇なりとせば、雨後の青色また頼もしきと・・』、3月27日に江戸・深川を発ち、およそ2カ月半、おくのほそ道全行程約半分、憧れの象潟に着いた。(写真は象潟ICから見た汐越方面、奥は日本海)
天明4年(1784)9月27日、菅江真澄が象潟に着いたときも雨だった。『やがて汐越の浦についた。まず象潟がわずかばかり見えたので・・家のあいま、橋の上などから島がいくつも見えるのを趣きぶかく思っていると、行く人が“八十八潟、九十九森”とうたう。・・ただきさかたの秋の夕ぐれと空を眺めて、この里に宿をとった*3』・・29日、『雨は昨夜よりこやみなく降って、波の音が騒がしい。障子の向こうで女が盃をとり酔い泣きして、つまらぬ戯れごとを言っている・・と、相宿の旅人が集まってむつまじく語りあった*4』。この後、小舟で島めぐりをする頃には雨も上がった。『・・藻を刈る船の集まっているのは、流れ藻を刈って連ね編み、馬の背にかけて寒さをしのがせ、町の人は夜具とするためである。その名をきさかた蒲団とよんでいる*5』、そして鳥海山は富士山の3月末、4月の初めのような「かのこまだらの白雪」などと暮らしや情景を記している。(写真上は象潟橋、たもとに島めぐりの船着場があった)
昨年晩秋、私も雨の象潟をみた。泥湯の帰り枯れ模様の山中を下り、しばらくして突然目の前に島のようなこんもりとした森をみた。“あっ、象潟だ!”周りにも大小の森がぼわっとみえる。薄暗くなった夕刻、島に近づくと、象潟だとは分かっていても裏から見るとまるで景色が違う。色がなく、背中に覆いかぶさるような妖気のようなものを感じた。ざわっとし、“早く出よう”としたことを思い出す。
「街道をゆく、合歓(ねぶ)の花」項では、『さて私は道路わきの田畑のあぜ道に入ってみた。その田畑は道路より高い。周りを見わたすと、いくつかの“島”がある。どれが能因島なのかはわからないが、いずれも黒松におおわれていて実に美しい。・・実は芭蕉がこの地を去ってから百十五年後の文化元年(1804)6月4日、大地が盛り上がってしまったのである。・・象潟の海の底が2.4㍍も隆起し、陸地になった。当座は、むざんな沼沢地だったらしい*6』とある。菅江真澄が象潟九十九島(つくもじま)をみた20年後に象潟地震で入り江は陸地になっている。芭蕉は島が浮かんでいた入り江を縦横一里ほどといっている。もう一度昔の入り江に戻せないだろうか、とのんきに思う。菅江真澄は『この浦の眺めにはただ心がいっぱいになって、涙ばかりこぼれて、ひたすら故郷のことを思った*7』と、ある。(写真は能因島。芭蕉一行はまずこの島に船を寄せて九十九島見物をしている)
裏庭の通路で頑張っていた「ど根性枝豆」は、一人前に実をつけ、本当かな?などと楽しみにしていた。 しかし、あえない最期を遂げてしまった。庭師がきれいに“草取り”をしていた。かわいそうなことをしてしまった。しかし、オダマキの間に1本だけ小豆がかわいい鞘をつけていたのを見つけた。
*1・2 おくのほそ道をたどる(下)井本農一 角川文庫
*3・4・5・7 菅江真澄遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫
*6 街道をゆく二十九 司馬遼太郎 朝日新聞
平成28年11月
社長だより vol.22
【象潟へむかう その1 人それぞれ】
酒田から帰る時、吹浦(ふくら)に差し掛かれば、象潟を目指し ていた芭蕉がここで風雨にあい、そのまま泊ったことを想う。翌日、 (元禄2年1689年8月1日)「酒田の湊より東北の方、山を越え、 磯を伝い、いさごをふみて、其の際十里、日陰やゝかたぶく比、汐 風真砂を吹上、・・*1」と“おくのほそ道”にある。“東北の方を 通れば大幅に回り道のはず、そんな道を選ぶわけはない。できるだ け最短であろう、東北とは菅江真澄(*4)の言う剣竜山を指すの だろう”。吹浦を通れば決まってそんな思いになる。写真上は県境にある三崎 山から見た、海沿いの難所。そして象潟へ続く砂浜、下は曾良(そら)と通ったであろう三崎山の峠道。道幅は一人がやっとだ。ここを歩いたんだ・・・
実際、芭蕉の時代の旅はどんなものだったのか?古い股旅物映画しかイメージは湧かないが旅支度は「紙子一衣(左)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ※2」とある。しかし、長旅、それも未知の土地へともなれば細々あるだろう。
必要最低限のものは身に付けて行くとすれば、「扇子、針と糸、懐中鏡、日記帳、櫛、鬢付け油、提灯、ろうそく、火打ち道具、懐中付木さらに頭巾・ 風呂敷・足袋、脚絆、枕、雨具、草履、傘、箸、茶わん*3」など何も持たずにぶらり気ままな旅を楽しむなどは到底できないことは確かだ。雁風呂の心持があったと思う。
秋田は日本一多い国指定重要無形民俗文化財を誇るが、菅江真澄が残した紀行文のおかげと言われる。『秋田のかりね*4』(天明4年9 ~12 月)の9月25日(雨)に「剣竜山を下って、しばらくのうちに吹浦という磯の館につく。人の往来が繁かった。ここの関所に入り、酒田で用意した関手形を改めて旅人を通している。島崎の浜、滝の浦を歩いて女鹿の関に到り、関手形を渡した。椿ばかり生い茂る岩面の道に入り、やがて下って三崎坂に出た。・・*4」とある。この三崎山周辺に『有耶無耶の関(うやむや)』があったようだがはっきりとしない。椿ばかりというが、これはタブの木と思う。藪椿も見えるが、北国には珍しいタブの自生の林だ。菅江真澄も芭蕉が通ったこの道をたどったのだろう。それにしても、紀行文にあるその土地の暮らしや習慣・行事など克明な記述と風俗・民具のスケッチには舌を巻く。そして、内田武志氏の編訳も年表・行程(左) などが付記され実に編集が丁寧だ。
司馬遼太郎は、秋田空港(旧雄和町)から画家の須田剋太と個人タクシーで、象潟に向っている。「街道をゆく 二十九」に次のように書いている。『・・いっそもっとみなみにゆき、南の県境近くの象潟の蚶満寺(かんまんじ)を訪れようと思った。「よほど距離がありますか」「一時間ほどすこしかかります」「きさかたへゆくか」と、つぶやいた。・・・さらに南下して金浦(このうら)という浜辺の町をすぎるころから、左側の地形が、陸であるのに海であるかの印象をあたえはじめた・・*5』この後、蚶満寺の熊谷住職さんとの話などが始まるが、秋田の人にはことのほかこの風景描写、実によくわかる。
私にとって初めての名勝象潟は秋田市立土崎小学校5年生、秋の旅行であった。汽車、(SL)で向かったと思う。象潟は羽越本線だからきっと秋田駅で乗り換えしたんだろう。“独特な島”の印象はその時から畏敬の対象として特別な感情が今も続いている。
*1 おくのほそ道をたどる(下)象潟 井本農一 角川文庫
*2,3 國文學 おくのほそ道とは何か 第34号巻6号 森川 昭 學燈社
*4 菅江真澄 遊覧記1、内田武志編訳 東洋文庫
*5 街道をゆく二十九 秋田県散歩 司馬遼太郎 朝日新聞
社長だより vol.21
【ど根性枝豆】
自宅が丘陵地にあるためか、庭にスズメ・シジュウカラ・ヒワ・キジバト・ムクドリ、春はよくメジロ・ウグイスを見かける。晩秋にはキツツキ類のドラミングも聞こえる。キジも年に何回か裏の椿に泊っているようだ。賑やかな声が聞こえてくる時、そっとガラス戸を開け小豆や大豆の虫食いをまいてやる。その時は一斉に逃げてしまうが、次の日はほとんどなくなっている。ところがある日、庭の通路に枝豆らしきものが生えてきた。もう1か月ぐらいもなったろうか。背丈は伸びないがまだ生きている。名付けて「ど根性枝豆」。この後どうする気なんだろう。興味津々だ。
今年の家庭菜園、“手入れが楽だ”、だけの理由で「豆13種」植えてみた。今のところ上の三段プラス枝豆の収穫が終わったが残りはこれからだ。どんな食べ方をするかもわからず植えたが、しかし、植え付けに大きな問題があった。芽が出てきたときは楽勝のつもりであったが、『背丈の高いもの・低いもの、つる有り・無し、さらに自立するもの・しないもの』と“やちゃくちゃない。”今一番心配なものが紅平豆。この丈が10センチそこそこ。両畝には70センチもあろうかという青黒と秘伝がのしかかっている。草刈りをして初めてそのことを知った。
この紅平豆、さらに実のつけかたが悪い。来年は心して植えてやろう。その他の豆も収穫が待ち遠しい。煮物か塩ふりか、ことこと砂糖で煮ふくめるのか、楽しみだ。と言っても家内に頼むのだが・・・。
今年は真夏日が続く。それでもこの頃、夜更けの虫の音が一段とはっきりとしてきた。時折、顔に涼風が触れると季節の移り変わりを感ずる。『夜の秋』がきた。金田一晴彦の「ことばの歳時記」、8月19日に『けさの秋』がある。“朝起きて、庭におりてみると、もはや夏のものとは思われないような涼風が立ち・・”と、虚子の『土近く朝顔咲くや今朝の秋』を紹介している。俳人ならではの繊細な感覚だ。近寄る秋に思わずほっとするが、過ぎゆく季節に思いが遺っただろうか。
平成28年9月
社長だより vol.20
【文房四宝 その3】
東京在住の方から『おつえと信助の「TO BE CONTINUE」』、続けて、『筆職人信助の作る立派な筆、しかしながら文房四宝のうち使っていくと価値が落ちていくのは筆。鑑賞するには筆毛の管理が大変。墨や硯と筆の違うあやうさ、はかなさを藤沢周平は男と女の間に象徴的に潜り込ませたのでしょうか。はたまた墨に染まった筆毛はもう元には戻れないのか・・』とメールを頂戴しました。
実は、小説の終盤に「信助の届けた筆をおつえが手入れを怠ったため虫食いでボロボロになり、筆を折ろうとしたこと、信助との間が終わったとして泣きつくしたこと、この筆に“輝くようだった若い時分の残光をみて”過去の思い出として大切に保管しようとした」ことが書かれています。そして、結びは、間もなく人手に渡る『暗く長い廊下を歩きながら、おつえは夫に優しい言葉をかけてやりたい気持ちになっている』で終わっているのです。この時の情景を中一弥の挿絵がすべてを呑み込んだかのようにしっとりとラストを飾っています。
実際の挿絵は“てぷっとした”夫が行燈の前に紋付羽織を着て力なく後ろ向きで酒を飲んでいる。おつえは立ち上がって背中合わせだが、声をかけようかと切れ長の目で夫の背中を見ている・・・そんな情景を想像してください。引用は昭和54年5月号太陽特集小説 藤沢周平 歳月より。
ムクゲは八重の赤紫、一重の赤紫と白の3種がある。クチナシは冬囲いをしてやるのだが毎年春に殆ど葉を落とし、心配させるが新芽を吹きだし、甘い香りの真っ白な花を咲かせてくれる。のうぜんかずらは父の大好きな花の一つ、前の家にあったものを銀杏ごと移植したもの。高さは5mもあろうか、土崎の曳山あたりに咲き始め、本格的な夏到来を教える。
私の文房具の中で心残りの硯がある。厚みが5センチぐらいで何の飾りもない手のひらにすっぽり入るような楕円の端渓だ。艶やかながら深みのある漆黒。目の前から見えなくなって20年にもなる。どこに去(い)ってしまったのだろう。墨色の中を流れてゆく私の思いは届くのだろうか。墨色というと福島弘樹さんの文鎮(氏のオブジェとしての芸術作品だが、勝手に私が文鎮と言っている)がある。鉄と銅の合金だ。印材と一緒に眺めていると金属ながら優しく話しかけてくるような温もりを感ずる。
印影も実に面白く和やかさを与えてくれる。写真は私と母(夕子)の朱文の印影。どちらも40年近く前、専門家に篆刻してもらったものだが気に入っている。白文もあるが、「嘉」の字が「由」で届けられ、お蔵入りしている。秋田の長い冬の楽しみは篆刻にして印譜でも作ろうか。書もいいが、印影の自由奔放さは人に見せることもなく気楽で楽しい。書や日本画の展覧会に出掛けても白黒と余白に朱の印影はことさら気になる。
文箱の蓋を開けて、いざ写経、準備はできているがその気になって心を摩っている。これを幾度となく繰り返しているのだからいやはや何とも滑稽な話だ。印肉は丸い磁器製の印池に入っている。ふたの裏に光明朱砂印泥、一両(四文匁:よんもんめ)とある。水滴・筆洗・筆架・印材・筆筒・鎮紙(文鎮)など眺めて愛らしい文房具は、私のような凡人には憧れへの思索に欠かせない道具たちだ。(文房四宝おわり)
平成28年8月
社長だより vol.19
【文房四宝 その2】
『「こんなことになるんだったら・・・」信助がうつむいて、低い声で言った。「いや、こうなるとわかってたら、あのとき…」「だめよ」おつえは鋭い声でさえぎった。「それを言っちゃだめ、信助さん」町にたそがれ色がたちこめるころ、おつえは妹の家を出た。~ 信助が言いかけた言葉を思いだしたとき、おつえは不意に目に涙があふれ、頬を伝うのを感じた。信助が何を言おうとしたかはわかっている。だが、過ぎた歳月は、もう取り返すことができないのだとおつえは思っていた。』
(昭和54年5月号太陽”特集小説 藤沢周平 歳月より、挿絵:中一弥“)
引用の部分は、おつえが妹のさちと信助が暮らす裏店に初めて出向いた日のこと。さちが二人の関係を知ってか知らずかお茶菓子を買いに出て二人だけになった時の場面だ。おつえが嫁いだ材木商上総屋が間もなく人手に渡ろうとしている間際だった。挿絵は信助。
墨 墨というと先ごろ亡くなられた富田勲さんの、NHK新日本紀行のテーマソングと共に紀州で裸一貫、真っ黒になり墨を練るあの光景を思い起こす。墨は松煙墨に限ると聞くが、あまりの重労働で昭和の三十年代でほぼ松を燃やす煙は消えたそうだ。手元にある墨は油煙墨だろう。ナタネ油を燃やして煤をとったものだ。しかし、まだ摩っていないこの墨(写真上段の左端)は価格から見て松煙墨かもしれない。購入した時、産地を聞いておけばよかった。
墨は乾いてから、働き時が30~40年後に最もいい色が出ると言われる。さすれば今がちょうど摩り時だ。しかし文箱から漂う墨の香は何とも落ち着くのである。あと何年生きられるかわからないが心を摩ることに徹したほうがいいのかもしれない。気に入った相性のいい硯でゆったりと紙に向ってこの墨を摩っている自分を思うと楽しくなってくる。墨は摩ればなくなるが墨色として残る。黒色ではあるが様々な墨色に思いを馳せるとますます楽しみになってくる。現代の名工、墨匠 港 竹仙の手になる墨跡を見たいものだ。きっと私はこれからも目肥えを楽しんでゆくのだろう。
紙 友人からお膳を譲り受けた。お膳を包んでいた袋紙、厚手ながらごわごわ音もせずしなやかで感触は布だ。輪島と「印」があるので地域は離れているものの、越前和紙か若狭和紙と勝手に思っている。一方、この存在感のある「印(6×9センチのほぼ黄金比)」が読めない。気になる。読める人はきっと川連(かわつら)だ。「川面漆器伝統工芸館」に出かけた。訪館は初めてだ。おさえがちの外観とは違い一歩はいると穏やかな華やかさに気分が高揚する。玄関ホールに水滴の入った硯箱が展示してあった。蒔絵もいいがデザインが繊細で透明感がありことのほか上品だ。簡単にお断りされるかなと思いながら「印」を読んでもらった。“詳しいことはわからないので理事長に聞きます”とのこと。日曜にもかかわらず、ものの数分である理事の方に駆けつけていただいた。お膳を一目で“『本物の伝統輪島塗です。時代は大正あたり、読み方は「朱(しゅ)の方が、ろいろ とぎだし、とくさん ぬのきせ ほんかたぢ」』”、併せて製法も丁寧にお話しされた。数週間のもやもやが氷解した。館員の方々にも随分とお世話になった。もう一度ゆっくり訪ねてみよう。
左の紙束は茶箱に残された半紙。半切も相当数ある。シミがはいらないようたまに取り出しては眺めている。半紙の中には、画宣紙(がせんし)の他、○○さんからのプレゼントと書いたものがある。懐かしい方の名だ。「手すき、雁皮(がんび)、シミなし」などと書かれたものもある。きっと大事にしまっていたものだろう。『奉書紙』や『鳥の子紙』と思われる紙もある。このまま残してももったいない。寝室の障子に張ったらさぞかし贅沢だろうなあ。
平成28年7月
社長だより vol.18
【文房四宝 その1】
『・・・硯箱は黒漆に、日輪とまさにとび立とうとする鶴を、金、銀と朱漆で描いた蒔絵細工で出来ていた。蓋を開けると、おつえはその中の筆を一本取った。軸は珍しい斑竹で、筆毛は実家の兄の見立てでは、信濃産の馬毛を使っているらしいという。品のいい巻筆だった。・・・』
(引用は昭和54年5月号太陽”特集小説 歳月より、挿絵:中一弥“)
これは藤沢周平の「歳月」という特集小説の一節。読んでいると情景が想いにすっと入り込み心が揺れる。そして、いつも結末を期待させるが、気持ちにうるおいも残さず現実には逆らえないはかない余韻だけを残す。
挿絵は、「おつえが嫁入りの三日前に、幼なじみであった信助が冒頭の筆を届けてきた時、“心も添えてきた”ことを感じ、追い掛けたが会えず、力なく欄干に手を伸ばすシーン」のようだ
宋代の蘇易簡(そいかん)は文房四譜という書物を遺し、同じく宋の蘇東坡(そとうば)は“人、墨を摩らず、墨、人を摩る”と言ったそうだ。共に一千年も前の中国に遡る。解説は誠におこがましい。文房四宝(ぶんぼうしほう)という言葉はその時既に定説であったらしい。文房至宝あるいは文房四友とも言われるが、文房は文人の「書斎」であり、四宝は「筆・硯・墨・紙」を指す。
筆 習字は小学1~3年の頃、有坂先生という70歳代の方に手ほどきを受けた。楽しみは“お稽古”が終わった後のお茶おきにのらない白く固まった羊羹の端っこだった。中学になりお習字を忘れた頃、親の勧めで石田白樹先生(元秋田大学助教授、県文化功労者)のもとに通った。当時の先生の半紙・条幅の手本が今も残っている。上品でゆったりとしたふくよかさに『太宗の書』が浮かぶ。
あれから50年以上になった。ほとんど筆も握ってない。写真は母親が六十の手習いで使ったもの。大半は羊毛筆だが、よく柔らかい筆を使っていたものと思う。羊毛筆は首から脇の下にかけた山毛がいいらしい。また、良い筆は穂先が飴色と聞いていたので数本贈っているだろう。しかし、どれも未使用だ。筆箱をあけるたびに小筆で“写経を想う”のだが未だ果たせないでいる。きっと両親も待っているだろう。筆は使い込めばその良さがわかるという。今もなんとなく穂先をつかい、腹をつかう感覚はあるが、指で顔真卿(がんしんけい)の「之や大」の字をなぞるだけだ。まだ、紙に向うほど胆力はない。「弘法は筆を選ぶ」まで相当に時間がかかる。
硯 硯をみていると、自在な運筆をものにしている自分が浮かぶ、と言ったら笑われてしまう。しかし、硯のしっとりとした質感に不思議な安堵感がある。日本の武家社会での論功行賞は領地がほとんどと思うが、古来中国では硯こそが皇帝から下賜されていたという。その優れた硯の代名詞が「端渓」(たんけい)と言われる。紫を基調にして黒、青、紅・灰褐色など様々な色彩があると言われ、「紋様・斑紋や眼」などを持っているものもある。写真は端渓といわれて求めたものだが、全体が暗紫赤褐色で陸(おか)の右下に落款のような「赤い眼」を持っている。肌は手になじみ、つい文人の夢を見てしまう。端渓の他に雑誌でしか見たことがない幻の洮河緑石(とうがりょくせき)、蘭亭硯(らんていけん)など艶やかな風格を持つ硯を是非拝見したいものだ。
一昨年、新秋田県立美術館長の平野庫太郎さんの手になる陶磁硯に出会った。“これが陶器のすずりか!”。硯は「石」という思い込みもあったが、文房を書いた雑誌をみると、「墨を摩れるものすべてが硯」、そして、日本に優れた硯石がなかったので陶硯が非常に多かったことへの記述もあった。到底文人を夢見ることは無理だ。写真は平野さんの『輪花文(りんかもん)、辰砂釉(しんしゃゆう)硯(直径は約13㎝、陸の直径は8㎝)、右は辰砂釉水滴、直径約6.5㎝』。摩ってみたい気もあるが、心を摩った方がいいようだ。
平成28年6月
社長だより vol.17
【大豆と小豆(あずき)その3】
出張先に“お菓子の鯛が届いています”とのこと。聞き直すと“馬口労町のお菓子屋さんから、私へ、と1枚多く作った”由。“雲平鯛だ”。老舗のこだわりにあれこれ思いをめぐらし帰社した。ずしりと重さを感ずる。家で計ってみると450グラムピッタリだ。旬の桜鯛のよう、いや雲平桜鯛だ。生きているようなしなやかさがある。餡子は小豆から手抜きのないしっとりとした晒し餡。普段食べない家内までも“この雲平はおいしい”と一緒にいただいた。
依頼主の心遣いの祝い事に思いが馳せる。
一方、なぜこの雲平鯛の頭が右向きなのか気になる。店主に伺っても、“この跳鯛(はねだい)は昔から作っているので”と、理由はわからない。それにしても見事な彫型だ。精緻な手仕事には驚きだ。秋田で彫れる職人は先ごろ絶えたそうだ。
箱詰めは同老舗の祝い用料理菓子で、結婚式の引き菓子だ。これだけ見後な引き菓子は見たことがない。「鯛は生雲平、エビとサザエと巾着は煉切り、かまぼこは波をあらわした雲平、羊羹は白小豆を水色に染めたもの」だそうだ。“こんな引菓子を注文したい”。
風薫る五月。遅い春を告げた椿も散りだした。“今年は「椿餅」を食べなかったなー・・・”写真は藪椿に絞りと白を接ぎ木した父の自慢の一品。今年も咲いたよ!
花岡謙二編の日本植物歌集、椿の項に、正岡子規・伊藤左千夫・与謝野晶子・若山牧水・北原白秋・岡本かのこと並んで、嬉しいことに“平福百穂”の名がある。『くれなゐの道はかなしも玉椿ぬれ葉のかげにふふみけるかも』と。
ところで、独りよがりの甘味C級グルメ3品。
『向能代の羊羹、かまだの酒饅頭、後三年道の駅雁の里おやき』
羊羹は亡くなった先代にごちそうになったもの。大釜についた羊羹の「こげ」で、木べらで削いで“まず、食べてみれ!”と。しつこい甘みもなく小豆の味そのもの。小倉羊羹のような小豆が切り口に当たりうす白い潤みを帯びて見える華やかさはないが、今も先代のもてなしが舌に残る。
酒饅頭は昭和30年過ぎ、秋田駅前の元金座街と呼ばれた商店街にあった食堂の酒饅頭。(数年前廃業)テレビの出初めに家族四人市電に乗って出かけ、食堂で酒饅頭を食べながら相撲を見るささやかな団らんであった。湯気の中に納まっている酒饅頭。芳醇な酒の香りは今もって類を見ない。
おやきは製造者が二人だが、形が“ごろっ”とし、皮が米粉の方だ。棚に見えなくなり、店員に聞いたらおばあさんが亡くなったと聞く。私流の食べ方は、冷凍後オーブンで表面をこんがりと焼いて食べるというものだ。皮は香ばしく熱々で、粒餡は冷たく絶品だった。
残念ながら3品、いずれも今は手(口)には入らない。
平成28年5月
社長だより vol.16
【大豆(だいず)と小豆(あずき) その2】
春蘭が人知れずひっそりと花芽を持ち上げ始めた。もう40年も前に西目町の砂防林から採取したものだ。地味だが花の形は目をくぎ付けにする自己主張がある。トロ箱2箱を会社に持ち帰ったらあっという間に空になっていた。兄弟たちは元気でいるだろうか。
馬酔木(あせび)の花も目立たないが、一雨来るといっそう我もわれもと芽吹き、春の移ろいにうきうきさせられる。中でも、毎年秋に頭を刈り取られる“ねこやなぎ”。私は“めめんこ”と呼んでいるが、柔らかな銀色の産毛は子供への記憶をたどる。
ある日の昼下がり、いきなり“70円ですか?90円ですか?110円ですか?”“えっ”なおも電話の主はたたみかけてくる。“山吹饅頭です!”頭の中が混乱する。さらに“葬式饅頭とも呼ばれているそうです、いいんですか?お土産にも使われています”とのこと。単語の連発。脈絡がない。ますますわからなくなった・・。いずれにしても食べないことを頑なに守ってきた葬式饅頭。“あなたに罪はないが私は知らずに食べていたのか?”
この饅頭の存在を知ったのがにかほの絶品醤油ラーメン店、飛島出身のご主人からだ。私は人知れず出会ったことのない「ご当地甘味C級グルメ」を密かに発見することを出張の楽しみにしている。ちなみにC級の定義は、そこの店だけで販売していることが唯一の条件だ。餅きり、干菓子、饅頭など一切ジャンルにこだわりはない。但し、洋菓子系は頭に無い。
いつも通りご主人に探りを入れてみた。“ここには無い”の一点張りで取り付く島もない。しかし、なかなか帰らない私を見て、小柄な体をパイプ椅子に埋め、“酒田にはある、晒し餡のいい饅頭がある”。丸メガネの奥からひびの入ったコンクリートの床をみながらしんみりと語り始めた。“飛島から出て、酒田の菓子舗で働いていた。独立めざし、この場所で開店した。しかし、あの餡子が出来なかった・・・、それで飛魚だしを使って今のラーメン店を始めたんだ”そうだ。早速、くだんの菓子舗に飛んで行ったことは言うまでもない。確かにさらりとした品のある甘みだ。宅配で送ってもらおうかと思っていた矢先、あの矢継ぎ早の電話。結局頂いたが食べなかった。
この頃はあちこちでおいしいと言われる饅頭が出ているが、なぜかピンとこない。きっと昔の餡子が脳にへばりついているのだろう。写真は「雲平鯛」。尺物と言いたいところだが、私の親指と薬指をひろげたくらいで約七寸というところか。餡子が変わっている。いわゆるあずき色ではなく茶色でぱさぱさしている。甘みはあるが、甘いという感覚ではない。昭和20年~30年前半の結婚式の引き出物にはこの「雲平鯛か山科のお頭付き、あるいは焼き型の付いた固い粉菓子の鯛」がついてきたものだ。あの歯の折れるような粉菓子、母親は4等分するのだが大きさに満足した記憶はない。
平成28年4月